弊ブログをご高覧の諸賢におかれましては、柔道創始者である嘉納治五郎大先生(万延元(1860)年~昭和13(1938)年)の来歴や業績について、もはや説明は不要と思います。
「長い長い歴史」でも少し触れましたが、嘉納大先生は晩年、柔道の「勝負法」すなわち、実戦で使える打撃ありの柔道の体系化に腐心していました。そのムーブメントの中で、お弟子に合気道や空手、棒術などを習わせて「最も進んだ武術を作り上げ、それを広く我が国民に教ふる」(「講道館の使命」より。昭和2年のお言葉)つもりでした。
ただ残念なことに、当時の柔道は既に「取っ組み合いゲーム」の体制が完全に確立された後であり、誤解を恐れずはっきり言いますれば「勝負法を考えられる指導者が全然いない」状態でした。
「そんなことはない!」という方もおられるかもしれませんが、大正15年に制式化した「警視庁柔道基本 捕手ノ形」が、柔道の「極の形」を改悪した、全く実戦に使えないシロモノだった(しかも技術の総監修が、「四天王」山下 義韶だった)のことをもってしても、柔道は大正末期ころまでには、「実戦への対応能力」を生み出す力がゼロになっていたことが明確にわかります。
そのため、嘉納大先生の大いなる志に反して「勝負法」体系化は遅々として進まず、けっきょく大先生の客死を以て沙汰止みとなりました。
さて、こうした柔道の「雑巾踊り」(←戦前、柔道を揶揄した悪口。鈴木隆の名作「けんかえれじい」に出てくる)化を苦々しく思い、果敢なムーブメントを起こしたのは嘉納大先生だけではなかった、しかもそれが、嘉納大先生のものすごく近しい親戚で、さらにいえばその人物は、超がつく大物ヤクザだった…信じられますか?こんな出来すぎた話…ワタクシもビックリしましたよ!
今回は、ピストン堀口先生の人生をほじくっていたら発掘された、そんな大物ヤクザのお話を一席。
今回のお話の主人公、名前を嘉納健治(以後、嘉納大先生との差別化を図るため「健治親分」と呼称します(;^ω^))
健治親分は明治14(1881)年、当時の兵庫県神戸市御影町浜東に所在する、「浜嘉納」の四代目・嘉納治一の次男として生まれます。
嘉納本家はあの有名な日本酒「菊正宗」の蔵元であり、そこから銘酒「白鶴」で有名な「白嘉納家」、嘉納大先生を生んだ廻船業の名門「浜東嘉納家」、そして健治親分を生んだ「浜嘉納家」(こちらも正業は「菊正宗」の蔵元)に分家しており、いずれの家も近畿圏随一の名家です。
父・治一の早逝を受け、健治親分は東京の医者に養子縁組され、当時のインテリへの近道・ドイツ語習得のため、獨逸学協会学校(獨協中学の前身)に進学します。
ところが健治親分は、親戚の治五郎先生ほど勉強が好きではありませんでした(;^ω^)。
上京後、わりかし早い段階で学業からドロップアウトした健治親分はまず、不良船員にワタリをつけて拳銃を入手(!)、猛練習を行って射撃の腕を大いに上げ、「ピス健」としてその名を知られるようになりますが、息子のグレっぷりの尋常ならざることに驚いた養父は、健治親分を偉大なる叔父・治五郎大先生が経営する嘉納塾にブチ込みます。
このころの嘉納塾は、黎明期のような貧乏苦学生のたまり場ではなく、名を挙げ功を成した嘉納大先生の威明を慕う華族など上級国民が、自らの師弟をよりよく鍛えてもらうための「エリート養成塾」になっていました。
従ってその生活スケジュールはわりかし厳しく、朝は4時45分に起床して徹底的に掃除。学校から帰ると2時間の柔道の稽古と自習。土曜日は午前午後の柔道二部稽古、たまには長距離行軍や水泳もやり…という感じ。
