集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

ふたりの「嘉納」が別々に目指した、柔道の武術化(のようなもの(;^ω^))その4

2023-10-15 10:10:36 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 「サンテル事件」。
 講道館が組織として「勝負法」の扉を閉ざし、「捻合」柔道の殻に引きこもることを決定づけた出来事として、好事家が必ず挙げる事件です。
(ワタクシの意見は「明治40年代ころには、既にそうなっていた」という意見ですが…)
 知っている方も多いと思いますが、事件の概要を見てみましょう。

 大正10(1921)年3月、アド・サンテルというドイツ出身のアメリカンレスラーが、柔道への挑戦を名目に来日します。
 サンテルは前稿で登場したスミスらとはレベルの違う、本物のレスラーでした。
 何しろ大正4(1915)年には神道六合流柔術の野口清五段、翌5年には講道館の伊藤徳五郎五段、同6年には不遷流の柔術家で、「タロー・ミヤケ」としてその強さを謳われていた三宅多留次(みやけ・たるじ)八段など、在米の名のある柔道家を次々に撃破しています。
 サンテルの猖獗に驚いた治五郎大先生は、柔道の名誉回復のため坂井大輔五段をアメリカに派遣してサンテルと戦わせますが、サンテルは逆に坂井五段にアームロックを2回極め、返り討ちに。
 結果、サンテルは「ワールド・ジュードー・チャンピオン」を自称するに至りますが、その自称が全く胡散臭く聞こえない、納得の強さ。さすが「プロレスの神様」ルー・テーズの師匠(何人か存在する「テーズの師匠」の一人とされる)は、一味も二味も違います。
 在米の実力派柔道家を軒並み破り、しかも坂井五段敗北に懲りた講道館が、アメリカに柔道家を派遣しなくなったことを不満に思っていた「ワールド・ジュードー・チャンピオン」サンテルが「向こうが来ないなら、こっちから乗り込もう」と考えたのは、ごく自然な流れでした。

 サンテルは弟子のヘンリー・ウェーバーとともに来日し、講道館への挑戦を表明。これに呼応したのは庄司彦雄三段、清水肇二段、永田礼次郎二段、増田壮太郎二段ら。
 治五郎大先生はこのミックスド・マッチに対し、当初黙認の姿勢を取っていましたが、岡部平太五段や、それに呼応した高段者連中の反発(岡部五段の反対理由と、その他高段者の反対理由は全くレベルの違うものなので、一概に論じてはいけないのですが…)もあり、最終的には「サンテルと試合したら段位を剥奪する」と言い出すに至ります。
 しかし庄司四段らは試合を強行。3月5・6日両日に亘り、靖国神社相撲場において行われた柔道VSキャッチレスリングのミックスド・マッチは、双方が柔道着を着用し、1回20分の三本勝負というルールで行われました。結果は以下の通りです。

【1日目】
・ウェーバーVS増田宗太郎…双方1勝1敗1分で引き分け。
・サンテルVS永田礼次郎…1本目サンテル勝利、2本目で永田が負傷し、痛み分け。ただ試合自体はサンテルが圧倒。
【2日目】
ウェーバーVS清水肇…清水が2本先取して勝利。
サンテルVS庄司彦男…三本勝負、全て時間切れの引き分け。終盤は庄司が完全にスタミナ切れを起こし、時間切れに救われた形。試合終了後庄司は疲労で立てず、サンテルが庄司を担いで退場。

 観客は1万人を数え、大盛況であったようです。

 こうして庄司三段らの活躍によって、講道館は世間から「サンテルから逃げた」と言われなくて済んだわけですが、勧告を無視して試合を強行した庄司三段らには、苛烈な処分が下りました。
 試合に参加した四人に加え、兒玉光太郎四段、山田敏行三段、藤村兼吉二段の七名は「興行師サンテル等と興行に見做さるる方法に於て自ら試合を為し」たことが、「講道館有段者として不都合なる行動と認」られ、「有段者として待遇せざる」という処分…要するに段位剥奪という憂き目を見ます(カッコ内はいずれも講道館機関誌「有効乃活動」7巻5号に掲載された、治五郎大先生「サンテル事件の結末」における発言)。
 上記の文章には続けて「将来そのやうなことを再びせぬことを誓ふならば、遠からず元の待遇に復する積りである」ということが書かれていたため、7人は数か月後、元の段位に復帰しています。

 治五郎先生は、「有効乃活動」の前号(7巻4号)に「サンテルとの試合に就(つい)て」と題する一文を寄稿し、サンテルとの試合に至るまでの経過を、おおむね次のように記しています。
・サンテルとの試合については講道館内において「やりたい」「やるな」と意見が真っ二つに割れ、特に高段者連中は「金銭のために試合をするなど、講道館精神に悖る」という理由で反対し、「試合に出た奴は破門しろ」という強硬な意見を言いだすに至った。
・でも私(=治五郎大先生)は「そこまでせんでいいだろう」と高段者連中をなだめ、高段者連中からそれとなく、試合やりたい派を諫めるよう頼んだ。
・しかし、庄司三段らは忠告を聞かずに試合をした。そこで私は事の経過を報告させ、しかるべき処分を下した。

 その処分結果が上記の「段位剥奪」であり、同稿では治五郎先生が「このミックスドマッチを許さない理由」を続けて記載しているのですが、その理由は聡明な治五郎先生らしからぬ、実に不可解で、矛盾に満ちたものでした。

