写真は自前ですが、すみません、この前デジカメをハデに落としまして…。
あ…「またやったの?」という大合唱がキコエタ…。
はい、ヤッタんです。それ以来どうもピントは合わないわ、
いくらセットしても明るさおかしいわ…。ま、ご勘弁くださいまし。
ピントがボケてるほうがシアワセな写真ってのもこの世にゃありますで…。
えーと、これは手持ちでただ一枚の「鳴海絞り」です。
地の白いところは真っ白ではなく、なんとなくグレーっぽいというか、
うまく表現できない色、つばめと地の絞り部分は濃紺です。
ついでに近くで撮ってみたら…顔がフラッシュでテカテカになりましたので
これまたぼかしております。
せめて「つばめさん」のアップを…色はこちらの方がずっと近いです。
絞りの浴衣というのは、当然幅出しもしてありますから、
寸法的には何の問題もなくしあがってはいるのですが…。
仕立て下ろしは着づらい、のです。しぼの収まりがまだ落ち着かなくて、
着るときも着てからも、妙に摩擦が多いんですね。
要するに、しぼのてっぺんがことごとく引っかかる感じ…。
これから水をとおって落ち着くと、今度はしなやかさが身に心地よくなります。
それでははじめましょ。
*「浴衣」のお話しです。
浴衣という名前は「湯帷子(ゆかたびら)」からきている、というお話しは
皆さんもご存知と思いますが、「湯」はおふろの湯、
では帷子は?…これは「麻の小袖」を意味します。
浴衣のお話しをするには「おふろ」の話をすることになりますが、
日本のお風呂は「サウナ」が主流でした。
そこに入るのに着たもの、更に時代が下がると、
身分の高い人は、入浴後にこれを何枚も使って水分をふき取りました。
つまり「バスローブ」だったわけです。手ぬぐいに対して「身ぬぐい」と呼ばれました。
またこの「湯に入るときに使う」ことが、だんだん庶民にも広まりました。
江戸時代、江戸には「湯屋」が数多くあり、たいへん繁盛いたしました。
関東平野の海っぷちで、江戸の町は風がよくふき、
埃っぽかったこと、貧富の差なく「内風呂」を持たなかったことなどが、
繁盛の理由とされています。江戸っ子は毎日はいったそうです。
ちっとまた話がそれますが…
内風呂を持たなかった理由のひとつは「火事をおそれたため」、
火事とけんかは江戸の華といわれるくらい、江戸は火事の多いところでした。
ひとたび火が出れば、たてこんだ「木と紙」の家はあっという間に燃え広がり、
たいがいは「大火」になりました。当時は破壊消防ですから、
燃えると壊す…で、江戸の町って何回も作りかえられているんですね。
大岡越前が町火消しを作り、また延焼を防止するため「ひよけ地」を確保したり
ところどころに広い通りを作って、道を渡って火が移らないような工夫などもしました。
「広小路」という名前が今でも残っていますね。
そんなわけで火事は自分の家から出したら、大変なおとがめを受けましたので、
たとえ大きなお店(おたな)でも、なかなか持とうとはしませんでした。
それに薪も買わねばなりませんからたかくつくことや、
江戸は上水(要するに水道)であったために、深く掘り下げた普通の井戸ではありません。
ホンモノの井戸は自前で掘らなきゃなりませんでしたが、コレも莫大な費用がかかりました。
そんなこんなで、湯屋ははやったわけですが、
最初のころは、男女混浴であったり、また分かれていても
腰湯程度の湯船で汗をかくサウナタイプでしたから、みな裸ではなく帷子を着ました。
やがてそれが湯ふんどしになり、女はそれが「すそよけ」へと変わっていきました。
このあたりの和装下着のお話しはこちら、
やがて木綿に鮮やかな染めをした「浴衣」は、この湯上り着として、
重宝されるようになったわけです。
浮世絵などにも、女性がぬか袋などと一緒に浴衣を持って
これから湯へいくところなどの描写があります。
つまり、浴衣はずっとバスローブ…だったのです。
また、夏の間お風呂にいけない日や、風呂の休業日などは「行水」をしました。
これはいわゆる「ひなた水」です。当然あさっぱらからということではありません。
そして汗を流してさっぱりしたところで、浴衣を着たわけです。
今でも「浴衣は日が落ちてから着るもの」というのはこのためです。
