前稿では、組織としての講道館が大正時代に「実戦」「異種格闘技戦」とつながる細い橋を自ら切り落とし、「捻合」「雑巾踊り」(「雑巾踊り」といったらキレる柔道原理主義者がいるかもしれませんが、これはワタクシが言ったわけじゃないです。水島爾保布の本に書いてあっただけです(;^ω^))のなかに自らを閉じ込めた経緯についてお話ししましたが、今回は健治親分の柔拳興行の具体的な中身と、その興行の中に込められた、ボクシングと柔道双方に対する本気の「格闘技愛」を見てみたいと思います。
健治親分の完全プロデュースによる柔拳興行…後年「神戸柔拳」と呼ばれる興行が初めて打たれたのは大正8(1919)年10月28日。場所は「聚楽館」という、当時関西圏で一番のモダンな劇場。
28日から31日まで、「英露両国拳闘家十数名」を迎えて打たれたこの興行は大人気を博し、「立錐の余地なき大盛況」(カッコ内はいずれも当時の神戸新聞)であったそうです。
ここで大正時代の格闘技事情を知らない方は、「健治親分はなぜ、ボクサーがボクシングのルールに基づいて戦う『純拳』ではなく、柔道VSボクシングという『柔拳』を興行手段として選んだのか?」という、単純な疑問を抱くと思います。
これにはいくつか理由がありますが、最大の理由は「当時の日本ではボクシングの知名度が低すぎ、且つ、観戦に堪えるボクシングができるボクサーもいなかったから、純拳の興行は物理的に不可能だった」ということ。
じつは、日本人が「ボクシング」というものを知るようになった直接の大きな原因は、ボクシング関係者の偉大なる努力!…なんかじゃなく、大正時代に本格化した活動写真でした。
ボクシング史研究の泰斗・郡司信夫の著書「拳闘五十年」によれば、「大正時代の若人の魂をつかんだ(活動)写真は、大正九年に封切られた『不思議の人』と翌十年にうつされた『深夜の人』三十六巻」でした。
「不思議の人」は当時の世界ライト・ヘビー級王者ジョルジュ・カルパンチェ(フランス)を、「深夜の人」は当時の世界ヘビー級王者ジム・コーペットが主演(!!!)していた作品で、特に「深夜の人」のほうは、皆様が運動会で何度も耳にしたであろう名曲「天国と地獄」をBGMに、主人公が深夜、悪党をバコンバコン殴り倒す名作!…「拳闘五十年」によれば、日本ボクシング黎明時代のボクサーは軒並み、「この映画を見てボクサー志願をした」と言っていますから、その影響力、恐るべしです。
実は、これらの活動写真に触発された都市部のモダンボーイや、現在の「半グレ」的な若者が見様見真似でやったボクシングこそが、本邦ボクシング黎明時代の「底辺」を支えた存在であり、彼らの要望が飽和状態に達したとき、初めて「純拳」がわが国に誕生したのです。
ネットに転がる「ボクシング正史」では「日本ボクシングの父は渡辺勇次郎であり、渡辺が純粋なボクシングを広めた」となっています。
これは完全な間違いじゃないですが、あまりに一面的な見方です。
確かに渡辺勇次郎は誰よりも早く本場・アメリカのボクシングを学び、本邦に初めて体系立てられたボクシングを輸入、「純拳」での興行を試みますが、時期尚早過ぎたため興行は不入りに次ぐ不入りで大失敗。しまいには興行主(=地方の親分連中)にカネが払えず、何度も命を狙われています。
ボクシングへの情熱だけが上滑りして興行的に大失敗、ついでにボクシングの知名度アップにも失敗した渡辺勇次郎に比べ、健治親分は当時のわが国におけるトップ中のトップ興行主であり、且つ、ボクシング有識者ですから、興行におけるボクシングの「価値と限界」をよくわかっていました。
健治親分が考えたのは、一般人に馴染みのない「純拳」のゴリ押しではなく、既にスポーツとして確立し、高い知名度と人気を誇っていた柔道とボクシングをくっつけることでした。以下、それを裏付ける健治親分の談話。
「最も早く(ボクシングを)理解させるには、柔道と拳闘といふ勝負の形式に用いたほうが好ひと考へ…」(真田七三朗「拳闘のABC」より)
また健治親分は、機を見るに敏でもありました。
健治親分の興行が打たれた年を思い出してください…大正9年10月末日…さらに、拳闘を世に知らしめた映画の封切り時期を思い出してください…これまた大正9年!
