宝石店主がブラジル人女性に対し,外国人であることを理由として退去を求めたことが不法行為にあたるとして慰謝料・弁護士費用計150万円を認めた静岡地裁宋哲朗裁判官の判決に触れた。人種差別撤廃条約の私人間・間接適用を認めた画期的な判決だが,その理由に個人的な人権観が盛り込まれているのも非常にユニークだ。これが判決?!と打ちのめされる内容。米国の人権に関する判例なんかは,こんな雰囲気なのかな…などと想像したりもした。非常にユニークなので一部引用する。(判例タイムズ1045号216頁,判例時報1718号92頁)
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第二、基本的人権の根拠付け
一1 人間は二本足を持つことから他の動物と異なり優れて大きな脳を持ち、生きていく本能そのものを失ったが、考える能力を身につけていることが出来、そのために社会的に独立して生活していくまではほぼ二〇年程度の長期間を要して成人し、また、その間に試行錯誤等により自己のよって立つ根拠を限りなく考える性質がある。
思考は無限である。かくて、現実の世界が有限であることから無限に憧れ、また、現実の世界が不完全であることから完全無比を対峙させ、相対的世界から絶対的価値を夢み、西洋ではギリシア哲学を用いて宗教の世界において三位一体説を完成させ、東洋では徳をもって君子とするを標傍した孔子は、その生涯が必ずしも恵まれたものではなかったにせよ(「論語」貝原茂樹著講談社現代新書)、その弟子たちの権謀術策によるのと、広い国土を治める必要から、徳を備えた聖王が天命を受けて神通力を備えた小祝王として世を治めるという易姓革命の思想が前漢時代にほぼ完成した。すなわち、儒教は大いに変貌し人間関係の上下を規律するに便宜な国教としての地位を占めたといわれる(「儒教ルサンチマンの宗教」浅野裕一著平凡社)。
こうした観念の世界では、あるいは荒唐無稽な空想の産物や論証不可能な代物や、釈迦やキリストのような聖人の説が人間性に深く感動を与えるものなどが混在するのであったが、このような聖人やとりわけ権力者にとってはその権威性ないし正統性を根拠付ける神話を産んだ。
しかしながら、観念の世界のみに生きるのであれば、ともすればその固有の世界に閉じこもるあまり融通を欠く場合も生じた。宗教原理主義はその例である。
かくて、中世のヨーロッパでは修道院に閉じこもってひたすら神の身許に仕えるとか、現実よりも理想を念頭においた生活が理想とされ、現実世界においてもこのような宗教的理念に支配される生活であったし、東洋でも儒教が久しく中国の国教となり、上下の階層をなした官僚制度が社会の停滞を招いたとされる。李王朝時代の韓国では、右中国の影響から世襲的な両班という官僚制度が社会の停滞を招いたと指摘されている(「儒教ルサンチマンの宗教」浅野裕一著平凡社。「歪められた朝鮮総督府」黄文雄著光文社など参照)。
自然法とは、このような観念的思考が支配する中世以来の時代を背景として、歴史の世界で変転してやまない特殊的相対的な実体法に対して、人為から独立の自然的な事態ないし秩序または先験的な倫理的法則ないし価値に基づいて必然的に成立する規範であることと観念されて、存在した。
2 一六世紀に至るやデカルトが精神と物質について理解する方法を異にする二元論を説き、物質については数式等を用いて仮説を立て、これを実験等によって実証し、その正確性を証明する方法論が確立して自然科学が発達し、ニュートンの古典力学からアインシュタインの相対性理論や量子力学を産み、ひいては現実世界に応用するテクノロジーと結びついて産業革命を経、今日の物質文明の基礎が築かれた。また、その方法論が人文科学ないし社会科学にも応用されて、社会の法則性が或る程度明らかになった。
3 このことは人々の社会生活にも影響を及ばし、マルチンルターの宗教改革を嘴矢として西洋ではルネッサンスを経験し、キリスト教の一派であるプロテスタントが観念的な世行の価値よりも現実的な世界における実現すべき価値を見出して今日の資本主義繁栄の基礎を築いた。
その間、フランス革命、アメリカ独立宣言は、天賦人権説を根拠に基本的人権を高らかに宣言するに至った。
かくて、一九世紀は、神は死んだとニーチェをして嘆かせたように人間の理性を楽天的に謳歌する啓蒙的な思想が支配し、ルソーの説く人々の一般普遍的意思によって、国家は成立するという社会契約説が産まれ、国家の基礎は主権が国民に存する民主主義が至高の理念であり、国家を構成する人間は理性的存在であると観念される考え方が次第に支配するようになった。