また、本来着物は襦袢をつけて、半襟を見せて着るものですが、
浴衣は「どうせ湯上り、寝るまでの一枚、或いはそのまま寝巻き」の一枚ですから、
襦袢もな着ないし、ほかの着物のように黒繻子の掛け衿などはつけなかったわけです。
やがてその涼しさやさわやかさ気軽さが受けて、それで外へも出て歩くものとして、
着られるようになっていきました。
さて、ここまでの説明、お分かりいただけましたでしょうか。
そんなわけで浴衣というのは、先染めの木綿着物よりも、薄手の木綿です。
あの弥二喜多さんのエピソードでもかきましたが、
鳴海絞りの浴衣地を「手ぬぐい分だけ切ってくんねぇ」…つまり、
浴衣と手ぬぐいは同じ程度の素材だったわけです。
もちろん、糸の番手によって地の厚みは変わります。
一度晒し木綿をいろいろ見てください。
手ぬぐいでもしっかりしたのとぺらぺらのとありますよね。
浴衣は、モノを選べば「半襦袢を着れば単に着られる」ものですが、
元々が「襦袢を着なくていいもの」として喜ばれ、重宝がられたものなのです。
季節によって単にしたり袷にしたり…それを考えなくてよい、
襦袢やたびという、やっかいなものから夏の間、浴衣だけは開放される、
それを楽しんだ「着物」なのです。
だからわざわざ暑いカッコに戻さんでもええやん…と思うわけです。
単を着るなら、シャンと襦袢から決めて、ちゃんとした「単」を着たほうが
私は気持ちいいと思いますねぇ。
実は、昨今どうもこの「浴衣を単に」ということが言われるので、
ちと古い着物本を引っ張り出してみてみました。
すると、数年前からそういう「本」で、これをやってみせているんですね。
おそらくは「着物の多様化」ってな名目で、これまた着物離れをなんとかしようと、
浴衣にお太鼓だの、たびはいてだのとやっているんですね。
ちょっと無責任だなぁと思いました。
かえていくことはいいんですけれど、実はほんとに着るなら、
きちんと木綿着物、のほうが実用的なのですよ。
きちんと別々に特徴を生かし、そのなかでクロスできる部分もあるよと、
そんなふうに丁寧に示せば「木綿着物」のよさを、もっと理解してもらえると。
高い着物が売れなくなったのなら、もう少しラクな太物をもっと生かすべきじゃないかなと、
私はそんな風に感じます。洗濯だってラクですしね。
ペラペラの安物浴衣で襦袢つけてきてみて、太物で襦袢着てみたら、
その違いがわかります。
浴衣に半襟だけ縫いつけて、レースたびはいて、普通の着物を楽しんでる…
という着方の方もいらっしゃいますね。
元々着物はうそつきがあったり、袖口や振りだけいい布をつけたり、という
ごまかしで楽しむ部分ってたくさんあるんです。
でもそれは、その着物の格をきちんと理解しているから、
その着物にとってはずかしくない「おしゃれ」をさせているのであって、
「もどき」でそんなふうに見せても、ほんとの「ごまかし」でしかない…。
ただ、昨日いただいたコメントにもありましたが、
「楽しみ方」そのものが違うかたもいらっしゃいますからね。
そのあたりはお好みでなさればいいわけですが、
なんといいますかね…
たとえばテーブル・マナーの笑い話で「フィンガー・ボウル」の使い方がわからず、
水だから飲めばいいんだろうと、それを飲んでしまう…という話があります。
知らなければ「水なんだし、カップみたいだから」と、
なるほどの説明ではありますが、知っているものから見れば「爆笑もの」です。
お好みでなさるなら、「実は」ということをきちんと理解してから、
そうなさることこそが、ほんとにカッコいいことだと思うし、
実は知っていて、そこからダレもが納得できる新しいことにかえていくことが、
本当の変化だと思うのです。
というわけで、浴衣と単、なんか中途半端ですかね。
あ…「またやったの?」という大合唱がキコエタ…。
はい、ヤッタんです。それ以来どうもピントは合わないわ、
いくらセットしても明るさおかしいわ…。ま、ご勘弁くださいまし。
ピントがボケてるほうがシアワセな写真ってのもこの世にゃありますで…。
えーと、これは手持ちでただ一枚の「鳴海絞り」です。
地の白いところは真っ白ではなく、なんとなくグレーっぽいというか、
