五輪という檜舞台でのメダル獲得を狙って様々な謀略を巡らせておきながら、自分の足を自分で引っ張って自滅した講道館には、体協を始めとしたスポーツ界隈から白い眼が向けられ、五輪後はしばらく、地下に潜伏せざるを得ませんでした。
小谷、吉田の両選手には五輪終了と同時に、「派遣解除」の命を出し、ふたりは逃げるようにして日本に帰国しました。小谷の渡米が五輪開会式約3ケ月前の4月16日、撤退が8月末日。おお、満鉄の社命にしては、なんという偶然でしょうか(;^ω^)。
こうしてとりあえず、ロス五輪を悪用した「講道館の猿芝居」は全て終わりを見ました。
国辱のようなマネをして大失敗した挙句、地下に潜伏した講道館レスリング部を尻目に、八田一朗率いる大日本アマレス協会だけは意気軒高でした。
早大レスリング部員・佐藤竹二の姉による高額寄付を元手に、大隈講堂裏手に日本初のアマレス専用道場(体育協会史に「バラック」と書かれた粗末なもの)を設置して本格的な練習を開始した早大レスリング部は、オリンピック翌年の昭和8(1933)年にはハワイ遠征を実施。さらには全国の中等学校への巡回講習等の活動といった地道な活動が実を結び、昭和9(1934)年、アマレス協会は体協が認可するわが国唯一のレスリング競技統括団体となります。
天下晴れて統括団体の認可を受けたアマレス協会は同年、ほんとうにきちんとした「全日本選手権大会」を開催したのですが…この大会に、地下に潜伏していた「亡霊」が起きて出てきたのです。
言うまでもなくその亡霊の名は、講道館レスリング部。講道館レスリング部はまだ「日本レスリングのイニシアチブ獲得」をあきらめていなかったのです。
フリースタイル・ライト級の決勝に勝ち進んだのは、早大レスリング部のホープ、わずか19歳(戦前は数え年なので、満17~18歳くらい)の風間栄一。
風間は新潟商業学校で相撲部に所属しており、早大高等学院に入ってからレスリングで叩き上げたという、柔道の手あかに染まっていない「純粋培養レスラー」。八田も大きな期待をかけていました。
もう一人の決勝進出者は…「専大柔道部にその人あり」と言われた柔道の大豪・矢田部勇次五段。
じつは矢田部五段、小谷や吉田に続く講道館レスリング部の次期エースと目されており、五輪後まる1年息をひそめていた講道館レスリング部が再起を賭けるのに、うってつけの選手でした。
小谷、吉田の両選手には五輪終了と同時に、「派遣解除」の命を出し、ふたりは逃げるようにして日本に帰国しました。小谷の渡米が五輪開会式約3ケ月前の4月16日、撤退が8月末日。おお、満鉄の社命にしては、なんという偶然でしょうか(;^ω^)。
こうしてとりあえず、ロス五輪を悪用した「講道館の猿芝居」は全て終わりを見ました。
国辱のようなマネをして大失敗した挙句、地下に潜伏した講道館レスリング部を尻目に、八田一朗率いる大日本アマレス協会だけは意気軒高でした。
早大レスリング部員・佐藤竹二の姉による高額寄付を元手に、大隈講堂裏手に日本初のアマレス専用道場(体育協会史に「バラック」と書かれた粗末なもの)を設置して本格的な練習を開始した早大レスリング部は、オリンピック翌年の昭和8(1933)年にはハワイ遠征を実施。さらには全国の中等学校への巡回講習等の活動といった地道な活動が実を結び、昭和9(1934)年、アマレス協会は体協が認可するわが国唯一のレスリング競技統括団体となります。
天下晴れて統括団体の認可を受けたアマレス協会は同年、ほんとうにきちんとした「全日本選手権大会」を開催したのですが…この大会に、地下に潜伏していた「亡霊」が起きて出てきたのです。
言うまでもなくその亡霊の名は、講道館レスリング部。講道館レスリング部はまだ「日本レスリングのイニシアチブ獲得」をあきらめていなかったのです。
フリースタイル・ライト級の決勝に勝ち進んだのは、早大レスリング部のホープ、わずか19歳(戦前は数え年なので、満17~18歳くらい)の風間栄一。
風間は新潟商業学校で相撲部に所属しており、早大高等学院に入ってからレスリングで叩き上げたという、柔道の手あかに染まっていない「純粋培養レスラー」。八田も大きな期待をかけていました。
