長々長々と新規投稿を怠っており、言い訳のしようもございません。本当に申し訳ございませんでしたm(__)m。
弊ブログを9年間に亘って支え続けたパソコンが10月末日に突如逝去(´;ω;`)したこともあったっちゃーあったのですが…すべてはワタクシの不徳の致すところでございます。本当に申し訳ございませんm(__)mm(__)m。
「次に何を書くか?」という題材はたくさんあるのですが、長くサボっていた怠け心に高潔な息吹を吹き込む意味も込め…今回は中日ドラゴンズ史上最高、いや、昭和11年に日本プロ野球ができてから現在まで、おそらくトップ3に入る打撃成績と人格の高潔さで知られる、心優しき大選手のお話をしたいと思います。
西沢道夫。
大正10(1921)年、東京都品川区生まれ。
昭和11(1936)年、名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)に現在でいう「育成選手」として、わずか15歳で参入し、以後終戦直後のゴタゴタに伴う一時的かつ短期の移籍???以外、ずっとドラゴンズ一筋。
通算20年間の選手時代、投手として年間20勝(通算60勝)、打者として年間40本塁打以上(通算本塁打212、安打1717)と、投打に亘って真のハイレベルな活躍を果たし、ドラゴンズの監督(昭和39~42年、通算勝率5割4分2厘)も歴任。
選手としても監督としても一流だった西沢氏が、こうした数字以上にスゴいのは…接した人間の誰もが「いい人だった」「優しく、気遣いのできる人だった」という言葉を惜しまず、しかもそれが球界のみならず、政界や芸能界でも同様の評価だったということ。
西沢道夫氏の人となりについて記された文献は、その活躍に比して本当に少なく、その実態をつかむのに結構時間がかかりましたが…日本スポーツ界は今も昔もプロ野球だけに限らず、声がデカいだけのバカ、インチキ野郎、ウソツキ、そのほか人間のクズが跋扈し続けていますが、西沢氏はその傾向が特にひどかった戦前・戦中・戦後の動乱を経ても高潔な精神と優しい心を失わず、ゴミのような人間たちからも神様のように慕われたという事実が多数発掘され「これは単純に数字の成績だけでは測りきれない、真の偉人だ」と大いに感服するに至りました。
また、ネットで検索しても、西沢氏に関する記事はウィキの記事を上回るものが一切!!!!!なく、全くのブルーオーシャンであったことも、本稿を書くきっかけとなりました(;^ω^)。
(世の中の「野球マニア」なるバカどもは、イマドキの選手のくだらん数字を数えたり分析したりするヒマがあるなら、もっと戦前や戦中、終戦直後ころに苦労した名選手に着目しろよ!…といつも思っています)
今回は「プロ野球二刀流の元祖のひとり」にして、個人的には「唯一無二、以後も出てくることはない真のミスタードラゴンズ」である西沢道夫氏の生涯に触れていきたいと思います。
以後、本稿では西沢道夫氏のことを、生前のニックネームであった「ブンちゃん」と呼称します。「西沢」にも「道夫」にもひっかからないこの「ブンちゃん」というニックネームの語源は、作中でお話しします。
【その1 荏原に「ノッポのミっちゃん」現る】
ブンちゃんの出生年・場所については上記のとおり。もう少し詳しく生年月日を書きますと、大正10年9月1日生まれ。
西沢家はもともと、長野県内に広い土地を持つ素封家でしたが、ブンちゃんの父・忠造が病弱で「とても地主の仕事に耐えられない」ということで、田地田畑をすべて売り払い、東京に移転。その直後に西沢家の次男として生まれたのがブンちゃんだったのです。
ブンちゃんには年の離れた忠彦という兄がいたのですが、これが攻玉社中(現・攻玉社中・高)の名選手で、ブンちゃんは尋常小学校進学前から、期せずして野球英才教育を受けることとなります。
その英才教育の成果は、ブンちゃんが下目黒小学校に入ると同時にすぐさま開花。尋常4年時にして学校チームの押しも押されもせぬ大黒柱で、荏原郡内の大会は無双状態。
そのレベルの高さは町の大人たちも注目するところとなり、小学生ながら、街の草野球チーム「桐花クラブ」に所属。
ちなみに桐花クラブは軟式チームとはいえ、荏原郡内の大会で平然と優勝したり、実業団相手にも普通に勝ってしまうようなハイレベルのチームですが…ブンちゃんはそのチームに小学校5年生から参加し、エースで3番バッターだったといいますから「栴檀は双葉より芳し」を字で行くような人物だったわけです。
ちなみに「ブンちゃん」の身長は小学5年時点で身長166cm。これは当時の日本人の平均身長(155cm)をはるかに上回っており、このころは「ノッポのミっちゃん」と呼ばれていました。
ブンちゃんが小学生の時分、中等野球(いまの高校野球)の名門といえば、早稲田実業と慶応商工の二強。
ブンちゃんも「いつかはどちらかの学校で甲子園を…」という夢を抱いていましたが、その矢先、もともと身体が強くなかった父・忠造が病に倒れます。
家運が傾いたブンちゃんは中学への進学を断念しますが、 桐花クラブの監督である地域の名物オヤジ・床屋の飯野力蔵はその才能を大いに惜しみます。
「ミっちゃんの野球の腕を生かす、ナ~ンかいい手はねえもんかなあ~」
野球の才能を自認しつつも、家庭の事情の前にすべてをあきらめる覚悟をしたブンちゃんと、その才能を大いに惜しむ飯野オヤジところに、ブンちゃんの人生を左右する「時の氏神」ならぬ、「球界の氏神(高潔なほう)」がやってきたのは、けだし球史の必然!というべきでした。