うまく表現できない色、つばめと地の絞り部分は濃紺です。
ついでに近くで撮ってみたら…顔がフラッシュでテカテカになりましたので
これまたぼかしております。
せめて「つばめさん」のアップを…色はこちらの方がずっと近いです。
絞りの浴衣というのは、当然幅出しもしてありますから、
寸法的には何の問題もなくしあがってはいるのですが…。
仕立て下ろしは着づらい、のです。しぼの収まりがまだ落ち着かなくて、
着るときも着てからも、妙に摩擦が多いんですね。
要するに、しぼのてっぺんがことごとく引っかかる感じ…。
これから水をとおって落ち着くと、今度はしなやかさが身に心地よくなります。
それでははじめましょ。
*「浴衣」のお話しです。
浴衣という名前は「湯帷子(ゆかたびら)」からきている、というお話しは
皆さんもご存知と思いますが、「湯」はおふろの湯、
では帷子は?…これは「麻の小袖」を意味します。
浴衣のお話しをするには「おふろ」の話をすることになりますが、
日本のお風呂は「サウナ」が主流でした。
そこに入るのに着たもの、更に時代が下がると、
身分の高い人は、入浴後にこれを何枚も使って水分をふき取りました。
つまり「バスローブ」だったわけです。手ぬぐいに対して「身ぬぐい」と呼ばれました。
またこの「湯に入るときに使う」ことが、だんだん庶民にも広まりました。
江戸時代、江戸には「湯屋」が数多くあり、たいへん繁盛いたしました。
関東平野の海っぷちで、江戸の町は風がよくふき、
埃っぽかったこと、貧富の差なく「内風呂」を持たなかったことなどが、
繁盛の理由とされています。江戸っ子は毎日はいったそうです。
ちっとまた話がそれますが…
内風呂を持たなかった理由のひとつは「火事をおそれたため」、
火事とけんかは江戸の華といわれるくらい、江戸は火事の多いところでした。
ひとたび火が出れば、たてこんだ「木と紙」の家はあっという間に燃え広がり、
たいがいは「大火」になりました。当時は破壊消防ですから、
燃えると壊す…で、江戸の町って何回も作りかえられているんですね。
大岡越前が町火消しを作り、また延焼を防止するため「ひよけ地」を確保したり
ところどころに広い通りを作って、道を渡って火が移らないような工夫などもしました。
「広小路」という名前が今でも残っていますね。
そんなわけで火事は自分の家から出したら、大変なおとがめを受けましたので、
たとえ大きなお店(おたな)でも、なかなか持とうとはしませんでした。
それに薪も買わねばなりませんからたかくつくことや、
江戸は上水(要するに水道)であったために、深く掘り下げた普通の井戸ではありません。
ホンモノの井戸は自前で掘らなきゃなりませんでしたが、コレも莫大な費用がかかりました。
そんなこんなで、湯屋ははやったわけですが、
最初のころは、男女混浴であったり、また分かれていても
腰湯程度の湯船で汗をかくサウナタイプでしたから、みな裸ではなく帷子を着ました。
やがてそれが湯ふんどしになり、女はそれが「すそよけ」へと変わっていきました。
このあたりの和装下着のお話しはこちら、
やがて木綿に鮮やかな染めをした「浴衣」は、この湯上り着として、
重宝されるようになったわけです。
浮世絵などにも、女性がぬか袋などと一緒に浴衣を持って
これから湯へいくところなどの描写があります。
つまり、浴衣はずっとバスローブ…だったのです。
また、夏の間お風呂にいけない日や、風呂の休業日などは「行水」をしました。
これはいわゆる「ひなた水」です。当然あさっぱらからということではありません。
そして汗を流してさっぱりしたところで、浴衣を着たわけです。
今でも「浴衣は日が落ちてから着るもの」というのはこのためです。
また、本来着物は襦袢をつけて、半襟を見せて着るものですが、
浴衣は「どうせ湯上り、寝るまでの一枚、或いはそのまま寝巻き」の一枚ですから、
襦袢もな着ないし、ほかの着物のように黒繻子の掛け衿などはつけなかったわけです。
やがてその涼しさやさわやかさ気軽さが受けて、それで外へも出て歩くものとして、
着られるようになっていきました。
さて、ここまでの説明、お分かりいただけましたでしょうか。