そうです。「都市部のモダンな娯楽」として普及しはじめた活動写真で、「拳闘」なるものを初めて目にした人間が、実際の拳闘を見たくなるのは自明の理。拳闘を扱ったカツドウがバカ受けしているということは、今後も拳闘を扱ったカツドウがどんどん上映される!そして、それに触発された客が増えるほど、柔拳興行の成功率はどんどん上がる!
このような計算に裏打ちされた「神戸柔拳」が満員札止めの大成功を収めたのは、自明の理でした。
健治親分は興行を充実させるため、革新的な試みをどんどん仕掛けます。
まず、ジャッジの厳格化。
「横浜柔拳」では、「柔道家は投げか絞め、ボクサーはアゴ、脇腹へのパンチが決まればポイント」という雑過ぎるルールであり、且つ、レフェリーのレベルが極めて稚拙。結果、レフェリーが有効打や有効な投げを見逃しまくり、その不明瞭な判定にキレた客が暴れるという事態が起きています。
その後の興行でもルールはわりかしグダグダであったため、柔拳興行は「不得手と不得手の戦ひ猿と河童の喧嘩」(大正2年の「東京朝日新聞」)などとバカにされる、大きな原因となっていました。
この失敗を重く見た健治親分は採点基準を明確化。その後もユニホームの統一、選手の表彰制度など革新的な試みを続け、ボクサーもかなりの実力派を用意します。
その結果、「神戸柔拳」は「ただの見世物」から「競技スポーツ」に進化し、地元紙も「スポーツ」として取り上げるようになり、興行は連日大入り。その余勢を駆って堂々の東京進出しますが、そこでも大成功を収めました。
健治親分が直接プロデュースした初期の「神戸柔拳」は、健治親分の入念な準備と斬新な発想によって大成功を収めたわけですが、おカネにならない細かい部分の整備状況を見れば見るほど、健治親分が儲け度外視でこの興行に賭けた、「柔道の武術化」への思いを見て取れます。
前稿でもお話ししましたが、治五郎先生は若い頃から唱えていた「柔道の勝負法」について、語弊を恐れずにいえば、その「中身」を何も考えていなかったフシがあります。
大正11年の空手演武にインスピレーションを受けるまでの間、治五郎先生がナニを以て「勝負法」と認識していたか?といえば、明治10年代に講道館を開いた時にやっていた「古流柔術の型稽古」こそが勝負法だ!などと息巻いていたのです。その証拠が↓
「武術として、有効な乱取の仕方はどういうことかということになると、結局、講道館創設当時の乱取の仕方にかえらなければならぬということになるのである。」(嘉納治五郎「私の生涯と柔道」)
治五郎先生は明治20~30年代にかけ、講道館にとって少しでも面白くない行為をした古流柔術系の実力者を、「大臣クラスのアブソリュート・パワー」(治五郎先生の公務員格は当時の三級…現在でいう副大臣・政務官クラス( ゚Д゚))を以て排除し尽くしました(このへんのお話は別途、稿を改めてお話しします。ワタクシの筆力はともかく、事実としておもしろいですよ(;^ω^))。
スポーツなるものは「禁じ手を増やせば増やすほど、技が洗練され、見た目に面白くなる」という性質を有してますから、生まれた瞬間から「試合に勝つ!ための柔術」であった講道館柔道は、治五郎先生が「気に入らない人間と技をどんどん排除する」ことを進めた結果、偶然の産物とはいえ、柔道のスポーツ的完成度は飛躍的に高くなり、武術性ゼロの競技となりました。
しかし治五郎先生は、「柔道との試合は、一方が殺される覚悟でなければ成立しない」(「サンテルとの試合に就(つい)て」より)…要するに「講道館柔道初期のころのテクニックを以てすれば、すぐ実戦性は回復される!」などと言っているのですから、めでたいというか、アホというか…このころの治五郎先生、いったいどうしちゃったんでしょうね…。
