集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第20回・明治神宮競技大会と「人生の道場」との邂逅)

2017-01-28 09:55:48 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 「明治神宮競技大会」なる大会が始まったのは大正13年のこと。
 内務省の所管する大会で、「明治天皇の聖徳を憬仰(けいこう。偉大なものを敬い慕う)し、国民の身体鍛錬、精神の作興に資す」との大会で、柔道、剣道、相撲といった格闘技や、ア式蹴球(サッカー)、ラ式蹴球(ラグビー)、排球、篭球など、全15種目(第1回大会。爾後増え続ける)が行われておりました。
 なお現在も、11月に「明治神宮野球大会」という名前の野球大会が大々的に行われておりますが、戦前の明治神宮競技大会は、こんにちの神宮大会よりも、むしろ国体に近い色合いを持つ競技大会でした。

 当時大人気の中等学校野球は、同大会でも第1回から行われておりました。
 出場校の選抜方式は、春夏の甲子園で顕著な成績を挙げた学校が内務省により直接選ばれるという、現在の国体高校野球競技の出場校チョイス方法に極めて近いものでした。

 大正14年10月5日。柳井町に驚くような吉報が届きました。
 内務省はこの日、第2回明治神宮競技大会中等野球選抜野球競技の出場校を発表。その栄えある出場8校の中に、柳井中学が入っていたのです。
 選出8校は以下の通りです。
高松商業・早稲田実業・第一神港商業・大連商業・長野商業・静岡中学・愛知一中(現・愛知県立旭丘高校)・柳井中学(補欠・和歌山中学・長崎商業)

 夏優勝&春準優勝の高松商業と、夏準優勝の早実は文句なしの当選。夏ベスト4の第一神港商業と大連商業も当確。夏ベスト8に残った学校からは、柳井中と静岡中学が選ばれています。
 残りの2校、愛知一中と長野商業の選出理由…これはあくまで著者私見ですが、「春夏連続で出場」だけではなかったのでは、と思います。

 この年の春のセンバツでは、高商、早実のほか、兵庫の甲陽中学(現・甲陽学院高校)と鹿児島の鹿児島一中(現・鹿児島県立鶴丸高校)がベスト4に入っていますが、これは神宮大会出場に際し、全く歯牙にもかけてもらっていません。これはおそらく、センバツという大会自体のネームバリューがまだまだ低かったためと思われます。
 すでにネームバリューのあった夏の甲子園のベスト8に残ったにも関わらず選出を逃したのは、長崎商業と敦賀商業。それでも長崎商業は補欠校に名を連ねているのでまだいいのですが、敦賀商業に至っては落選です。
 それら非選出校になく、愛知一中と長野商業にあったものといえば、「春夏連続出場」という冠だけなのです。

 それはともかく、明治大帝を祀る明治神宮の名が冠された大会に出場できるということで、柳井町民はもとより、当事者である柳井中学ナインはいやがうえにも奮い立ちました。

 初めて帝都東京に赴いた柳井ナインは試合に先駆け、宮城に詣で、靖国神社に詣で、明治神宮に詣で、地域や学校のの弥栄を祈願しました…が、実はこのときの上京で、オッチャンは自身の人生に最も影響を及ぼし、宮城にも靖国神社にも、明治神宮にも勝る「道場」「殿堂」となる場所と初めて邂逅することとなります。
 その「殿堂」とは…この大会の舞台となった戸塚球場です。

 「戸塚球場」といえば、東京六大学野球ののファンにはお馴染みの名前でしょう。
 早大の野球部創設から、昭和63年に東伏見にメイングラウンドが移転するまでの間、早大野球部の本拠地であり続けた球場です。
 この戸塚球場は、ただ早大の練習場として存在しただけでなく、東京府内(当時は東京府)にまだまだ専用球場の少なかった戦前には、各種公式戦の開催できる希少な球場としての役目も果たしていたのです。
 ちなみに大正14年当時、神宮球場はまだ建設中でした。
 