そんなわけで浴衣というのは、先染めの木綿着物よりも、薄手の木綿です。
あの弥二喜多さんのエピソードでもかきましたが、
鳴海絞りの浴衣地を「手ぬぐい分だけ切ってくんねぇ」…つまり、
浴衣と手ぬぐいは同じ程度の素材だったわけです。
もちろん、糸の番手によって地の厚みは変わります。
一度晒し木綿をいろいろ見てください。
手ぬぐいでもしっかりしたのとぺらぺらのとありますよね。
浴衣は、モノを選べば「半襦袢を着れば単に着られる」ものですが、
元々が「襦袢を着なくていいもの」として喜ばれ、重宝がられたものなのです。
季節によって単にしたり袷にしたり…それを考えなくてよい、
襦袢やたびという、やっかいなものから夏の間、浴衣だけは開放される、
それを楽しんだ「着物」なのです。
だからわざわざ暑いカッコに戻さんでもええやん…と思うわけです。
単を着るなら、シャンと襦袢から決めて、ちゃんとした「単」を着たほうが
私は気持ちいいと思いますねぇ。
実は、昨今どうもこの「浴衣を単に」ということが言われるので、
ちと古い着物本を引っ張り出してみてみました。
すると、数年前からそういう「本」で、これをやってみせているんですね。
おそらくは「着物の多様化」ってな名目で、これまた着物離れをなんとかしようと、
浴衣にお太鼓だの、たびはいてだのとやっているんですね。
ちょっと無責任だなぁと思いました。
かえていくことはいいんですけれど、実はほんとに着るなら、
きちんと木綿着物、のほうが実用的なのですよ。
きちんと別々に特徴を生かし、そのなかでクロスできる部分もあるよと、
そんなふうに丁寧に示せば「木綿着物」のよさを、もっと理解してもらえると。
高い着物が売れなくなったのなら、もう少しラクな太物をもっと生かすべきじゃないかなと、
私はそんな風に感じます。洗濯だってラクですしね。
ペラペラの安物浴衣で襦袢つけてきてみて、太物で襦袢着てみたら、
その違いがわかります。
浴衣に半襟だけ縫いつけて、レースたびはいて、普通の着物を楽しんでる…
という着方の方もいらっしゃいますね。
元々着物はうそつきがあったり、袖口や振りだけいい布をつけたり、という
ごまかしで楽しむ部分ってたくさんあるんです。
でもそれは、その着物の格をきちんと理解しているから、
その着物にとってはずかしくない「おしゃれ」をさせているのであって、
「もどき」でそんなふうに見せても、ほんとの「ごまかし」でしかない…。
ただ、昨日いただいたコメントにもありましたが、
「楽しみ方」そのものが違うかたもいらっしゃいますからね。
そのあたりはお好みでなさればいいわけですが、
なんといいますかね…
たとえばテーブル・マナーの笑い話で「フィンガー・ボウル」の使い方がわからず、
水だから飲めばいいんだろうと、それを飲んでしまう…という話があります。
知らなければ「水なんだし、カップみたいだから」と、
なるほどの説明ではありますが、知っているものから見れば「爆笑もの」です。
お好みでなさるなら、「実は」ということをきちんと理解してから、
そうなさることこそが、ほんとにカッコいいことだと思うし、
実は知っていて、そこからダレもが納得できる新しいことにかえていくことが、
本当の変化だと思うのです。
というわけで、浴衣と単、なんか中途半端ですかね。
浴衣と木綿着物の違い・・・なんとなく判りました。
さて、それでもよく理解できない点について質問させてください。
これまでのお話やさまざまな方のコメント、また他のブログでのこの類の話題を読んでいて感じることなんですが、なんだか『言葉遊び』のような感じがします。
本来湯上りにさらっと着られるはずの浴衣を、わざわざゴテゴテにしなくても、と言う趣旨はわかるのですが、では浴衣って《どれ》なんでしょう?
夏に売るから浴衣?
もし綿紅梅や絹紅梅、綿絽の生地のものを、浴衣という名前でなく、夏の着物と言う札で販売されていたら?
それでなくても最近はポリエステル素材の『浴衣』が売られています。これを『着物』という商品名で売られていたら?
衿付や、お太鼓で着ても問題ないということになってしまうのでしょうか?
『この着物は、浴衣風にも着られます』という販売方法だったら?こんな論議は起きないのでしょうか?
