講道館柔道というのは面白いことに、「起倒流と天神真楊流にルーツがある」ということが伝わっているのみで、あの投技に偏した不思議な技術体系が、いったいどういった過程を経て生まれたのかということが、全く明らかにされていません。
嘉納の膨大な著作を読んでも、その手下の回顧録を読んでも「いつころ、誰それが入門してきた」とか「猛烈な稽古が行われた」といった抽象的なことが書かれてあるだけで、技術体系の確立に至る過程を具体的に記述した文献は、ほとんどありません。
そこで今回以降、「嘉納治五郎はどのような意図をもって『立ち技偏重のタタミ柔道』を作り上げたのか」を考察することとし、その端緒としまして、まずは「講道館柔道の創設者・嘉納治五郎は明治日本における稀代のインテリだった」という原点に立ち返り、嘉納とその周囲の状況を回顧してみることとします。
結構長い話になりますが、この原点を知っていないと、以後の諸々の問題の根本が理解できなくなりますので、ご理解お願いいたします。
【その5 嘉納治五郎だけに見えていた「スポーツ」ムーブメント】
明治が二桁になるやならざるや、というころ、東京大学に通うモヤシのような青年が柔術を習いはじめたことが、柔術の未来を大きく変えていきます。
そのモヤシの名前は嘉納治五郎。
万延元(1860)年生まれ。神戸出身の東京育ち。明治14(1881)年、東京大学文学部政治学科卒。その後、学習院の教師になったのを皮切りに、第五高等学校(現在の熊本大学)校長、第一高等学校(現在の東大)校長、東京高等師範学校(現在の筑波大)校長などなど、教育畑の要職を歴任。
この経歴を見てわかるとおり、嘉納は当時の日本における、超がつくスーパーインテリであり、本来ならば「因循な旧時代の象徴」である柔術なんか、洟もひっかけないシロモノです。
しかし嘉納はふとしたきっかけ(嘉納の伝記によく出てくる話なので省略)で柔術を始め、この面白さにのめり込みます。
柔術家としての嘉納の足跡を簡単に記しますと、開成学校から東大に入ったあたりで、天神真楊流の福田八之助に入門。明治12年、福田の死去に伴って家元の磯正智に学ぶ。明治14年にはその磯も死去、今度は起倒流の飯久保恒年に学び、明治16年に免許皆伝…といった感じです。
ここで一般的な「嘉納治五郎伝」なら、「その後治五郎は、柔術をもっと現代的に、合理的にさせなければと決意し、それが柔道になってウンヌンカンヌン」という美談に持っていきます。
しかし、この手の使い古された「治五郎伝」には、極めて重要な点が抜け落ちて(あるいはわざと隠されて?)います。
何度も同じことを話しますが、それは「嘉納が当時日本トップクラスのインテリだった」ということ。これは嘉納という人物を、そして講道館柔道というものの本質を知るうえで、絶対に忘れてはいけないことです。
インテリの嘉納が柔術の向こう側に見ていたのは、日本伝武道・柔術の復興や発展などではなく、柔術をベースとした「国民スポーツの立ち上げ」でした。
産業革命と、それによる武器の驚異的な発達によって植民地を世界中に広げたヨーロッパ各国は、ここぞとばかりに「我こそは世界の覇者」ということをアピールしまくります。
フランス人はメートル原器を作って「世界の長さの基準はこれだ!」と主張し、イギリス人はグリニッジに世界の標準時を持ってきて「世界の時間はこれに合わせろ!」と主張するなど好き勝手にイキっており、とにかくヨーロッパ各国は一事が万事「白人様の、そしてわが国の優秀さを見ろ!」というアピール合戦に明け暮れていました。
そんな「イキリムーブメント」が「白人様の優れた運動能力の誇示」に行きつくのは当然であり、ヨーロッパでは同時期、様々な「スポーツ」が生まれ、それは白人様の、そして自らの国や地域の優位性をアピールする道具として、イビツな、しかし急速な発展を遂げていきます。
そのほかこうした「スポーツ」は、若者の体力を増進し、組織への帰属意識を増進させる「富国強兵のツール」としても有用と見做され、ヨーロッパ社会におけるスポーツの社会的地位は増すばかり、でした。
情報ツウで聡明な頭脳を持つ嘉納は、ヨーロッパで勃興した「スポーツが社会に重要な地位を占めていく」というムーブメントを、わが国で唯一理解していました。
そして、欧米で起きたことは、開国したわが国にも必ず波及する、ということもよくわかっていました。
だからこそ嘉納は、いずれ日本にも必ず吹き来るであろう「スポーツ」の嵐が来る前に、日本という風土に合致し、かつ、抵抗感なく万民に受け入れられる「スポーツ」を創る必要性を強く感じていました。
嘉納は開成学校時代にはベースボールに打ち込むなど、金持ちの学生さんならではの舶来スポーツも楽しんでいましたが(その時、球拾いをしていた少年がのちの山下義韶)、そういった舶来スポーツと、のちに学んだ柔術を天秤にかけてみて、また、明治10年代における撃剣の現状を顧みて、嘉納の心に去来したのは「柔術こそ、わが国の国民スポーツ足り得るものだ」との結論であったと思われるのです。
