「野心時代」の懊悩に苦しみ、結果を出せないまま、ただ厳しい練習の日々だけが過ぎていき、心身ともにクタクタのオッチャン。
周防岩国から出てきて、野球で身を立てようなどと思ったのは考え違いだった。所詮は井の中の蛙であった。もう、何もかも打っ棄って田舎に戻りたい…。
当時のオッチャンは精神的にもかなり追い詰められており、実際このようなことを真剣に、柳井中同窓の井上高明(当時慶大)や、加島秋男(当時立大)に相談していました。オッチャンの才能をよく知っている井上や加島は当然、必死に押しとどめましたが…。
そんな救いのない日々を過ごしているオッチャンは、一編の詩と邂逅します。
「野球は宗教である。血に燃ゆる青年の宗教である。グランドは吾信徒日夕勤行の殿堂である。
空に響くノックの音は美しき礼拝の鐘の音である。審判官の厳粛なる声は、聖壇上の高僧祈祷の声。数千の口より迸る声援歌はドウムに反響する唱歌隊の合唱。すがすがしきユニホームに「しっかり行け」が吾人の讃美歌である時、胸中の汚塵去り、六根清浄として感激の涙自ら下るのである。
此処に吾人の天地がある。此処に吾人の楽園がある。此処に吾人青年が建設せる地上の楽園がある」※
学生野球の状況とその本質を躍動感たっぷりに、そして若干キリスト教くさく賛美したこの詩に、オッチャンは頭をぶっ叩かれたような衝撃を覚えました。
オッチャンはこの後、夏休みごとに柳井中学に戻るたび、後輩どもにこの詩を暗唱するよう半ば強制的に命じたそうですから、その衝撃のほどがわかるでしょう。
この詩の作者は早大野球部の父・安部磯雄元野球部長(元治2(1865)~昭和24(1949)年)。
安部部長については第20回で少しお話ししましたが、言わずと知れた早大野球部生みの親でもあり、育ての親。
現在の福岡市に生まれた安部は同志社に学んだのち、同志社開学の祖・新島襄のすすめもあって牧師と教育者の二束草鞋を履くようになり、明治32年より早大(当時は東京専門学校)講師に就任、爾後、ずっと早大と縁を持ち続けます。
ほかにも社会主義運動の先駆者としても知られ、時には暴漢に襲われたり、腸チフスや赤痢に倒れたり、交通事故に遭遇したりしつつも、決して節を曲げることなく、生涯を早稲田の学生と社会主義に捧げた、気骨ある教育者・政治家でした。
(現在でこそ、社会主義と言えば世界を不幸に叩き落した一種の「カルト宗教」であることが分かっていますが、当時はまだその研究途上であり、社会経験の乏しいインテリほど「社会主義は、地上に平等と秩序をもたらすもの」と認識していたのです)
オッチャンはクリスチャンではありませんが、ハワイ出身で、もともとキリスト教とは肌合いが悪くなかったこともあり、この詩の世界観に大いに魅せられ、死ぬまでこの詩を座右の銘としました。
野球をもういちどまじめに探求しよう。その途上で負けることもあれば、失敗することもあるが、それは精神・技量において勝者に劣っているからではない。精神・技量を磨いていれば、いずれ時宜が味方する。そのように捲土重来を期して努力する者こそが真の勝者だ…
自分には何ができて、何が不可能なのか。できることを伸ばすには何をなすべきかを再度まじめに考え、それを実現すべく、人に倍する練習をしよう。ほかのスタープレーのマネはできない。ハデさもいらない。確実、堅実が、自分に一番あっているのだ…
オッチャンは再び、歩き始めました。
※ オッチャンが「野球界」26巻1号に寄稿した同詩は、文言が若干異なります。
「野球は宗教だ。
野球は宗教である。血に燃ゆる青年の宗教である。吾信徒日夕勤行の殿堂である。
空に響くノックの音は美しき礼拝の鐘の音である。幾千万人の声援歌はドームに反響する唱歌隊の合唱か?白きユニホームに確り(しっかり)行けが吾人唯一の讃美歌である時、胸中の汚塵去り、六根清浄として感激の涙自ら下るのである。
此処に吾人の天地あり、此処に吾人青年の建設せる地上の楽園がある」
弊「杉田屋守伝」では、どちらを取るか迷いましたが、オッチャンのご子息である杉田屋卓氏が「私の野球生活」に採用しているのが前者であったことから、そちらを採用することとしました。
【第40回参考文献】
・「杉田屋守 私の野球生活」杉田屋守著 杉田屋卓編 私家版
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「早稲田大学野球部五十年史」飛田穂洲編
・「野球界」 第22巻6号【昭和7年】、第26巻1号【昭和11年】
