前回、「小窓の1」にて、逮捕術は短時間での単純習得を目指した護身術の仲間であり、決して武道の仲間ではないということについてお話ししました。
今回はそのお話をもう少し掘り下げて、「武道」は兵隊さんや警察官などを団体訓練するには向かない、というお話をしたいと思います。
「小窓の1」でお話しした内容の繰り返しになる箇所が多いですが、1つの原稿でより多くをスっと読んでいただくという関係上、ご容赦ください。決して文字数稼ぎのためにやってるんじゃありませんよ(っていうか、個人経営のブログで文字数を多くしても、何の意味もないですし…)!
まず冒頭、「武道・格闘技」と、「護身術系テクニック」の性質の違いについて今一度確認します。
武道・格闘技はいわゆる「戦う体技」のなかから、独自にカテゴリ分けした技…ボクシングならパンチ、空手なら突き蹴り、柔道なら投げ・極め・絞め・固めといったものを磨きに磨いて技の練度を上げて先鋭化させ、さらにはその過程で、技の習得に留まらない「何か」を感じ取ることに主眼を置いています。
だいぶ前の原稿で「臨済宗は『公案』と呼ばれる問答を続けることで、曹洞宗はただひたすら座禅を続けることで、その坊さんにしかわからない『悟り』に近づこうとするのに似ている」なーんてことを書きましたが、まさにそんな感じです。
ちなみに武道・格闘技における「公案」や「座禅」に相当するものが何かといえば「自主練・対練・スパーリング」。
そして「悟り」の形が各坊さんごとに少しずつ異なるように、武道・格闘技のファイトスタイルも(基本部分は同じとして)人それぞれ、クセがあります。
対する護身術系テクニックは、ヤバい現場で使えるビックリ技をパターン化したものです。ですからアタマっから「これはこうするものだ」という定理しか存在せず、個人的なクセは介在する余地がありません。
このテクニックを執行するにあたって最も大切なのは、習得したテクニックを間違いなく相手に投射するため、相手を「型にハメる」ことであり、それ以外の訓練を一切やってはいけない。このあたりまでは「小窓の1」でお話ししたとおりです。
また、このテのテクニック習得につき、武道の修行歴の長短・段位の有無は一切関係ありません。人並外れたフィジカルも不要です。むしろ生半可な武道経験やフィジカルは、テクニックを見る目を曇らせ、習得の邪魔にしかなりえません。
前回、イミ・クラヴマガのボス・ハガイ先生の「(イミ・クラヴマガは)試合がない、組手も少ない。その余裕はないんですよ。自分を試したり、チャレンジすることもない。」という言葉を紹介しましたが、まさにこれこそが護身術系テクニックの真理なのです。
さらに言えばこの類のテクニックは手品のようなもので、タネがバレると一切通用しなくなります。
こうした護身術系のテクニックは「すぐ使える」「マニュアルチック」「用途が違えば全く役に立たない」「アップデートが必要」ということから、工業製品のような、ウイルスバスターのような、そうした性質を持っています。
そして大事なことなのでもう一度声を大にして言いますが、警察機関の逮捕術やそれに類するテクニックは、後者に属するものです。
さて話は変わりまして、警察では柔道&剣道&逮捕術の防具組手、自衛隊では銃剣道と「徒手格闘」という名の日本拳法(※拳法協会風)が正課武道として奨励されていますが、では、これらの正課「武道」が、組織としての制圧力や戦闘力を上げる手助けになっているのか?