柔道の武術化を目指した「ふたりの嘉納」のうち、自他ともに認める偉大な人物となった治五郎先生の「柔道の武術化」は、かくもいい加減なものであり、語弊を恐れず言えば「ボケ老人の妄想」と断じていいレベルのものでした。
それに引きかえ、こと「柔道の武術化」という取り組みに関してだけ言えば、健治親分のほうが治五郎先生に比べて数倍も、現実的かつ積極的でした。
おそらく健治親分は、自らの斬った張ったの経験やボクシング経験、そして過去の柔拳興行の研究結果から、講道館柔道のそうした組織的・体型的欠点、そして治五郎大先生の言う「武術への回帰」が、なんの根拠もない空論であることを当時の日本で一番よくわかっていたのではないか、と思います。
健治親分が柔拳を「見世物」ではなく、ルールや競技形態を整備した「スポーツ」として運営しようとしたのは、柔拳興行を、既にスポーツとなって久しい柔道と同じ土俵に上げることで、「捻合&雑巾踊り」と化した柔道の欠点を白日の下にさらけ出し、「それに対抗ができるスポーツ」としての柔拳を起こしていこう、と思ったからです。
大正9(1920)年10月24日付「神戸新聞」に掲載された「国際柔拳研究の必要なる趣旨」において、親分はこう述べています。
「(スミス柔拳のとき)嘉納健治氏が拳闘に対して柔道の尚多少欠陥あるを覚り(中略)其欠陥の除去を努めつつ機会ある毎に拳闘家と競技を行ひて、其の研究の結果が、昨年二月聚楽館に於ける、神戸外人拳闘倶楽部との競技を見るに至ったものであります。」
「講道館の有段者でも拳闘に慣れない人だと無慙な敗を取るさうであります」
健治親分は「真に琢磨の効を積まんとされる武術家は是非この競技に参加して大いに研鑽されたい」と結んでおり、自分の興行における「武術性」に自信をのぞかせています。
健治親分のゼニカネを越えたこうした試みは、矛盾と妄想に満ちた試みと主張しかできなかった治五郎先生のそれより、よほど現実的かつ効果的なものだったと思われます。
次回は「治五郎大先生の武術化事業大迷走」と「柔拳興行の終焉」を見ていきたいと思います。
健治親分の完全プロデュースによる柔拳興行…後年「神戸柔拳」と呼ばれる興行が初めて打たれたのは大正8(1919)年10月28日。場所は「聚楽館」という、当時関西圏で一番のモダンな劇場。
28日から31日まで、「英露両国拳闘家十数名」を迎えて打たれたこの興行は大人気を博し、「立錐の余地なき大盛況」(カッコ内はいずれも当時の神戸新聞)であったそうです。
ここで大正時代の格闘技事情を知らない方は、「健治親分はなぜ、ボクサーがボクシングのルールに基づいて戦う『純拳』ではなく、柔道VSボクシングという『柔拳』を興行手段として選んだのか?」という、単純な疑問を抱くと思います。
これにはいくつか理由がありますが、最大の理由は「当時の日本ではボクシングの知名度が低すぎ、且つ、観戦に堪えるボクシングができるボクサーもいなかったから、純拳の興行は物理的に不可能だった」ということ。
じつは、日本人が「ボクシング」というものを知るようになった直接の大きな原因は、ボクシング関係者の偉大なる努力!…なんかじゃなく、大正時代に本格化した活動写真でした。
ボクシング史研究の泰斗・郡司信夫の著書「拳闘五十年」によれば、「大正時代の若人の魂をつかんだ(活動)写真は、大正九年に封切られた『不思議の人』と翌十年にうつされた『深夜の人』三十六巻」でした。
「不思議の人」は当時の世界ライト・ヘビー級王者ジョルジュ・カルパンチェ(フランス)を、「深夜の人」は当時の世界ヘビー級王者ジム・コーペットが主演(!!!)していた作品で、特に「深夜の人」のほうは、皆様が運動会で何度も耳にしたであろう名曲「天国と地獄」をBGMに、主人公が深夜、悪党をバコンバコン殴り倒す名作!…「拳闘五十年」によれば、日本ボクシング黎明時代のボクサーは軒並み、「この映画を見てボクサー志願をした」と言っていますから、その影響力、恐るべしです。