おそらく治五郎大先生も、この生活によって健治親分の性根が治ることを期待していたのでしょうが、結果は真逆で、縛られることが嫌いだった健治親分は嘉納塾を早々に脱走。神戸に戻ります。
神戸に戻った健治親分はその男っぷりと拳銃の腕でたちまち名を挙げ、一端の親分として知られるようになります。特に、名門商家の出身で学もある健治親分は「経済に明るい親分」として知られ、様々なシノギを成功させます。
そんな健治親分は明治42(1909)年、横浜で衝撃的な興行と出会います。
それは日本人柔道家と、イギリス水兵ボクサーが折衷ルールで戦う異種格闘技戦。世にいう「柔拳興行」です。
イギリス艦隊水兵ボクサー・ガレットVS講道館四天王・横山作次郎の愛弟子だった昆野睦武(こんの・むつたけ。1885~1917)とのミックスド・マッチは大盛況であり、その後約1年に亘って散発的に興行が打たれますが、外国艦隊が横浜に入港しないとボクサーが確保できないなど、安定を欠く興行だったことが響き、すぐ沙汰止みになってしまいました。
しかし武術・格闘技が大好きだった健治親分はこの興行に大いに触発され、自分の力による恒常的な「柔拳」の自主興行を思い立ちます。
「柔拳興行」の歴史は、おおむね以下の3つの時期に分けられます。
①横浜で最初に行われた、艦隊ボクサーを相手にした興行(以下、「横浜柔拳」)
②明治44(1911)年、日本柔道に挑戦するため現れたアメリカ人ボクサー、エドワード・スミスら一行を頂いて行われた興行(以下、「スミス柔拳」)
③大正8(1919)年以降、健治親分が全面的に打ち出した興行(以下「神戸柔拳」)
以下、この歴史と健治親分の動きをトレースしつつ、柔拳興行の興亡、そこに「ヤクザのシノギ」以上の熱い思いを抱いて取り組んだ健治親分の「柔道の武術化」の取り組みを見ていきたいと思います。
「長い長い歴史」でも少し触れましたが、嘉納大先生は晩年、柔道の「勝負法」すなわち、実戦で使える打撃ありの柔道の体系化に腐心していました。そのムーブメントの中で、お弟子に合気道や空手、棒術などを習わせて「最も進んだ武術を作り上げ、それを広く我が国民に教ふる」(「講道館の使命」より。昭和2年のお言葉)つもりでした。
ただ残念なことに、当時の柔道は既に「取っ組み合いゲーム」の体制が完全に確立された後であり、誤解を恐れずはっきり言いますれば「勝負法を考えられる指導者が全然いない」状態でした。
「そんなことはない!」という方もおられるかもしれませんが、大正15年に制式化した「警視庁柔道基本 捕手ノ形」が、柔道の「極の形」を改悪した、全く実戦に使えないシロモノだった(しかも技術の総監修が、「四天王」山下 義韶だった)のことをもってしても、柔道は大正末期ころまでには、「実戦への対応能力」を生み出す力がゼロになっていたことが明確にわかります。
そのため、嘉納大先生の大いなる志に反して「勝負法」体系化は遅々として進まず、けっきょく大先生の客死を以て沙汰止みとなりました。
さて、こうした柔道の「雑巾踊り」(←戦前、柔道を揶揄した悪口。鈴木隆の名作「けんかえれじい」に出てくる)化を苦々しく思い、果敢なムーブメントを起こしたのは嘉納大先生だけではなかった、しかもそれが、嘉納大先生のものすごく近しい親戚で、さらにいえばその人物は、超がつく大物ヤクザだった…信じられますか?こんな出来すぎた話…ワタクシもビックリしましたよ!