この問いに対するひとつの回答を、過去の名著から見てみましょう。
「ある警察官の記録 戦中戦後30年史」(大橋秀雄 みすず書房)という本があります。
著者の大橋氏は昭和3(1928)~昭和31(1956)年までの28年間、警視庁警察官として奉職。戦前・戦中はあの有名な特高警察として、各種思想犯やスパイ摘発に尽力(なんとあの2・26事件やゾルゲ事件にも出動!)、終戦に伴う組織改編時には後の機動隊となる「予備隊」の設立に尽力したというスーパー警察官(池上署長にて退官)です。
そんな大橋氏は若かりし頃には剣道で鳴らしたとあり、同著でもさぞかし警察武道を奨励しているかと思いきや…なんとなんと「警察剣道無用論」「警察柔道無用論」という、かなり刺激的なタイトルの一文を寄せています。
ではまず「剣道無用」の理由を見てみます。
・剣道家は剣道をやることで精神を修養し、物事に即応できる運動神経と頑強な体をつくるというが、多忙な現場警察官に、そんなものを養っているヒマなんかない。
・昭和25年の警棒使用及び取扱規則改正時、振りかぶった警棒で相手の頭や鎖骨などを殴ることが「武器に準ずる警棒使用」と規定されたが、剣道をやっているとその「武器に準ずる警棒使用」である面を殴る癖がつきやすく、「過剰な警察力の行使」をやらかしてしまう危険性が高い。
・そもそも戦前であっても、サーベルの中身は刃のついていない、単なる鉄棒にしか過ぎなかったのだから、警察官全員に稽古させる必要もないものだった。
うん、いちいちごもっともです。
続いて「柔道無用論」のほう。大橋氏が柔道に向けた目は、剣道以上に冷ややかです。
・路上での投げは被疑者の大けがに繋がる。署長時代、柔道出身警察官の投げによる被疑者負傷事故の始末に追われたので「路上で投げを使うな」と言ったが、柔道出身者は本能で投げを打ってしまうので、投げによる被疑者の負傷事故は後を絶たなかった。
・柔道出身者は相手と距離を詰めることに無頓着なので、凶器を持った相手に不覚を取ることが多数あった。
・柔道は打撃には全く無力な武道であるため、進駐軍兵士が相手だった場合、パンチ一発でノサれることが多数あった。相手に打撃の心得がある場合、柔道は全く役に立たない。
さらに大橋氏は、柔道や剣道が職務執行に向かない共通した理由として「試合」の存在を挙げています。
大橋氏は警察学校卒業後、神楽坂警察署配属となります。
「長い長い歴史」でも取り上げましたが、戦前当時は「武道大会」というものがそこらじゅうで行われており、その勝者に対するステイタスというのは、凄まじいものがありました。当然、警視庁の対署試合も、警察官の中では大きな注目を受ける存在でした。
神楽坂署は大橋氏が所属した初年度に優勝して2度目の2連覇を達成。3連覇を目指したその年の決勝、信じがたいことが起きます。同著より。
「優勝戦では見事に一本を取っても黙殺され、また、だれが見ても文句のない技で表審判が一本を宣告しても、裏審判や師範席で手を振って取り消されることがしばしばあった。」
当時は神楽坂署があまりにも強かったことから、ほかの署が「打倒神楽坂署!」を掲げて猛練習を重ねており、それが行き過ぎた結果、警視庁お抱え師範・教師たちにも「神楽坂署をなんとか負けさせなくては」…という心情が働くに至り、それが神楽坂署に対する極端に辛い判定となって表れたわけですが、それを師範席から主導していたのはなんと、当時の警視庁剣道総師範で、当時「昭和の剣聖」と名高かった中山博道だったのです。