同じ《木綿》なのになぜ何時もここまで話題になるのか、正直わかりません。
病院で着る【寝巻き】や旅館にあるパリパリ生地の【浴衣?寝巻き?】が外着にならないのは、感覚的に理解できます。
(温泉街ならではの風景と言うのは別として。)
言葉足らずで不快な文章となっていたら申し訳ありません。
決していたずら投稿とかではなくて、まじめにこの類の話題に毎回疑問を持ちながら読んでいるので思い切ってコメントしてみました。
また足りない点は補いたいと思います。
長々と失礼しました。
しかし、ここ数年、暑がりの私は盛夏の昼間、しじらを普段着として着られなくなりました。涼しい普段着を求め、宗旨がえして、大人の浴衣とか着物としても着られますというプレタ浴衣を何枚か購入してみました。
薄手の紅梅風変わり織り(後染め)や伊勢型風の小柄を染めた綿絽では、やはり浴衣を着物として着ていますにしか見えません。朝からは、私はちょっと無理ですが、その点、「先染め浴衣」はよさそうです。綿麻縮みや薄手木綿の格子、縞は私のニーズにピッタリでした。
着物に馴染みのない方が混乱するのはお気の毒ですが、現在の浴衣はさまざま、大きく言えば盛夏の普段着という認識でいいのかもしれないと思うようになりました。麻どころか絹物を着ていて「素敵な浴衣ですね」と言われるのにも、今ではすっかり慣れっこになりました。
同じ木綿なら太物の方が実用的、私もそう思います。
それでも浴衣の着方については、一応着分けてはいますが、わりとゆるーく考えている方です。
他の人を見ても、鼻緒ずれや、人ごみ対策に足袋便利だよね、なんて。浴衣の柄が素敵なら、それほど気にしない方です。
キラキラ兵児帯みたいに、ちょっと「趣味」が…なものはアウトですねぇ。
貧乏性だからでしょうか、私は着物としても着られますと聞くと、どうしても長襦袢の寸法に合わせて仕立ててもらってしまいます。そうすると長襦袢なしの一枚で着るとどうしてもだぶだぶになってしまいますよね。結局、着物のようにしか着られないものになってしまいます。
結局、同じ生地を着物としても浴衣としても着られることは確かにあるとしても、同じ縫いあがった一枚を着物としても外出用の浴衣としても着るのは無理があるんじゃないでしょうか。
とても気に入って買い、去年縫ってもらった浴衣を昨日初めて着ました。何も考えず、着物と同寸で縫ってもらいました。それを一枚で着ましたら、みすぼらしいまでにだぶだぶなのです。ちょっと乱暴に洗って縮んでもらおうかと思ったりしています(笑) 浴衣として着るものは、もっと細身に仕立ててもらったほうがよかったんでしょうね。これは浴衣にしか見えない柄なので特に残念で仕方ありません。
これからは、「この着物は長襦袢なしで一枚で浴衣みたいに着られますよ」とか、「この浴衣は長襦袢を着たら着物のようにちょっとしたお出かけにも着られますよ」とかいう話に惑わされないようにしたいと思いました(笑)
でも確かにはっきりしない部分ありますね~。
これから浴衣を買う方は、きっと迷われるでしょうね。
雑誌やTVには、このあたりを映像で、ぜひとも伝えて欲しいですね。素材と用途の違いとか…。
一方、お気楽さも浴衣の良さですけれどね。
着物における「Tシャツ」的な位置づけ、みたいな…。私も迷います(笑)
とんぼさんが言って居る様に、木綿の歴史がきものを豊かにしました。麻に比べ素材のしなやかさと、絹に比べて安上がりだった事で、そこで綿の大進化が始まりました・・・
次に、戦前までは生活一般のルールと言う物が『ドカン』と有って、決まり事が確りしていました(制服着てればOKみたいに)。この状況で『ゆかた』というジャンルもきちんと決まっていました=夏の内着(寝巻兼)・夕涼み程度の近場の外着(お祭りなんかも・昔は近所)。
更に、木綿を内着にしておくのは勿体ないと、絹物の柄を乗せて(染めや織りで)安価な外出着に格上げしていきました・・・だから此処まではきっちり分けて使っていたのです。
最後に、戦後着物が日常の物で無くなって、あらゆる(伝統的な生活基盤等)垣根が取っ払われて、自由度が増して?あらゆるものが現われました(衣装は自己顕示だから)。良いのか悪いのか・・・
技術革新が進み染色も織布も優れた物が出来るようになって・・・今や『ゆかた』という言葉を→『夏の着物』と言い換えても良いのかもしれませんね。
私見です・・・参考に成らないかもですが?
