熊本地震の事で、色々と書いてしまって申し訳ないです。
チームのブログなので遠慮しなきゃいけないのにね…。
色々と状況を聞かれるので、別のブログに書いた文章を貼り付けておきます。
14日の最初の地震から、18日に広島に帰ってくるまでです。
<以下>
阿蘇へ行ったのは下宿の準備など色々と。
4月の初めでした。あれから2週間か…まさかね…。
14日金曜21時の地震では阿蘇の被害は少なかったです。
長男はモンハンを5人でしてて、慌てて外に飛び出し、友達の車で車中泊。
被害も熊本方面に集中していたし、その翌日15日もラーメンを食べに出かけたらしい。
ちなみに、その際に阿蘇大橋にも立ち寄ったとか。
どうせなら夜に来ようと話もしてたとか・・・(ェ;)
その15日の夜。
友達の部屋で下宿生5人一緒に寝る事になったらしく、騒ぎながら過ごしていたようです。
そのうちに1人眠くなったので、そのまま部屋でゴロ寝。
日が変わり翌16日深夜1時。
大きな揺れと音で目が覚めたようです。
天井は落ちそうだし物は倒れてくるし、必死になって5人で耐えて、揺れが治まってから外に飛び出したとか…駐車場はアスファルトは割れてるし、窓ガラスが落ちて飛び散ってるし、悲惨な状況でした。
他の下宿生たちも駐車場に集まり、小さなグループをそれぞれ作り、身を寄せ合って夜を過ごしたらしいです。パジャマだし寒かったでしょうね…。車のライトや携帯でしか明かりもなく、真っ暗な中で何度も襲う余震。きっと心細かったと思います。
長男の小さなグループは「歌」を歌って元気を出したらしいです♪
地震直後の深夜2時に携帯から、「
大丈夫だから」と連絡がありました。
翌朝…近所の小学校に少しの荷物を持って下宿生集合。
目の前には大きく崩れた山。阿蘇大橋は無くなってるし、近所のアパートでは崩れた1階の捜索活動。前夜から寝れなかったのでそのままウトウトしてたんだけど、取材のヘリでここでも寝れなかったとか。よく飛んでましたもんね取材ヘリ…。
こっちでも中継見ながら、どこかいるかな?と探してました。下宿の様子を見たかったけど、ちょうどカメラから切れる場所。
その後、全学生は体育館に集合となり、移動。
大学では水と非常食をもらったようです。
ずっと寝れなかったので、体育館でも眠くてウトウトしていると招集がかかり、下宿生はまとめて移動。
今度は30人で高森中に行く事に。
ここまで電波も悪く、連絡とれず。
移動途中に「
無事だから」と連絡有りで一安心。
ただ、天候も悪化する中で、歩いて移動とか聞いて、酷く心配しました。阿蘇から高森まで17キロもあるんですから・・・。
実際は、少し歩いたあと、自衛隊の車で移動したようですけどね(ェ;)
避難所の高森中ではおにぎりと味噌汁と頂いたようです。
体育館で身を寄せ合い、過ごしたようです。学生が60人ほど。
地元の人に感謝です。
翌日、携帯の電源を節約しつつ、仲間の一人が兵庫の父に連絡。
ここまで前日夕方から、ウチには連絡なし(-_-;)
この頃が『心配』のピークでしたね…。歩いて移動って言ったのが最後でしたからね。
どこで何をしているのか、誰といるのか、無事に避難所に着いたのか???
友達伝えにやっと連絡がとれたのが14時。
どこで何をしているか把握。どうも友達のお父さんが現地に向かっている?合流してもらえる?そんな話を聞きました。
その頃、兵庫で電話を受けた友達のお父さん。
すでに伊丹空港から宮崎空港へ移動。
そこでレンタカーを借りて阿蘇に向かっていたとか。かなり渋滞しつつ高森に到着。
そこから子供たちを乗せて宮崎に脱出。
安心しホテルで1泊。
そして18日宮崎空港から伊丹空港へ…。
新神戸から新幹線で帰ってきました。
改札口で待っていると
見慣れない服を着て、少しよろけながら
顔を見つけて照れながら
苦笑いしながら帰ってきました。
思わず背中をポンポンと♪
「よく頑張ったのぉ」と言うと泣きながら「うん」と言いました。
私も涙が止まりません。人もたくさんいたけれど我慢できませんね…。
あの状態から生きて帰ってきてくれただけで嬉しいです。
我が子の死を今まで感じる事もなかったですから。
同じように4月に入学した1年生は亡くなってました。
この4月から遠く離れた場所に行き、知らない土地で1人で暮らし、震災を体験。
自分だったらどうだったのだろうと考えますね。
今回の件では下宿の友達、先輩、自衛隊、避難所の方々、迎えに行かれた友達のお父さんなど、たくさんの方々に感謝です。
もう少し落ち着いて、作業が開始するようになったら恩返しに熊本に行きます。
こちらでできる事を探していきたいです…。
<以上>
少し補足。
帰ってきた時は、初日に着ていた上下パジャマと友達に借りた上着だけでした。
カバンの中には下宿の先輩たちが集めた缶詰。
高森中の避難所ではおにぎりと羊羹を食べたとか…。
衣食住の当たり前の事が、当たり前じゃない状況だったんですね…。
生きていてくれてよかったです。