これは現代モノの小紋です。「連なる甍」柄・・・とでもいいましょうか、
高いところから町の家並みを見下ろした図ですね。
絵そのものは簡略に描かれ、色も全体的に薄い黄色系とアクセントの赤だけ。
遠くから見ると四角や三角六角をランダムに並べた幾何学柄に見えます。
近寄ってよく見ると「ああ屋根なのね」と・・・。
ところが更に近寄ってみると、実は屋根の波だけではなく、
ところどころに「通り」も垣間見え、そこには歩いている人まで描かれています。
下の写真が、その「通り」のアップです。ね、人がいるでしょ。
こんな風に、高いところから町並みや山野、街道などを
見下ろす視点で描かれた図柄というのも、着物にはいろいろあります。
こんな風に、屋根の並びそのものを図案化しているものは、
やはり現代の柄・・という感じがしますけれど、
昔ながらの「高いところから見下ろした図」というのは、
まぁ言ってみれば「俯瞰図」ですが、雲の間から、霞の間から・・
というものが多く見られます。つまり有名な「洛中洛外図」の屏風絵のような。
雲があって、その切れ間から町並みや人の行くさまが見えていたり、
霞の間から貴族の館や部屋、庭先が見えたり、といった感じ。
川にかかる橋、とか有名な神社仏閣が見えるというような図柄もあります。
いずれも「高みからの景色」なわけですが、古いもの、
例えば先ほど書いた「洛中洛外図」などは、時代時代で何種類も残っていますが
いったいどこに登ってその「場面」を見たのだろうかと思うのです。
実際には、当時東京タワーだのサンシャインだののような、
高い建物はなかったわけですし、雲のうえまで登れる気球やハングライダーも
あるわけがない・・となると、先ずはどこか高い山とか丘とかに登り、
町全体の様子を遠景で観察し、次に街中のちょっと高いところ、
二階とか屋根の上とか、もしかしたら火の見やぐら?あったのかな・・
そこから見た間近な「上から見た人」や「部屋の中、家具や乗り物」の様子を
観察し、最後にそれをアタマのなかで「合成する」・・・でしょうか。
現代に暮らす私たちは、そこへ行かなくても、また高いところへ登るとか
水中深くもぐるとかしなくても、映像でそれを見ることが可能です。
そういう私たちには、結局少しずつ「想像するちから」というのが
小さくなっているのではないか・・とそんな風に思います。
昔の人は、3Dなんてものがなくても平面から立体を思い浮かべ、
地面にいながらにして、雲の上からの状況を想像できたのではないでしょうか。
「使わない機能」はだんだん鈍くなり、やがてなくなってゆく・・といいます。
何かというと「マニュアル」がなければ何もできず、またマニュアル以上に
応用してそこから発展させる、ということが、今の人って苦手だと思いませんか?
かくいう私も、かなり使い古しているとはいえ「現代人」です。
想像力、創造力、空想力、これ以上減らしたくないなぁ、と思っています。
ところでタイトルの「高いところ・・・好きです」なんですが、
私高いところは全然恐くないタチ、というより高所からの眺めは
けっこう好きです。高いところへ登りたがる・・なんかありましたね
「・・・となんとかは高いところが好きだ」と。但し条件があります。
床の下に支えがあること、なんです。つまり東京タワーとかサンシャインとか、
そういうところに登って下を見下ろすことは、全然平気なんです。
高いがけから谷底を覗き込むとか、大きな船のデッキから海面をのぞくとか。
ところが、床の下に何もないと思うとこれが全くダメなんですね。
一番だめなのは「つり橋」。以前横浜のベイブリッジが出来て間もない頃
父があの橋げたの中間を結んだ「スカイウォーク」へ連れて行ってくれました。
てっきりただの展望台だと思っていたのに、先ずはエレベーターで橋の真下、
つまり上をすぐ高速道路が走っているわけですがそこまで登って、
隣の橋げたの道路の真裏に「ぶらさがっている」展望台まで
長い通路を歩くんですね。これが床の下は何もない・・しかも下は海・・。
行くまで知らなかったのです。しかも夜だったので、そばにいくまで
気がつきませんでした。さぁどうしよう・・!!
恐いからやめると言ったら、せっかくつれてきてくれた父に悪いし、
根性すえて歩きました。幸い夜だったので下の海も昼間ほどの実感はありません。
下を見ないように、ひたすら前を向いて必死で歩きました。
そしてついたところが宙ぶらりんの展望台。
一難去ってまた一難です。グルリと歩いて景色を見ようという父のあとを
ヒザがわらっているのを隠しつつ、これまた必死で一周。
結局、私の記憶にあるのは、展望台との出入り口と、横に金網を張ってある
長い通路だけ。以来誘われても一度も行ってません。ゼッタイやだ!
父は私のことを「条件付高所恐怖症」といいます。
親の思い、人の思い、私の七五三の三歳のお祝い着は
当時ゆとりがなかった母のために、
祖母が自分の長襦袢を小豆色に染めて
縫ってくれたものです。写真には写ってるし、
その着物の記憶もありますが、
三歳のとき、数日逢っただけの祖母の顔は
覚えていません。それでも、写真をみると
私にはそういう優しい祖母がいた・・と
胸の奥が暖かくなります。
モノ言わぬものが、深い思いを伝える・・・
ということは、これからも続いてほしいことですね。
実は、私このような、連なる屋根の柄の着物を持っています、これは、亡き母の着物でした、しかも、父がまったくの素人ながら、デッサンして、作ってもらいました、単と袷、二枚、こさえました、一枚はいとこに・・・袷の方は手元に・・・
お袖が少し短めですが、そろそろ着ようかと、おもてます、やはり、着物は思いでが多く・・・
着てみたら、きっと母も向温もりを感じる事と。