実は、これらの活動写真に触発された都市部のモダンボーイや、現在の「半グレ」的な若者が見様見真似でやったボクシングこそが、本邦ボクシング黎明時代の「底辺」を支えた存在であり、彼らの要望が飽和状態に達したとき、初めて「純拳」がわが国に誕生したのです。
ネットに転がる「ボクシング正史」では「日本ボクシングの父は渡辺勇次郎であり、渡辺が純粋なボクシングを広めた」となっています。
これは完全な間違いじゃないですが、あまりに一面的な見方です。
確かに渡辺勇次郎は誰よりも早く本場・アメリカのボクシングを学び、本邦に初めて体系立てられたボクシングを輸入、「純拳」での興行を試みますが、時期尚早過ぎたため興行は不入りに次ぐ不入りで大失敗。しまいには興行主(=地方の親分連中)にカネが払えず、何度も命を狙われています。
ボクシングへの情熱だけが上滑りして興行的に大失敗、ついでにボクシングの知名度アップにも失敗した渡辺勇次郎に比べ、健治親分は当時のわが国におけるトップ中のトップ興行主であり、且つ、ボクシング有識者ですから、興行におけるボクシングの「価値と限界」をよくわかっていました。
健治親分が考えたのは、一般人に馴染みのない「純拳」のゴリ押しではなく、既にスポーツとして確立し、高い知名度と人気を誇っていた柔道とボクシングをくっつけることでした。以下、それを裏付ける健治親分の談話。
「最も早く(ボクシングを)理解させるには、柔道と拳闘といふ勝負の形式に用いたほうが好ひと考へ…」(真田七三朗「拳闘のABC」より)
また健治親分は、機を見るに敏でもありました。
健治親分の興行が打たれた年を思い出してください…大正9年10月末日…さらに、拳闘を世に知らしめた映画の封切り時期を思い出してください…これまた大正9年!
そうです。「都市部のモダンな娯楽」として普及しはじめた活動写真で、「拳闘」なるものを初めて目にした人間が、実際の拳闘を見たくなるのは自明の理。拳闘を扱ったカツドウがバカ受けしているということは、今後も拳闘を扱ったカツドウがどんどん上映される!そして、それに触発された客が増えるほど、柔拳興行の成功率はどんどん上がる!
このような計算に裏打ちされた「神戸柔拳」が満員札止めの大成功を収めたのは、自明の理でした。
健治親分は興行を充実させるため、革新的な試みをどんどん仕掛けます。
まず、ジャッジの厳格化。
「横浜柔拳」では、「柔道家は投げか絞め、ボクサーはアゴ、脇腹へのパンチが決まればポイント」という雑過ぎるルールであり、且つ、レフェリーのレベルが極めて稚拙。結果、レフェリーが有効打や有効な投げを見逃しまくり、その不明瞭な判定にキレた客が暴れるという事態が起きています。
その後の興行でもルールはわりかしグダグダであったため、柔拳興行は「不得手と不得手の戦ひ猿と河童の喧嘩」(大正2年の「東京朝日新聞」)などとバカにされる、大きな原因となっていました。
この失敗を重く見た健治親分は採点基準を明確化。その後もユニホームの統一、選手の表彰制度など革新的な試みを続け、ボクサーもかなりの実力派を用意します。
その結果、「神戸柔拳」は「ただの見世物」から「競技スポーツ」に進化し、地元紙も「スポーツ」として取り上げるようになり、興行は連日大入り。その余勢を駆って堂々の東京進出しますが、そこでも大成功を収めました。
健治親分が直接プロデュースした初期の「神戸柔拳」は、健治親分の入念な準備と斬新な発想によって大成功を収めたわけですが、おカネにならない細かい部分の整備状況を見れば見るほど、健治親分が儲け度外視でこの興行に賭けた、「柔道の武術化」への思いを見て取れます。
前稿でもお話ししましたが、治五郎先生は若い頃から唱えていた「柔道の勝負法」について、語弊を恐れずにいえば、その「中身」を何も考えていなかったフシがあります。