あまりのアンフェアな判定に激怒した神楽坂署は選手のみならず、署長・担当師範が一丸となって試合放棄・退場しようとしますが、警視庁警務部長の「試合は勤務だから、勤務である試合の放棄は許さん」というナゾの正論?????により、試合続行。しかしやる気を失った神楽坂署はストレート負けを喫し、三位となってしまいました。
大橋氏は中山博道の判定につき「口ではもっともらしい武道精神を説きながら、まったく武道精神に反することを平然とおこなう者を、先生として敬う気持ちにはなれなかった」と思うに至り、「警視庁剣道にすっかり失望して神楽坂署の選手を辞退し(中略)もう稽古はしなかった。」(いずれも同著)ということで、剣道自体をスッパリ止めてしまいました。
上記の出来事が示しますとおり、組織内における武道大会で「試合で勝つ」ことを偏重してしまうと、人々の関心は「試合で勝つ」テクニックばかりに移り、選手のみならず審判や幹部連中も「試合での勝利」に気が狂い、最終的には「試合で使えるテクニック≒実戦でも使えるテクニック」というとんでもない誤解を「常識」として持つに至るようになるわけです。
大正末期に作られた「警視庁柔道基本 捕手ノ形」、昭和初期に作られた「警視庁捕手術」の「実戦技」としての完成度は極めて低く、現場警察官に完全にソッポを向かれたのですが、これは試合偏重がひどすぎた当時の「名人」たちの知識・技能レベルその程度だったという証左でもあります。
大橋氏は著書で「武道訓練はやりたい人だけがやって、組織としては警棒と逮捕術だけを正課として推進すべきだ」としていますが、ワタクシもその意見に全面的に賛同します。
武道の本義は、修行の過程で意図的に「合理性」(人間は自分の行動や思考に合理性を求めてしまいますが、それは強くなるためにはジャマなのです)を排することで、個人的な悟りを得ることにありますから、「組織を強くする」ということには全く向いていません。
「いや、試合をすることで組織が団結する」という向きもあるかもしれませんが、それはお祭りマンボ(;^ω^)を開催することによって、一時的な帰属意識を呼び起こすだけであって、「組織全体を強くする」ということには、全く寄与しません。
大橋氏の著書には戦時中、「敵が本土に上陸して来たら、柔道の技でこうやって殺すのだ!」と勇ましく教えていた柔道の助教が、終戦とともに米軍が進駐して来ると真っ先に職場を放棄して逃亡したエピソードが紹介されていましたが、試合の勝敗・巧拙だけに血道をあげると、こういうクズができるわけですね(;^ω^)。
以上、「武道は組織を強くすることには全く向かない」という話をしましたが…これ実は、昔ワタクシがある職場でやってしまった過ちの反省文であったりもするんです(機密事項が多すぎるので、その詳細は省きます)…
自戒の念を込めてもういちど。「武道は組織を強くすることには全く向かない」。
今回はそのお話をもう少し掘り下げて、「武道」は兵隊さんや警察官などを団体訓練するには向かない、というお話をしたいと思います。
「小窓の1」でお話しした内容の繰り返しになる箇所が多いですが、1つの原稿でより多くをスっと読んでいただくという関係上、ご容赦ください。決して文字数稼ぎのためにやってるんじゃありませんよ(っていうか、個人経営のブログで文字数を多くしても、何の意味もないですし…)!