 「戸塚球場」あるいは「戸塚グラウンド」と呼ばれた、早大野球部専用グラウンドの歴史は、古く明治35(1902)年まで遡ります。
 早大がまだ「東京専門学校」、その野球部が「チアフル倶楽部」という、同好会と呼ぶのもおこがましいようなクラブだったころ、なぜかその世話をなにくれとなく見てくれていた奇特な予科部長・安部磯雄が、近所の富農から農地を有償で借り上げて整地した4000坪ほどのグラウンドこそが、この「戸塚球場」の発祥となります。
 長く借地時代が続きましたが、明治の末年から大正の初年頃、その富農が土地を破格の安値で早大に売却したため、戸塚球場は名実ともに早大の所有地となりました。
 グラウンドが早大の所有物となったころには、ラグビー部や陸上部などが「学生皆の土地を、野球部だけが占有するとはけしからん」と強談判に及んだことがたびたびあったそうですが、その都度説得の上はねつけ、野球部の聖地として死守した、と飛田穂洲先生の著書にはあります。

 府内に球場が少なかった明治末期から大正にかけ、戸塚球場は慶大のグラウンドであった三田綱町球場と共に、各種野球公式戦の舞台として活用されましたが、しょせんグラウンドに毛が生えた程度の設備しかなく、観戦設備は実にお粗末なものでした。
 このころ、野球部長になっていた安部磯雄は早大野球部のアメリカ遠征を契機に「鍛錬の場所としても、試合をする会場としても、戸塚球場に本格的なスタンドを作り、観戦設備を整えることは急務である」と志向、その必要性を訴え続けていましたが、ちょうどこの大正14年、予算請求に最適なできごとが立て続けに勃発しました。
 その理由こそがこちら↓

①春のリーグに試験参加した東京帝大が好成績を記録し、秋のリーグから東京帝大が参画した「東京六大学野球リーグ」発足が決定。常打ち球場の確保が喫緊の課題となった
②同じ秋のリーグ戦において、明治39年以来となる久々の早慶戦が復活する運びとなり、大観衆を収容できる球場設備の確保が急務となった
③早大ーシカゴ大学の定期戦(明治43年の早大アメリカ遠征を契機に、5年ごとに日米双方で招待試合をするという約束をしていたもの)がこの秋に行われることとなっており、招待する早大側はきちんとした観客席を持つ「ボールパーク」を整える必要があった

 安部部長はこれを、戸塚球場の施設拡張の好機ととらえ理事会に諮問。理事会もことの重大さをすぐに察知し、5万円の予算拠出を採択します。
 この設備投資により、戸塚球場は当時の東京府内としては破格の、25000人が収容できるコンクリート製スタンドを持つこととなり、その数年前に整備された外野のフェンスと併せ、本格的球場設備を備えた「球場」としての体裁が整えられました。
 上京したてのオッチャンが見た戸塚球場は、そのスタンドが竣工したまさに直後。しかも内野には、植木屋が「一升いくらで売り買いできる」という高級な砂が敷き詰められていた状態。
 海砂まじりの劣悪なグラウンドで練習していたオッチャンにすれば、戸塚球場は光り輝くような、聖なる野球殿堂にみえたことでしょう。

 オッチャンはこれまで、早大野球部と関係の深かった鈴木監督の薫陶を受け、夏には毎年、臨時コーチである早大のスタープレーヤーの指導を受け、早大の野球に漠然としたあこがれや期待を抱いていました。
 しかし、初めて見る戸塚球場はオッチャンの想像を超えてはるかに立派であり、そのフィールドで躍動する早大野球部は、この数週間後、初めてシカゴ大学相手に勝ち越し、「打倒シカゴ大学」に燃える早大の宿願を初めて果たす強豪メンバー。
 当時日本一美しいフィールドに躍動する、日本一の技術を持つ野球部を見たオッチャンが「ワセダで野球をやるんじゃ!」と決意したのは、おそらくこの時であったことは想像に難くありません。

 戸塚球場は、WASEDAのユニホームにそでを通したオッチャンの文字通りの「道場」となったのですが…今回のお話は、その2年前のことになります。

【第20回・参考文献】
・「私の野球生活」杉田屋守著 杉田屋卓編 私家版
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「熱球三十年」飛田穂洲 中公文庫
・「ニッポン野球の青春」菅野真二 大修館書店
・「東京六大学野球連盟結成90周年シリーズ6 早稲田大学野球部」ベースボールマガジン社
・フリー百科事典ウィキペディア「戸塚球場」の項目