今回は、ピストン堀口先生の人生をほじくっていたら発掘された、そんな大物ヤクザのお話を一席。
今回のお話の主人公、名前を嘉納健治(以後、嘉納大先生との差別化を図るため「健治親分」と呼称します(;^ω^))
健治親分は明治14(1881)年、当時の兵庫県神戸市御影町浜東に所在する、「浜嘉納」の四代目・嘉納治一の次男として生まれます。
嘉納本家はあの有名な日本酒「菊正宗」の蔵元であり、そこから銘酒「白鶴」で有名な「白嘉納家」、嘉納大先生を生んだ廻船業の名門「浜東嘉納家」、そして健治親分を生んだ「浜嘉納家」(こちらも正業は「菊正宗」の蔵元)に分家しており、いずれの家も近畿圏随一の名家です。
父・治一の早逝を受け、健治親分は東京の医者に養子縁組され、当時のインテリへの近道・ドイツ語習得のため、獨逸学協会学校(獨協中学の前身)に進学します。
ところが健治親分は、親戚の治五郎先生ほど勉強が好きではありませんでした(;^ω^)。
上京後、わりかし早い段階で学業からドロップアウトした健治親分はまず、不良船員にワタリをつけて拳銃を入手(!)、猛練習を行って射撃の腕を大いに上げ、「ピス健」としてその名を知られるようになりますが、息子のグレっぷりの尋常ならざることに驚いた養父は、健治親分を偉大なる叔父・治五郎大先生が経営する嘉納塾にブチ込みます。
このころの嘉納塾は、黎明期のような貧乏苦学生のたまり場ではなく、名を挙げ功を成した嘉納大先生の威明を慕う華族など上級国民が、自らの師弟をよりよく鍛えてもらうための「エリート養成塾」になっていました。
従ってその生活スケジュールはわりかし厳しく、朝は4時45分に起床して徹底的に掃除。学校から帰ると2時間の柔道の稽古と自習。土曜日は午前午後の柔道二部稽古、たまには長距離行軍や水泳もやり…という感じ。
おそらく治五郎大先生も、この生活によって健治親分の性根が治ることを期待していたのでしょうが、結果は真逆で、縛られることが嫌いだった健治親分は嘉納塾を早々に脱走。神戸に戻ります。
神戸に戻った健治親分はその男っぷりと拳銃の腕でたちまち名を挙げ、一端の親分として知られるようになります。特に、名門商家の出身で学もある健治親分は「経済に明るい親分」として知られ、様々なシノギを成功させます。
そんな健治親分は明治42(1909)年、横浜で衝撃的な興行と出会います。
それは日本人柔道家と、イギリス水兵ボクサーが折衷ルールで戦う異種格闘技戦。世にいう「柔拳興行」です。
イギリス艦隊水兵ボクサー・ガレットVS講道館四天王・横山作次郎の愛弟子だった昆野睦武(こんの・むつたけ。1885~1917)とのミックスド・マッチは大盛況であり、その後約1年に亘って散発的に興行が打たれますが、外国艦隊が横浜に入港しないとボクサーが確保できないなど、安定を欠く興行だったことが響き、すぐ沙汰止みになってしまいました。
しかし武術・格闘技が大好きだった健治親分はこの興行に大いに触発され、自分の力による恒常的な「柔拳」の自主興行を思い立ちます。
「柔拳興行」の歴史は、おおむね以下の3つの時期に分けられます。
①横浜で最初に行われた、艦隊ボクサーを相手にした興行(以下、「横浜柔拳」)
②明治44(1911)年、日本柔道に挑戦するため現れたアメリカ人ボクサー、エドワード・スミスら一行を頂いて行われた興行(以下、「スミス柔拳」)
③大正8(1919)年以降、健治親分が全面的に打ち出した興行(以下「神戸柔拳」)
以下、この歴史と健治親分の動きをトレースしつつ、柔拳興行の興亡、そこに「ヤクザのシノギ」以上の熱い思いを抱いて取り組んだ健治親分の「柔道の武術化」の取り組みを見ていきたいと思います。
しかし……『菊正宗』に『白鶴』……(^_^;)昭和世代にはあの独特の調子のTVCMがエンドレスで頭の中を駆け巡ってます(^_^;)。