まず冒頭、「武道・格闘技」と、「護身術系テクニック」の性質の違いについて今一度確認します。
武道・格闘技はいわゆる「戦う体技」のなかから、独自にカテゴリ分けした技…ボクシングならパンチ、空手なら突き蹴り、柔道なら投げ・極め・絞め・固めといったものを磨きに磨いて技の練度を上げて先鋭化させ、さらにはその過程で、技の習得に留まらない「何か」を感じ取ることに主眼を置いています。
だいぶ前の原稿で「臨済宗は『公案』と呼ばれる問答を続けることで、曹洞宗はただひたすら座禅を続けることで、その坊さんにしかわからない『悟り』に近づこうとするのに似ている」なーんてことを書きましたが、まさにそんな感じです。
ちなみに武道・格闘技における「公案」や「座禅」に相当するものが何かといえば「自主練・対練・スパーリング」。
そして「悟り」の形が各坊さんごとに少しずつ異なるように、武道・格闘技のファイトスタイルも(基本部分は同じとして)人それぞれ、クセがあります。
対する護身術系テクニックは、ヤバい現場で使えるビックリ技をパターン化したものです。ですからアタマっから「これはこうするものだ」という定理しか存在せず、個人的なクセは介在する余地がありません。
このテクニックを執行するにあたって最も大切なのは、習得したテクニックを間違いなく相手に投射するため、相手を「型にハメる」ことであり、それ以外の訓練を一切やってはいけない。このあたりまでは「小窓の1」でお話ししたとおりです。
また、このテのテクニック習得につき、武道の修行歴の長短・段位の有無は一切関係ありません。人並外れたフィジカルも不要です。むしろ生半可な武道経験やフィジカルは、テクニックを見る目を曇らせ、習得の邪魔にしかなりえません。
前回、イミ・クラヴマガのボス・ハガイ先生の「(イミ・クラヴマガは)試合がない、組手も少ない。その余裕はないんですよ。自分を試したり、チャレンジすることもない。」という言葉を紹介しましたが、まさにこれこそが護身術系テクニックの真理なのです。
さらに言えばこの類のテクニックは手品のようなもので、タネがバレると一切通用しなくなります。
こうした護身術系のテクニックは「すぐ使える」「マニュアルチック」「用途が違えば全く役に立たない」「アップデートが必要」ということから、工業製品のような、ウイルスバスターのような、そうした性質を持っています。
そして大事なことなのでもう一度声を大にして言いますが、警察機関の逮捕術やそれに類するテクニックは、後者に属するものです。
さて話は変わりまして、警察では柔道&剣道&逮捕術の防具組手、自衛隊では銃剣道と「徒手格闘」という名の日本拳法(※拳法協会風)が正課武道として奨励されていますが、では、これらの正課「武道」が、組織としての制圧力や戦闘力を上げる手助けになっているのか?
この問いに対するひとつの回答を、過去の名著から見てみましょう。
「ある警察官の記録 戦中戦後30年史」(大橋秀雄 みすず書房)という本があります。
著者の大橋氏は昭和3(1928)~昭和31(1956)年までの28年間、警視庁警察官として奉職。戦前・戦中はあの有名な特高警察として、各種思想犯やスパイ摘発に尽力(なんとあの2・26事件やゾルゲ事件にも出動!)、終戦に伴う組織改編時には後の機動隊となる「予備隊」の設立に尽力したというスーパー警察官(池上署長にて退官)です。
そんな大橋氏は若かりし頃には剣道で鳴らしたとあり、同著でもさぞかし警察武道を奨励しているかと思いきや…なんとなんと「警察剣道無用論」「警察柔道無用論」という、かなり刺激的なタイトルの一文を寄せています。
ではまず「剣道無用」の理由を見てみます。
・剣道家は剣道をやることで精神を修養し、物事に即応できる運動神経と頑強な体をつくるというが、多忙な現場警察官に、そんなものを養っているヒマなんかない。
・昭和25年の警棒使用及び取扱規則改正時、振りかぶった警棒で相手の頭や鎖骨などを殴ることが「武器に準ずる警棒使用」と規定されたが、剣道をやっているとその「武器に準ずる警棒使用」である面を殴る癖がつきやすく、「過剰な警察力の行使」をやらかしてしまう危険性が高い。