【その6 撃剣のスポーツ化が遅れた原因は「テロリスト養成所」という濡れ衣?】
ここでひとつの疑問が浮かんできます。
スポーツ化=競技化を図るのであれば、流派によってやることがまるで違う柔術より、江戸の末期には、既に打ち合いの形態が確立していた撃剣のほうが手っ取り早くていいのではないか?という疑問です。
この「なぜ当時、撃剣をスポーツ化できなかったのか」というクエスチョンに対する答えは実に簡単。
当時の撃剣は、スポーツ化どころか、撃剣そのものが存亡の危機にあったから、です。
以前の連載?「警棒」のほうでお話ししましたが、警視庁が撃剣を再び修練するようになったのは明治12年から。
それまでの間、撃剣は「内乱を誘致するもの」として、明治政府当局から、メッチャクソ厳しい目で見られていました。
現代のわれわれからは想像もつかないことですが、明治政府の要人たちはいずれもが、幕末動乱期における、物理的な殺し合いを生き延びた元武士たちであり、したがって撃剣道場を、ものすごい危機感と切実感を持って「内乱を企むテロリストの養成所・またはアジト」と見做していました。
従いましてその取り締まりは峻烈の一語。特に幕末、暗殺テロの強風が吹き荒れた京都においては、市中から撃剣の道場が完全に姿を消したうえ、府知事から「撃剣を学ぶ者は国事犯嫌疑でどんどん捕まえる」などというお達しまで出る始末。
江戸においてもその状況は大同小異で、剣客はみな、困窮にあえぎながら、悲惨な日々を送らざるを得ませんでした。
これに比べて柔術は、撃剣や槍術などから比べると格段に扱いが落ちる武術であったことが幸いし、撃剣ほど峻烈な弾圧を受けませんでした。
しかしやはり、柔術も「旧時代の遺物、因循なもの」と見做されることは避けられず、道場主は骨接ぎなどでかろうじて生計を立て、それでもダメなら秘伝の書物を二束三文で売り払って生活の足しにする…といった具合であったようです。
撃剣のスポーツ化は、「撃剣道場はもはや、内乱の温床とならない」ということが確認された日清戦争以降まで、待たなければなりませんでした。
嘉納の膨大な著作を読んでも、その手下の回顧録を読んでも「いつころ、誰それが入門してきた」とか「猛烈な稽古が行われた」といった抽象的なことが書かれてあるだけで、技術体系の確立に至る過程を具体的に記述した文献は、ほとんどありません。
そこで今回以降、「嘉納治五郎はどのような意図をもって『立ち技偏重のタタミ柔道』を作り上げたのか」を考察することとし、その端緒としまして、まずは「講道館柔道の創設者・嘉納治五郎は明治日本における稀代のインテリだった」という原点に立ち返り、嘉納とその周囲の状況を回顧してみることとします。
結構長い話になりますが、この原点を知っていないと、以後の諸々の問題の根本が理解できなくなりますので、ご理解お願いいたします。
【その5 嘉納治五郎だけに見えていた「スポーツ」ムーブメント】
明治が二桁になるやならざるや、というころ、東京大学に通うモヤシのような青年が柔術を習いはじめたことが、柔術の未来を大きく変えていきます。
そのモヤシの名前は嘉納治五郎。
万延元(1860)年生まれ。神戸出身の東京育ち。明治14(1881)年、東京大学文学部政治学科卒。その後、学習院の教師になったのを皮切りに、第五高等学校(現在の熊本大学)校長、第一高等学校(現在の東大)校長、東京高等師範学校(現在の筑波大)校長などなど、教育畑の要職を歴任。
この経歴を見てわかるとおり、嘉納は当時の日本における、超がつくスーパーインテリであり、本来ならば「因循な旧時代の象徴」である柔術なんか、洟もひっかけないシロモノです。
しかし嘉納はふとしたきっかけ(嘉納の伝記によく出てくる話なので省略)で柔術を始め、この面白さにのめり込みます。
柔術家としての嘉納の足跡を簡単に記しますと、開成学校から東大に入ったあたりで、天神真楊流の福田八之助に入門。明治12年、福田の死去に伴って家元の磯正智に学ぶ。明治14年にはその磯も死去、今度は起倒流の飯久保恒年に学び、明治16年に免許皆伝…といった感じです。
ここで一般的な「嘉納治五郎伝」なら、「その後治五郎は、柔術をもっと現代的に、合理的にさせなければと決意し、それが柔道になってウンヌンカンヌン」という美談に持っていきます。
しかし、この手の使い古された「治五郎伝」には、極めて重要な点が抜け落ちて(あるいはわざと隠されて?)います。
何度も同じことを話しますが、それは「嘉納が当時日本トップクラスのインテリだった」ということ。これは嘉納という人物を、そして講道館柔道というものの本質を知るうえで、絶対に忘れてはいけないことです。
インテリの嘉納が柔術の向こう側に見ていたのは、日本伝武道・柔術の復興や発展などではなく、柔術をベースとした「国民スポーツの立ち上げ」でした。