もう一人の決勝進出者は…「専大柔道部にその人あり」と言われた柔道の大豪・矢田部勇次五段。
じつは矢田部五段、小谷や吉田に続く講道館レスリング部の次期エースと目されており、五輪後まる1年息をひそめていた講道館レスリング部が再起を賭けるのに、うってつけの選手でした。
意地悪い見方をすれば講道館は、新免伊助・小谷澄之・吉田四一といった「鉄砲玉柔道家」たちの失敗から何も学ばず、またしても柔道の高段者でアマレスの派遣を握ろうとしたわけです。本当に救いようがありません。
大方の予想は「矢田部圧勝」でしたが…なんとこの予想を裏切り、勝負は僅差の判定で風間が勝利。
この勝利については「ジャッジが早大系だったから風間が勝った」という噂が絶えませんでしたが、レスリングを初めて2~3年の若者が、わが国の柔道史上、選手のレベルが最も高かった時代のトップ選手と互角以上の戦いをしたという事実は間違いなく、「やはりレスリングはレスリングの練習をしなくちゃダメだ」という八田や体協の見解が、ようやく満天下に知らしめられたわけです。
しかし、執念深さと嫉妬深いさでは人後に落ちない講道館レスリング部は、八田にとんでもない「復讐」をしかけます。
翌昭和10(1935)年4月、専修大学にレスリング部が発足しましたが、その陣容を見た八田は、わが目を疑いました。
なんとその陣容は先の矢田部や、矢田部の敗戦にいきり立って「風間を(物理的に)殺す!」と息巻いていた矢田部の後輩部員・住吉壽(すみよし・ひさし。なんと大学生のくせに、玉ノ井遊郭の用心棒をしていた( ゚Д゚)ので、「物理的」というのはガチだったんです)などなど、講道館レスリング部の面々ばかりで構成されていたのです。
詳細はだいぶ端折りますが、八田率いるアマレス協会(≒早大レスリング部)と専大レスリング部(≒講道館レスリング部の亡霊)との戦いは、この直後に行われたベルリン五輪予選の選手選考に始まって、大東亜戦争をはさんで、昭和27(1952)年の八田会長排斥クーデター(専大レスリング部監督の畠山達郎らが明大レスリング部幹部を抱き込み、「八田はカネに汚い、不明朗会計がひどい」ということを理由に会長不信任案を提出。八田を追い落としてお飾りの会長を立て、自分たちがアマレス協会を牛耳ろうとした事件)まで続き、八田を大いに苦しめることとなりました。
けっきょく八田と「講道館レスリング部の亡霊」との闘いは、昭和29(1954)年のレスリング世界選手権東京大会の開催を前に、「世界大会をやるのに、ケンカなんかしてる場合じゃない」という形でウヤムヤのうちに収束するまで、実に20年以上も続いたわけです。
本連載のシメに、上記の八田会長排斥運動の際、造反組・明大側の幹部でありながら「八田信任」に票を投じ、八田の続投を支えた明大OB・村田恒太郎の言葉を書き残します。
「八田は早稲田ばかりひいきして、協会の役員もほとんど早稲田。だからもちろん八田批判はあったさ。でも造反組は戦前から反早稲田勢力でアタマの悪いヤツらばかり。単なる八田憎しで何のポリシーもなかった。」
村田の言葉はこのクーデター問題のみならず、日本スポーツ界が誇る一代の傑物・八田一朗のやることなすことを全て邪魔し続け、日本レスリングの発展を阻害した汚物である「講道館レスリング部」の本質と、それを野放しにした晩年の治五郎先生の不明の双方を、正確に表現しています。
以上、8回にわたって講道館公式HPはおろか、講道館が山ほど発行してきた公刊雑誌・史書からもその存在を抹殺されている「講道館レスリング部」の誕生から滅亡までの歴史を見てまいりました。
こうやって「講道館レスリング部」の陰謀や悪行、そしてそれが上滑りしての大失敗の数々を仔細に眺めていきますと、講道館レスリング部はオリンピックという国際スポーツの祭典を「日本レスリング界のイニシアチブ獲得」という薄汚い野望を実現するための道具と化し、散々ひっかきまわしたという点において、「嘉納健治伝」で紹介した「サンテル事件」を大幅に超えて悪質なできごとと言わざるを得ません。
そのあたりは講道館も後ろめたさが相当あったようで、「レスリング部」に関する記録や資料を、驚くほどきれいに消し去り、あるいは核廃棄物並みの封印を施して、全てを亡きものにしています。