・そもそも戦前であっても、サーベルの中身は刃のついていない、単なる鉄棒にしか過ぎなかったのだから、警察官全員に稽古させる必要もないものだった。
うん、いちいちごもっともです。
続いて「柔道無用論」のほう。大橋氏が柔道に向けた目は、剣道以上に冷ややかです。
・路上での投げは被疑者の大けがに繋がる。署長時代、柔道出身警察官の投げによる被疑者負傷事故の始末に追われたので「路上で投げを使うな」と言ったが、柔道出身者は本能で投げを打ってしまうので、投げによる被疑者の負傷事故は後を絶たなかった。
・柔道出身者は相手と距離を詰めることに無頓着なので、凶器を持った相手に不覚を取ることが多数あった。
・柔道は打撃には全く無力な武道であるため、進駐軍兵士が相手だった場合、パンチ一発でノサれることが多数あった。相手に打撃の心得がある場合、柔道は全く役に立たない。
さらに大橋氏は、柔道や剣道が職務執行に向かない共通した理由として「試合」の存在を挙げています。
大橋氏は警察学校卒業後、神楽坂警察署配属となります。
「長い長い歴史」でも取り上げましたが、戦前当時は「武道大会」というものがそこらじゅうで行われており、その勝者に対するステイタスというのは、凄まじいものがありました。当然、警視庁の対署試合も、警察官の中では大きな注目を受ける存在でした。
神楽坂署は大橋氏が所属した初年度に優勝して2度目の2連覇を達成。3連覇を目指したその年の決勝、信じがたいことが起きます。同著より。
「優勝戦では見事に一本を取っても黙殺され、また、だれが見ても文句のない技で表審判が一本を宣告しても、裏審判や師範席で手を振って取り消されることがしばしばあった。」
当時は神楽坂署があまりにも強かったことから、ほかの署が「打倒神楽坂署!」を掲げて猛練習を重ねており、それが行き過ぎた結果、警視庁お抱え師範・教師たちにも「神楽坂署をなんとか負けさせなくては」…という心情が働くに至り、それが神楽坂署に対する極端に辛い判定となって表れたわけですが、それを師範席から主導していたのはなんと、当時の警視庁剣道総師範で、当時「昭和の剣聖」と名高かった中山博道だったのです。
あまりのアンフェアな判定に激怒した神楽坂署は選手のみならず、署長・担当師範が一丸となって試合放棄・退場しようとしますが、警視庁警務部長の「試合は勤務だから、勤務である試合の放棄は許さん」というナゾの正論?????により、試合続行。しかしやる気を失った神楽坂署はストレート負けを喫し、三位となってしまいました。
大橋氏は中山博道の判定につき「口ではもっともらしい武道精神を説きながら、まったく武道精神に反することを平然とおこなう者を、先生として敬う気持ちにはなれなかった」と思うに至り、「警視庁剣道にすっかり失望して神楽坂署の選手を辞退し(中略)もう稽古はしなかった。」(いずれも同著)ということで、剣道自体をスッパリ止めてしまいました。
上記の出来事が示しますとおり、組織内における武道大会で「試合で勝つ」ことを偏重してしまうと、人々の関心は「試合で勝つ」テクニックばかりに移り、選手のみならず審判や幹部連中も「試合での勝利」に気が狂い、最終的には「試合で使えるテクニック≒実戦でも使えるテクニック」というとんでもない誤解を「常識」として持つに至るようになるわけです。
大正末期に作られた「警視庁柔道基本 捕手ノ形」、昭和初期に作られた「警視庁捕手術」の「実戦技」としての完成度は極めて低く、現場警察官に完全にソッポを向かれたのですが、これは試合偏重がひどすぎた当時の「名人」たちの知識・技能レベルその程度だったという証左でもあります。
大橋氏は著書で「武道訓練はやりたい人だけがやって、組織としては警棒と逮捕術だけを正課として推進すべきだ」としていますが、ワタクシもその意見に全面的に賛同します。
武道の本義は、修行の過程で意図的に「合理性」(人間は自分の行動や思考に合理性を求めてしまいますが、それは強くなるためにはジャマなのです)を排することで、個人的な悟りを得ることにありますから、「組織を強くする」ということには全く向いていません。