4 しかしながら、人間は理性的な存在であると同時に、欲求に突き動かされて行動する非条理な動物的存在であることも事実である。
このような人間の不合理的な側面に照明を与える学問は、前記事実に関する自然科学の方法論を借りて行われ、心理学、社会心理学であり、文化人類学であったりもし、また、その方法論を政治現象に採り入れた政治学であったりもしたが、さらには根本的にその人間の無意識層に究明を与えたのはフロイトを始祖とするユングなどの精神分析学派も産まれた(「ユング心理学の世界」樋口和彦著創元社)。
5 かくて、二〇世紀は科学とテクノロジーが結びつき、限りなく文明の利器を次々にしかも大量に産み出し、人々はこれを利用し、大量に消費し、また拝金主義を産みだし、ここに大規模な大衆社会を現出させた。情報に関してもおびただしいほどの情報が飛び交い、人々は断片的にこれを鵜呑みにするようになり、いままた、コンピューターの発達により、いよいよ情報は個人的に秘密的にもなってきた。生活に利便なものを与えられた人々はこれを身近な享楽的な分野に使用し、次第に他人との関わり合いや高遥な人生の意義や社会に対する責任というものを忘れるようになっていった(「二十世紀とは何であったか」小林道憲著NHKブックス)。
したがって、今日、自然現象であれ、人間の営みである社会現象であれ、事実に関する面では、相当の進歩を得、人々の物質的な生活は豊かになったが、人間の持つ価値、倫理、道徳についての考察は相当な遅れをとっているといえる(この試みをしたものとしてつぎの論文があるが、人間の起源と自由意思の誕生、さらにそれより産れた価値の問題について考察の筆を進められていたところ、その段階で筆が中断されていることを考えれば、価値の問題は相当の難問であることを示唆する。「人間の科学と哲学」小林直樹著法学協会雑誌112(1・1)1~112(8・58)1076。なお、「現代世界と倫理」加藤尚武・松山寿一編晃洋書房。これについても充分でない気がする。特に差別についての倫理には触れていない)。
人間は社会的動物である。社会の一員として他の人々と共に生活していくためには、法律、倫理、道徳等の社会規範を習得してこれを遵守し、また、価値を追求して行かなければならないのは避けられないのである。
これについては、気の長い話であるが、世界の叡知をして、綿密に人間の価値の理論と実効性のある方法をDEBATE等により高めていく他はない。
古代ギリシアの女神が開いたパンドラの箱より飛び出した精霊達の邪しまな行為は一九世紀および二〇世紀の叡知によって漸く元の鞘に収まったかに見えたが、その精霊の後裔達の新たにまき散らしたカオスについてはなお数多く現存しており、世界の叡知がなお一層の討論によって価値の創出、道徳倫理の発見に務めなければならないと考える。
二1 沿革的には、基本的人権は当初は根拠付けとして、或いは天賦人権説だとか、自然法だとかいわば概念的に説かれてきた。今一歩という感がしないではない。
現在それは法哲学者によってつぎのように説かれる(「法哲学概論」加藤新平著有斐閣)。人間は本来、それぞれ特有の体験と自由な思考によって自己の独自の世界を作り、そして自立的に意思を形成し得る精神的存在者として、互いに比較計量できない固有の存在意義を持っている。人間は一人一人独自の小宇宙であり、かかるものとしてかけがけのない価値を持つ。ところで、全ての人間がかけがえのない価値をもつということは、全ての人間の平等、自由を意味する。全ての人間は、生存への権利、自己の判断、創意によって自己を実現する権利を平等に持つ。つまり、自律的に善悪を判断し、そして、普遍的交互的に調和し得るかぎり、自由に自己の善と信ずるところを行うことができる。この際、自由と平等の価値が各々全ての個人の人格の尊重という本来の存立意義を満たすためには、両者互いに他を必要とするという相補性の関係にある、というのである。相当実証論的になった。
右のうち、自由については個人の問題であるから理解し易いが、平等のためには人間的共感や連帯感情を持つことが必要である。つまり、私はかけがえのない人間である。あなたも私と同じようにかけがえのない人間であると。人間の相互理解や、思いやりは、心理学者の説明では、人間の持つ共感感性であるというのである。
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…まだまだ続く。この人権観が結論にどのくらい関係があるのかな…と期待するのだが…。
こういうユニークな裁判官にあったらドキドキするでしょうね…。
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