このあたりは、外務省が「外交電報」を、満州事変まではきっちり残しているクセに、自らのミスや不手際を隠すため、シナ事変から敗戦までのものを全て焚書したのと全く一緒です。
そうした事情から、「講道館レスリング部」の当事者が残した資料が驚くほど少ないなか、最も参考になったのは「大日本体育協会史」と「オリムピック大会報告 第10回」の2冊。
八田や小谷の自伝も大変参考になったのですが、けっきょくは「当事者」の証言ですので、話を美化したり、盛ったり、あるいは意図的に記載を避けている箇所がけっこう見受けられました。
しかし体協は、柔道やアマレスとは一線を画した統括団体ですから、その記録は詳細、かつ、戦評は非常に公正で、「講道館レスリング部」の闇を照らす懐中電灯の役割を果たしてくれました。
ワタクシが体協の岸清一会長(当時)や平沼亮三選手団長(当時)らに深く感謝したのは、言うまでもありません。
講道館レスリング部とは我が国のスポーツ史に短期間だけ咲いた、黒く汚い「悪の華」であり、燦然?と輝くひどい「黒歴史」でした。
【本連載は、以下の書籍を参考としました】
「私の歩んできた道」八田一朗 立花書房
「勝負根性」八田一朗 実業之日本社
「柔道一路 海外普及に尽くした五十年」小谷澄之 ベースボール・マガジン社
「柔道年鑑」 昭和40年版
「秘録日本柔道」工藤雷介 東京スポーツ社
「大日本体育協会史 下巻」大日本体育協会編・刊
「オリムピック大会報告 第10回」大日本体育協会編 三省堂
「新体育」第25巻8号(昭和30年) 新体育社
「日本レスリングの物語」柳澤健 岩波書店
大方の予想は「矢田部圧勝」でしたが…なんとこの予想を裏切り、勝負は僅差の判定で風間が勝利。
この勝利については「ジャッジが早大系だったから風間が勝った」という噂が絶えませんでしたが、レスリングを初めて2~3年の若者が、わが国の柔道史上、選手のレベルが最も高かった時代のトップ選手と互角以上の戦いをしたという事実は間違いなく、「やはりレスリングはレスリングの練習をしなくちゃダメだ」という八田や体協の見解が、ようやく満天下に知らしめられたわけです。
しかし、執念深さと嫉妬深いさでは人後に落ちない講道館レスリング部は、八田にとんでもない「復讐」をしかけます。
翌昭和10(1935)年4月、専修大学にレスリング部が発足しましたが、その陣容を見た八田は、わが目を疑いました。
なんとその陣容は先の矢田部や、矢田部の敗戦にいきり立って「風間を(物理的に)殺す!」と息巻いていた矢田部の後輩部員・住吉壽(すみよし・ひさし。なんと大学生のくせに、玉ノ井遊郭の用心棒をしていた( ゚Д゚)ので、「物理的」というのはガチだったんです)などなど、講道館レスリング部の面々ばかりで構成されていたのです。
詳細はだいぶ端折りますが、八田率いるアマレス協会(≒早大レスリング部)と専大レスリング部(≒講道館レスリング部の亡霊)との戦いは、この直後に行われたベルリン五輪予選の選手選考に始まって、大東亜戦争をはさんで、昭和27(1952)年の八田会長排斥クーデター(専大レスリング部監督の畠山達郎らが明大レスリング部幹部を抱き込み、「八田はカネに汚い、不明朗会計がひどい」ということを理由に会長不信任案を提出。八田を追い落としてお飾りの会長を立て、自分たちがアマレス協会を牛耳ろうとした事件)まで続き、八田を大いに苦しめることとなりました。
けっきょく八田と「講道館レスリング部の亡霊」との闘いは、昭和29(1954)年のレスリング世界選手権東京大会の開催を前に、「世界大会をやるのに、ケンカなんかしてる場合じゃない」という形でウヤムヤのうちに収束するまで、実に20年以上も続いたわけです。
本連載のシメに、上記の八田会長排斥運動の際、造反組・明大側の幹部でありながら「八田信任」に票を投じ、八田の続投を支えた明大OB・村田恒太郎の言葉を書き残します。
「八田は早稲田ばかりひいきして、協会の役員もほとんど早稲田。だからもちろん八田批判はあったさ。でも造反組は戦前から反早稲田勢力でアタマの悪いヤツらばかり。単なる八田憎しで何のポリシーもなかった。」