大正11年の空手演武にインスピレーションを受けるまでの間、治五郎先生がナニを以て「勝負法」と認識していたか?といえば、明治10年代に講道館を開いた時にやっていた「古流柔術の型稽古」こそが勝負法だ!などと息巻いていたのです。その証拠が↓
「武術として、有効な乱取の仕方はどういうことかということになると、結局、講道館創設当時の乱取の仕方にかえらなければならぬということになるのである。」(嘉納治五郎「私の生涯と柔道」)
治五郎先生は明治20~30年代にかけ、講道館にとって少しでも面白くない行為をした古流柔術系の実力者を、「大臣クラスのアブソリュート・パワー」(治五郎先生の公務員格は当時の三級…現在でいう副大臣・政務官クラス( ゚Д゚))を以て排除し尽くしました(このへんのお話は別途、稿を改めてお話しします。ワタクシの筆力はともかく、事実としておもしろいですよ(;^ω^))。
スポーツなるものは「禁じ手を増やせば増やすほど、技が洗練され、見た目に面白くなる」という性質を有してますから、生まれた瞬間から「試合に勝つ!ための柔術」であった講道館柔道は、治五郎先生が「気に入らない人間と技をどんどん排除する」ことを進めた結果、偶然の産物とはいえ、柔道のスポーツ的完成度は飛躍的に高くなり、武術性ゼロの競技となりました。
しかし治五郎先生は、「柔道との試合は、一方が殺される覚悟でなければ成立しない」(「サンテルとの試合に就(つい)て」より)…要するに「講道館柔道初期のころのテクニックを以てすれば、すぐ実戦性は回復される!」などと言っているのですから、めでたいというか、アホというか…このころの治五郎先生、いったいどうしちゃったんでしょうね…。
柔道の武術化を目指した「ふたりの嘉納」のうち、自他ともに認める偉大な人物となった治五郎先生の「柔道の武術化」は、かくもいい加減なものであり、語弊を恐れず言えば「ボケ老人の妄想」と断じていいレベルのものでした。
それに引きかえ、こと「柔道の武術化」という取り組みに関してだけ言えば、健治親分のほうが治五郎先生に比べて数倍も、現実的かつ積極的でした。
おそらく健治親分は、自らの斬った張ったの経験やボクシング経験、そして過去の柔拳興行の研究結果から、講道館柔道のそうした組織的・体型的欠点、そして治五郎大先生の言う「武術への回帰」が、なんの根拠もない空論であることを当時の日本で一番よくわかっていたのではないか、と思います。
健治親分が柔拳を「見世物」ではなく、ルールや競技形態を整備した「スポーツ」として運営しようとしたのは、柔拳興行を、既にスポーツとなって久しい柔道と同じ土俵に上げることで、「捻合&雑巾踊り」と化した柔道の欠点を白日の下にさらけ出し、「それに対抗ができるスポーツ」としての柔拳を起こしていこう、と思ったからです。
大正9(1920)年10月24日付「神戸新聞」に掲載された「国際柔拳研究の必要なる趣旨」において、親分はこう述べています。
「(スミス柔拳のとき)嘉納健治氏が拳闘に対して柔道の尚多少欠陥あるを覚り(中略)其欠陥の除去を努めつつ機会ある毎に拳闘家と競技を行ひて、其の研究の結果が、昨年二月聚楽館に於ける、神戸外人拳闘倶楽部との競技を見るに至ったものであります。」
「講道館の有段者でも拳闘に慣れない人だと無慙な敗を取るさうであります」
健治親分は「真に琢磨の効を積まんとされる武術家は是非この競技に参加して大いに研鑽されたい」と結んでおり、自分の興行における「武術性」に自信をのぞかせています。
健治親分のゼニカネを越えたこうした試みは、矛盾と妄想に満ちた試みと主張しかできなかった治五郎先生のそれより、よほど現実的かつ効果的なものだったと思われます。
次回は「治五郎大先生の武術化事業大迷走」と「柔拳興行の終焉」を見ていきたいと思います。