と思いました。
その判断基準を養うためには実物をたくさん見て勉強…
したいところですが、買う気もないのに呉服屋さんに
入るには勇気がいりますね(^_^;)
それ以前に、木綿を扱っているお店が極めて少ない
ことと思いますが。
そんなこんなで今日もまた呉服業界に貢献せず
ネットでお勉強…(^_^;;)
ちょっと時間がとれませんで、
お返事が遅くなりましてすみません。
ご質問、ちっとも不快などではありません。
私も一生懸命考えてお答えさせていただきます。
まず「浴衣」ってなんだといわれれば、
書きましたとおり、元は湯上り着から昇格した
素肌に着る、木綿の、袷にはならない着物です。
>綿紅梅や絹紅梅、綿絽の生地のものを、浴衣という名前でなく、夏の着物と言う札で販売されていたら?
まぁおそらく「浴衣」という札で売られると
思いますけれど、ここでどんな札がついていても、
上の「浴衣ってなんだ」がわかっていれば、
こう書いてあるけどこうだよね、と
わかるんじゃないかと思うんです。
つまり「だから知ってると便利ですよ」なのです。
同じ木綿なのに…のお気持ちはわかるのですが、
たとえば同じ木綿でも、コットンサテンのような、
光沢があって、薄手でしなやかなものは、
シルクのようにも見えて、ちょっとオシャレな
ブラウスやドレスにも使えます。
でもサッカーやシーチングは、オシャレ着より
カジュアルなものとかアウトドアっぽいものに
むいていますね。
洋服はデザインと素材、着物は色柄と素材、
といったらわかりやすいでしょうか。
たとえばそれについてよく知っているものを
買うときには、説明を読まなくても、
自分で選べます。
でも知らないと「説明」を読んでから
選びますね。着物も同じで、ある程度の知識と
経験があれば、書いてあることや、
つけてある札を気にせず、自分流に
選んで着ることができます。
>『この着物は、浴衣風にも着られます』という販売方法だったら?こんな論議は起きないのでしょうか?
私はむしろ、今のそういう売り方に問題があると
思っています。
もちろん多様化している現状では、
昔とは違う使い方がされていても、
それはそれでいいと思うのですが、
売る側の意識が一致していないのです。
「なぜそうなのか」を
お店の人が知らない場合もおおいですから。
いつも私が言っている「途中で知識の伝承が
とぎれてしまった」ことの弊害です。
私の年代では、ぎりぎり「判断がつく」ことが
多いのですが、少しあとになると、
着物の知識がほとんどないので、
お店の言うとおり、ついてる札の通りで
進んでしまうのです。
だから、イマドキの振袖はインクジェットでも
普通の染めだと思ってしまう。
未婚女性の盛装は「振袖」というような、
明確なことなら、こんなに混乱しないのですが
多様化されていて「例外」がいろいろ
あることだからこそ、売る側も知識を
持ってもらいたいし、買う側も賢くあるほうが
いいんじゃないかと思っています。
ポリについては、また記事を書いていますので
その中でのお話しとさせてください。
お望みの答えではないかもしれませんが、
またお越しください。
一緒に考えていくことって、大事だと思います。
よろしくお願いします。
自分で選べる、というのは、今の時代
貴重な強みだと思います。
実際いろんなこと言われて「違うじゃん」なんて
思いながらも、しっかり自分のニーズで
選んでる…。つるしの浴衣を手にとって
「あら紅梅」といったとたんに
「お客様それは梅柄ではなくて桜柄です」と
言われたときには、思わず「店長呼べー!」と
いいそうになりました。
賢く選び、賢く使う…なんですけどねぇ。
実際浴衣であるかどうかより、
夏に涼しく目的どおり着られるかどうか、
なんですよ。
知ってて上手に使うか、知らずに使うか、
要するに個人の意識ってだけなんですけどね。
ゆるくてもいいんですよ、みっともなくなきゃ。
あっその感覚も、私は古いんでしょうねぇ。
おばちゃんにはチビシー渡世です?!