・フリー百科事典ウィキペディア「安部磯雄」の項目
周防岩国から出てきて、野球で身を立てようなどと思ったのは考え違いだった。所詮は井の中の蛙であった。もう、何もかも打っ棄って田舎に戻りたい…。
当時のオッチャンは精神的にもかなり追い詰められており、実際このようなことを真剣に、柳井中同窓の井上高明(当時慶大)や、加島秋男(当時立大)に相談していました。オッチャンの才能をよく知っている井上や加島は当然、必死に押しとどめましたが…。
そんな救いのない日々を過ごしているオッチャンは、一編の詩と邂逅します。
「野球は宗教である。血に燃ゆる青年の宗教である。グランドは吾信徒日夕勤行の殿堂である。
空に響くノックの音は美しき礼拝の鐘の音である。審判官の厳粛なる声は、聖壇上の高僧祈祷の声。数千の口より迸る声援歌はドウムに反響する唱歌隊の合唱。すがすがしきユニホームに「しっかり行け」が吾人の讃美歌である時、胸中の汚塵去り、六根清浄として感激の涙自ら下るのである。
此処に吾人の天地がある。此処に吾人の楽園がある。此処に吾人青年が建設せる地上の楽園がある」※
学生野球の状況とその本質を躍動感たっぷりに、そして若干キリスト教くさく賛美したこの詩に、オッチャンは頭をぶっ叩かれたような衝撃を覚えました。
オッチャンはこの後、夏休みごとに柳井中学に戻るたび、後輩どもにこの詩を暗唱するよう半ば強制的に命じたそうですから、その衝撃のほどがわかるでしょう。
この詩の作者は早大野球部の父・安部磯雄元野球部長(元治2(1865)~昭和24(1949)年)。
安部部長については第20回で少しお話ししましたが、言わずと知れた早大野球部生みの親でもあり、育ての親。
現在の福岡市に生まれた安部は同志社に学んだのち、同志社開学の祖・新島襄のすすめもあって牧師と教育者の二束草鞋を履くようになり、明治32年より早大(当時は東京専門学校)講師に就任、爾後、ずっと早大と縁を持ち続けます。
ほかにも社会主義運動の先駆者としても知られ、時には暴漢に襲われたり、腸チフスや赤痢に倒れたり、交通事故に遭遇したりしつつも、決して節を曲げることなく、生涯を早稲田の学生と社会主義に捧げた、気骨ある教育者・政治家でした。
(現在でこそ、社会主義と言えば世界を不幸に叩き落した一種の「カルト宗教」であることが分かっていますが、当時はまだその研究途上であり、社会経験の乏しいインテリほど「社会主義は、地上に平等と秩序をもたらすもの」と認識していたのです)
オッチャンはクリスチャンではありませんが、ハワイ出身で、もともとキリスト教とは肌合いが悪くなかったこともあり、この詩の世界観に大いに魅せられ、死ぬまでこの詩を座右の銘としました。
野球をもういちどまじめに探求しよう。その途上で負けることもあれば、失敗することもあるが、それは精神・技量において勝者に劣っているからではない。精神・技量を磨いていれば、いずれ時宜が味方する。そのように捲土重来を期して努力する者こそが真の勝者だ…
自分には何ができて、何が不可能なのか。できることを伸ばすには何をなすべきかを再度まじめに考え、それを実現すべく、人に倍する練習をしよう。ほかのスタープレーのマネはできない。ハデさもいらない。確実、堅実が、自分に一番あっているのだ…
オッチャンは再び、歩き始めました。
※ オッチャンが「野球界」26巻1号に寄稿した同詩は、文言が若干異なります。
「野球は宗教だ。
野球は宗教である。血に燃ゆる青年の宗教である。吾信徒日夕勤行の殿堂である。
空に響くノックの音は美しき礼拝の鐘の音である。幾千万人の声援歌はドームに反響する唱歌隊の合唱か?白きユニホームに確り(しっかり)行けが吾人唯一の讃美歌である時、胸中の汚塵去り、六根清浄として感激の涙自ら下るのである。
此処に吾人の天地あり、此処に吾人青年の建設せる地上の楽園がある」
弊「杉田屋守伝」では、どちらを取るか迷いましたが、オッチャンのご子息である杉田屋卓氏が「私の野球生活」に採用しているのが前者であったことから、そちらを採用することとしました。
【第40回参考文献】
・「杉田屋守 私の野球生活」杉田屋守著 杉田屋卓編 私家版
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「早稲田大学野球部五十年史」飛田穂洲編
・「野球界」 第22巻6号【昭和7年】、第26巻1号【昭和11年】
・フリー百科事典ウィキペディア「安部磯雄」の項目