 治五郎大先生はサンテル戦を「今回の如き試合は(中略)変形のレスリングと柔道の業の一部との試合であって、さういふやうな試合は何の意味もなさぬのである」とし、柔道とは「試合の場合それを便利とすれば、棒でも刀でも拳銃でも使ふ。さうすると、柔道との試合は、一方が殺される覚悟でなければ成立しない」(※ここで云う「試合」とは、いわゆる「勝負法」の柔道、つまり何でもありの実戦を指す)ものであり、「柔道の危険でない業だけを以ってする試合に、柔道としての試合といふ名を附することは許すべからざることである」と批判しています。
 おそらく、このころ考察にとりかかっていた「勝負法」を大いに意識しての発言とは思いますが、当時の柔道の現状をふまえれば、ツッコミ所満載です。

 前稿でもお話ししましたが、柔道の乱取り試合はこのころすでに「柔道の危険でない業だけを以ってする試合」以外の何物でもなくなっていました。
 ルールの厳しさだけでいえば、治五郎大先生が批判したサンテルVS庄司三段らの試合の方が、目突き・金的攻撃・絞め技以外の技が全て解禁でしたから、健治親分が批判した「捻合」柔道よりずっと厳しく、危険なルールであったことは疑いがありません。

 また、治五郎大先生はこの稿で「将来は柔道と何々との試合といふことは一切いはぬことにしたい。真剣勝負でなければ試合は成立しないといふことを記憶して置いて貰ひたい」とも発言しており、これは要するに「実戦で使える『勝負法』までを修めることが柔道であり、そこまで至っていないヤツが柔道を語るな!」という意味ですが、このころまだ「勝負法」は、治五郎大先生のアタマの中にしか存在しないモノでした。 
 「内地に空手が初めて伝わった日」とされる、富名腰儀珍・儀間真謹両先生による唐手の形・約束組手の紹介演武会の開催が大正11(1922)年5月17日で、サンテル戦のちょうど1年後のこと。治五郎大先生はこれにインスピレーションを受け、ここからようやく「勝負法」の具体的な研究が始まるわけですから、この発言をした時点では「勝負法」なるものの具体的な形は何もありませんし、サンテル戦を批判した高段者連中に至っては「捻合」柔道しか知らないザコでした。
 こんな情けない状況であったにもかかわらず、「柔道は実戦技まで修めて、初めて柔道と言うんだ!」という主張の源はいったい何なのでしょうか。「バクチで勝ったら返すから、カネ貸して」という発言くらい、説得力がありません。

 サンテル戦以後、講道館は「ミックスド・マッチ」の門戸を固く閉ざし、健治親分の嫌う「捻合柔道」へのガラパゴス化を進めていきます。
 空手の演武にインスピレーションを受けた治五郎大先生は以後、「勝負法」への傾倒を強めていきましたが…これはワタクシの私見ですが、「勝負法」研究のひとつの結果である「警視庁柔道基本 捕手ノ形」の出来栄えを見る限り、たとえ治五郎先生が120歳くらいまで壮健であったとしても、完成版「勝負法」は実戦では全く使えない、しょうもないものになっただろうと確信しています。

 大正時代、文・画双方にマルチな活躍をした芸術家・水島爾保布(みずしま・におう)は、サンテル事件と、これに連座した講道館のバカ騒ぎを、こう批判しました。
「アド・サンテルといふ相撲取りが、遥々やって来て、日本の柔道家と試合をしたいと申し込んだ。まさか当人を前に置いて人格問題を云々するわけにも行かなかったさうで、柔道は興行物ではないとか何とかいふのを理由に、名のある連中挙って逃げて了(しま)った。蓋し「国威」に関するとでも思ったからであらう。雑巾踊りや裸踊りにまで「国威」といふものがブラ下がっていることを知り得たことによって、我らはどれ程意を強うしていいんだか?」
「今度のアド・サンテルだってさうだ。(中略)柔道の型にはまらないのとそんな沢山さうな文句は後にして、彼らの体を鍛錬する科学的な方法でも教わっておくことだ。」(水島爾保布「愚談」大正12年刊)
 
 次回は健治親分に話を戻します。

2 コメント

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ありがとうございます! (周防平民珍山)
2023-10-18 20:36:24
 老骨武道オヤジさま、ありがとうございます。また、前回のコメ返しを怠っており、本当にすみませんm(__)m。

 今回も国会図書館蔵書を漁り回って記事を書きましたが、当時の息吹が聞こえる著書を読めば読むほど、サンテル事件における柔道側の主張には矛盾や欺瞞がひどく、驚くばかりでした。
 もしかすると、「有効乃活用」に「嘉納治五郎」クレジットで書かれた各種の文章は、ゴーストライター(古賀残星あたり?)に適当に書かせたものかもしれませんが…結果的に、雑誌に載せるOKを出したのは治五郎大先生であり、そうした意味でも柔道は、大正末年には既に「実戦対応力」も、「他格闘技対応力」もない、水島爾保布のいう「雑巾踊り」に堕したものになっていたと断じていいと思います。

 また本稿にも書きました、大正11年の演武が、「勝負法」研究を大いに後押しし、それが昭和に入って、空手が「日本伝武道」として認可される直接の理由になったわけですから、やはり冨名腰師範は「近代空手道の父」と呼ぶべきだと思います。
(個人的には、相方を務めた儀間師範も「近代空手の父パート2」と呼んでほしいと思っていますが…)

 この連載、まだ続きますので、よろしくお願いいたしますm(__)m。
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Unknown (老骨武道オヤジ)
2023-10-15 21:33:01
おお、ついにここまで書いちゃいましたか!期待通りの文面ありがとうございます。柔道=善玉×空手道=悪玉!この悪評を払拭しょうと血まなこになって奮闘し、志半ばで無念にも鬼籍に入られた空手道先輩諸氏に成り代わり、深く御礼申し上げますm(、、)m!!!
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