「いや、試合をすることで組織が団結する」という向きもあるかもしれませんが、それはお祭りマンボ(;^ω^)を開催することによって、一時的な帰属意識を呼び起こすだけであって、「組織全体を強くする」ということには、全く寄与しません。
大橋氏の著書には戦時中、「敵が本土に上陸して来たら、柔道の技でこうやって殺すのだ!」と勇ましく教えていた柔道の助教が、終戦とともに米軍が進駐して来ると真っ先に職場を放棄して逃亡したエピソードが紹介されていましたが、試合の勝敗・巧拙だけに血道をあげると、こういうクズができるわけですね(;^ω^)。
以上、「武道は組織を強くすることには全く向かない」という話をしましたが…これ実は、昔ワタクシがある職場でやってしまった過ちの反省文であったりもするんです(機密事項が多すぎるので、その詳細は省きます)…
自戒の念を込めてもういちど。「武道は組織を強くすることには全く向かない」。
ただ、今回の結論は脊髄反射的に出たものではなく、いちおう武道に人生の軸足を置くワタクシが、自らの経験とたくさんの文献、情報に接してそれを整理すればするほど、どうしてもこういう結論に落ち着かざるを得なかった、というものです。
武道は個人を強くすることには大変向いていますし、そのことに異論を唱える気はありません…というか、ワタクシは武道・格闘技に人生を救ってもらったのですから、完全にその恩恵を受けた者です。
しかしそれは、「組織全体を強くする」という帯びたとき、指導者だけに通じる「悟り」が訓練全体を歪めてしまうという、とんでもないデメリットをもはらんでいます。
そして30代のワタクシもそうだったのですが、96%くらいの「指導者」は、そのことに全く気付かず、今日も明日も「武道はマルチパーパス」という間違いを広めています。そしてそれが、一般職員の格闘技離れを招いていることに気づいていません。
ワタクシも本稿の執筆はかなり悩みましたが、こんなショボいブログからでも、とりあえず発信しなけりゃ始まらない!と思い、準備と覚悟を持って発信しましたので、悪しからずご了承くださいませm(__)m。
合気道の心得がある人に聞いたのですが、その人曰く『合気道にせよ、柔剣道にせよ、その技術がそのまま使える事は少ない。実際の現場で使えるよう応用させる必要がある。』との事でした。又、『合気道は本来試合が無いのだが、演武会という名目で勝ち負けを決めなければならない。その時、素人の「何故?」に答えられるくらいには修練しなければならない。』との事でした。コレ等珍山様の言う試合の弊害でしょう。試合の利点は……一般にアピールし易い、でしょうね〜。勝ち負けがハッキリしていて可能な限り対等な条件だから技術の差、強さを証明出来る。(決して、試合に勝つ方々を貶す意図はありません。)ただ、法令執行官の護身、制圧技術とイコールという訳ではない、という事だと思います。では法令執行官の護身、制圧技術を向上させるには何をするべきか…………🤔まず法律を勉強して、どんな場合に有形力を行使出来るかを勉強する。(笑)次、『自衛隊徒手格闘入門』にあったように、
一、 強弱のあるランニングをして体力を向上さ せる。
二、 防具組手やボクシング場合によっては柔剣道等で多少、痛い目を見る。(笑)
三、 事例研究でどんな場合にどんな状況でケガしたのか?コロされたのか?どうすれば良かったか?自分ならどうするか?の意見を出させる。
四、 以上を繰り返し繰り返しやるうちに、危機感あるものは、より効果的な技術を求めてアチコチ模索(システマ、零レンジ、クラヴマガ等等)を始めるので、指導者はそれを妨げ無いようにする………🤔。
五、 訓練にカネを払う😅🤣😁!!(笑)(笑)
組織的に四、五は難しいでしょうね~~🤔。
自分で考えないと成長、上達しない
すると組織の成長って一体どうすれば。
一般部隊でなら武道について
ここまで突き詰めないでしょうが、ブログ主
さまはある配置できっとご苦労されたかと
勝手に愚考します。
職場がイヤになったときに感情と判断は
割り切って考えろなんて
怒られたことを思い出しました。
オチなし
失礼しました。(汗)