産業革命と、それによる武器の驚異的な発達によって植民地を世界中に広げたヨーロッパ各国は、ここぞとばかりに「我こそは世界の覇者」ということをアピールしまくります。
フランス人はメートル原器を作って「世界の長さの基準はこれだ!」と主張し、イギリス人はグリニッジに世界の標準時を持ってきて「世界の時間はこれに合わせろ!」と主張するなど好き勝手にイキっており、とにかくヨーロッパ各国は一事が万事「白人様の、そしてわが国の優秀さを見ろ!」というアピール合戦に明け暮れていました。
そんな「イキリムーブメント」が「白人様の優れた運動能力の誇示」に行きつくのは当然であり、ヨーロッパでは同時期、様々な「スポーツ」が生まれ、それは白人様の、そして自らの国や地域の優位性をアピールする道具として、イビツな、しかし急速な発展を遂げていきます。
そのほかこうした「スポーツ」は、若者の体力を増進し、組織への帰属意識を増進させる「富国強兵のツール」としても有用と見做され、ヨーロッパ社会におけるスポーツの社会的地位は増すばかり、でした。
情報ツウで聡明な頭脳を持つ嘉納は、ヨーロッパで勃興した「スポーツが社会に重要な地位を占めていく」というムーブメントを、わが国で唯一理解していました。
そして、欧米で起きたことは、開国したわが国にも必ず波及する、ということもよくわかっていました。
だからこそ嘉納は、いずれ日本にも必ず吹き来るであろう「スポーツ」の嵐が来る前に、日本という風土に合致し、かつ、抵抗感なく万民に受け入れられる「スポーツ」を創る必要性を強く感じていました。
嘉納は開成学校時代にはベースボールに打ち込むなど、金持ちの学生さんならではの舶来スポーツも楽しんでいましたが(その時、球拾いをしていた少年がのちの山下義韶)、そういった舶来スポーツと、のちに学んだ柔術を天秤にかけてみて、また、明治10年代における撃剣の現状を顧みて、嘉納の心に去来したのは「柔術こそ、わが国の国民スポーツ足り得るものだ」との結論であったと思われるのです。
【その6 撃剣のスポーツ化が遅れた原因は「テロリスト養成所」という濡れ衣?】
ここでひとつの疑問が浮かんできます。
スポーツ化=競技化を図るのであれば、流派によってやることがまるで違う柔術より、江戸の末期には、既に打ち合いの形態が確立していた撃剣のほうが手っ取り早くていいのではないか?という疑問です。
この「なぜ当時、撃剣をスポーツ化できなかったのか」というクエスチョンに対する答えは実に簡単。
当時の撃剣は、スポーツ化どころか、撃剣そのものが存亡の危機にあったから、です。
以前の連載?「警棒」のほうでお話ししましたが、警視庁が撃剣を再び修練するようになったのは明治12年から。
それまでの間、撃剣は「内乱を誘致するもの」として、明治政府当局から、メッチャクソ厳しい目で見られていました。
現代のわれわれからは想像もつかないことですが、明治政府の要人たちはいずれもが、幕末動乱期における、物理的な殺し合いを生き延びた元武士たちであり、したがって撃剣道場を、ものすごい危機感と切実感を持って「内乱を企むテロリストの養成所・またはアジト」と見做していました。
従いましてその取り締まりは峻烈の一語。特に幕末、暗殺テロの強風が吹き荒れた京都においては、市中から撃剣の道場が完全に姿を消したうえ、府知事から「撃剣を学ぶ者は国事犯嫌疑でどんどん捕まえる」などというお達しまで出る始末。
江戸においてもその状況は大同小異で、剣客はみな、困窮にあえぎながら、悲惨な日々を送らざるを得ませんでした。
これに比べて柔術は、撃剣や槍術などから比べると格段に扱いが落ちる武術であったことが幸いし、撃剣ほど峻烈な弾圧を受けませんでした。
しかしやはり、柔術も「旧時代の遺物、因循なもの」と見做されることは避けられず、道場主は骨接ぎなどでかろうじて生計を立て、それでもダメなら秘伝の書物を二束三文で売り払って生活の足しにする…といった具合であったようです。
撃剣のスポーツ化は、「撃剣道場はもはや、内乱の温床とならない」ということが確認された日清戦争以降まで、待たなければなりませんでした。
させていただいてます。
嘉納治五郎さんが世界に弟子を送り
オリンピックに活動したことについて
背景にあっただろう考え、得心しました。
ルール、着衣、競技スタイル等なんでも
本人が規定し組織ができてゆくところ
相手に条件を飲ませる手管、
やり手の経営者、独裁者のようです😳
大学生たちも柔道には4年間で
強くなれる機序があると
思ったからあんなに
流行ったのかな🤔
今回の連載、この前の「警棒」のオマケとしてほんの少しお話しして終わろうと思っていましたが…いや、調べれば調べるほど、今まで知らなかったこと、そして、バラバラの点でしか知らなかったことが線でつながったりといったことが連発し、うれしくもあり、困ったりもし…みたいな感じになっております(;^_^A。
いつ終わるともわかりませんが、お付き合いいただければ幸甚に存じます。