村田の言葉はこのクーデター問題のみならず、日本スポーツ界が誇る一代の傑物・八田一朗のやることなすことを全て邪魔し続け、日本レスリングの発展を阻害した汚物である「講道館レスリング部」の本質と、それを野放しにした晩年の治五郎先生の不明の双方を、正確に表現しています。
以上、8回にわたって講道館公式HPはおろか、講道館が山ほど発行してきた公刊雑誌・史書からもその存在を抹殺されている「講道館レスリング部」の誕生から滅亡までの歴史を見てまいりました。
こうやって「講道館レスリング部」の陰謀や悪行、そしてそれが上滑りしての大失敗の数々を仔細に眺めていきますと、講道館レスリング部はオリンピックという国際スポーツの祭典を「日本レスリング界のイニシアチブ獲得」という薄汚い野望を実現するための道具と化し、散々ひっかきまわしたという点において、「嘉納健治伝」で紹介した「サンテル事件」を大幅に超えて悪質なできごとと言わざるを得ません。
そのあたりは講道館も後ろめたさが相当あったようで、「レスリング部」に関する記録や資料を、驚くほどきれいに消し去り、あるいは核廃棄物並みの封印を施して、全てを亡きものにしています。
このあたりは、外務省が「外交電報」を、満州事変まではきっちり残しているクセに、自らのミスや不手際を隠すため、シナ事変から敗戦までのものを全て焚書したのと全く一緒です。
そうした事情から、「講道館レスリング部」の当事者が残した資料が驚くほど少ないなか、最も参考になったのは「大日本体育協会史」と「オリムピック大会報告 第10回」の2冊。
八田や小谷の自伝も大変参考になったのですが、けっきょくは「当事者」の証言ですので、話を美化したり、盛ったり、あるいは意図的に記載を避けている箇所がけっこう見受けられました。
しかし体協は、柔道やアマレスとは一線を画した統括団体ですから、その記録は詳細、かつ、戦評は非常に公正で、「講道館レスリング部」の闇を照らす懐中電灯の役割を果たしてくれました。
ワタクシが体協の岸清一会長(当時)や平沼亮三選手団長(当時)らに深く感謝したのは、言うまでもありません。
講道館レスリング部とは我が国のスポーツ史に短期間だけ咲いた、黒く汚い「悪の華」であり、燦然?と輝くひどい「黒歴史」でした。
【本連載は、以下の書籍を参考としました】
「私の歩んできた道」八田一朗 立花書房
「勝負根性」八田一朗 実業之日本社
「柔道一路 海外普及に尽くした五十年」小谷澄之 ベースボール・マガジン社
「柔道年鑑」 昭和40年版
「秘録日本柔道」工藤雷介 東京スポーツ社
「大日本体育協会史 下巻」大日本体育協会編・刊
「オリムピック大会報告 第10回」大日本体育協会編 三省堂
「新体育」第25巻8号(昭和30年) 新体育社
「日本レスリングの物語」柳澤健 岩波書店
今回連載の「レスリング騒動」、その前連載の「柔道の『勝負法』研究」を細かくたどることでわかったことは、「どんなに賢い人でも、自分の見たいものしか見なかったら、世の中との調整力を失い、バカになる」ということでした。
治五郎先生が空手を見出し、下富坂にあった旧講道館で演武をさせた経緯につきましては主に「長い長い歴史」連載のほうでその詳細に触れましたが、治五郎先生が空手を見出したのは「勝負法」研究におけるごくイレギュラーな成功事例であり、しかも空手は幸運なことに、武徳会の「柔道部門」の一部に編入されつつも、その活動や技術編纂自体に講道館が口を挟まなかったため、その姿を保つことができました。
(その後、雨後の筍のようにいろんな流派ができたことについては、いいことなのか悪いことなのか言わないこととします(;^ω^))
おそらく講道館が空手を「勝負法研究」の中に組み入れ、おかしな手を加えてしまった場合、現在の空手はものすごく変わった形になっていたと思います。
「講道館のレスリング黒歴史」はこれにて終了となりますので、今後は少しの間、解剖学研究とか心理学研究に関連するお話をできたらいいなと思っております。
またよろしくお願いいたします。
おつかれさまでした(๑˃̵ᴗ˂̵)
つくづく人間のやったことは
記録に残るんですね💦
本当気をつけます。