県議会は自民、絆の代表質問を終え、明日から一般質問に移ります。
一般質問は本会議で議員1人の持ち時間25分で、自由に議案や県政に対する知事や教育長らに質問をすることができるもので、毎議会ごとに議員全員が質問できるのは、鳥取県議会が誇れるところです。今回、一般質問に立つのは26人。代表質問を加えると総勢28人になります。これだけの議員が本会議で質問戦を戦わせるのは鳥取県議会ぐらいのものです。
前回は鳥取の文化であり、伝統産業である酒造業を守ろうと、地酒育成策に搾って議論しましたが、今回は「教育の今日的課題」と題して登壇します。質問は2つ。一つは今議会で改正が提案されている青少年健全育成条例が、憲法が定める「表現の自由」に反しないかという視点で質問致します。もうひとつは児童・生徒自殺の問題を取り上げます。県内の事例に沿いながら、学校現場の病巣へ切り込むつもりです。
ネットではライブ、録画で放映されるほか、ケーブルテレビでの放送もありますが、関心をお持ちの県民の皆様には是非一度、県議会へ足を運んで頂けましたら幸甚です。
谷村悠介議員に対する辞職勧告決議案が開会された9月県議会の冒頭上程され、自民、公明、無所属の県議の賛成で可決されました。私たち会派「かけはし」は、絆、共産と共に退席いたしましたので、その理由を説明します。
今回の決議は、谷村県議から自民党県連会長の県議会議員に出された手紙が問題とされたものです。内容は入党を求めないことへの抗議などですが、その表現が問題です。手紙に用いられた用紙が不祝儀用の熨斗紙であり、「閻魔様からのお迎えが来る」「窮鼠猫をかみ殺す、合掌」という不穏当な文章があったからです。判例に照らせば、人を畏怖するに足る生命への害悪の告知をしたものと考えられ、構成要件的には、脅迫罪を構成されるものではないかと考えます。しかし、検察官の起訴便宜主義を採用する我が国の司法体系の中では、初犯の者が起訴されるのは、かなり大きな犯罪である場合に限られ、その多くが不起訴処分となっております。そうなりますと、谷村議員の行動は、司法的制裁を加えられることなく済んでしまうことなり、法益を侵害された方の被害者感情を考えるとき、容認できないという結論に至ったことは理解ができますし、確かに県会議員としての品位を疑わざるをえません。
しかしながら、この問題は、県民の権利と自由を擁護すべする県議会の対応であることを考えなければなりません。憲法31条は罪刑法定主義を定めているものですが、その射程は刑事罰を超え、行政手続きなどにも広く適用されるべきことは、タクシー免許申請を巡って争われた裁判や成田新法を巡って争われた裁判などで判示されたところです。特に、第三者所有物の没収を巡って、関税法118条の合憲性が争われた訴訟で、最高裁は昭和37年11月28日、告知、弁解、防御の機会を与えることなく、その所有権を奪うことは、著しく不合理であって、憲法の容認しないところであると明確に判示しています。辞職勧告決議案が可決されれば、谷村議員の不利益になることは間違いありまん。 しかし、本人に弁解の機会も与えず、事実の確認もすることなく、議会開会日に上程し、即、議決というのは問題だと思うのです。民主主義は手続きを重視するところが、独裁主義と違うところです。谷村県議に告知、弁解、防御の機会を一切与えることなく議決することは、人権上、また、民主主義の立場から許されないのではないかと考えます。
現在、倫理条例が議会改革推進会議で議論されており、今後、議論が進めば、政治倫理審査会等の設置が検討され、告知、弁解、防御の機会を与えたうえで、勧告決議となるでありましょうが、現在はまだ、そこまで至っておりません。そこで、私たち会派「かけはし」は議会運営委員会の中で、谷村議員の弁解等を聞くことを提案しましたが、受け入れてはもらえませんでした。憲法31条は日本のdue process条項であり、人権と自由を守る上では手続きを大切になければならず、それが民主主義の本質であると考えます。弁解や防御の機会を一切与えることなく、提案後、即座に議決することは問題が多いと考えますので、この段階での辞職勧告決議案の可決には賛成することができないのです。
辞職勧告決議案を巡って、これまでの歴史を調べてみました。国会議員の場合、決議案の可決で辞職したのは、戦前戦後を通して、1904年(明治37年)3月28日、衆議院で秋山定輔議員がロシアのスパイであるとの疑惑から決議案が可決され、翌3月29日に議員辞職された1例があるのみです。戦後は、オレンジ共済事件で1997年(平成9年)4月4日、友部達夫参議院議員に対する辞職勧告決議案が可決されたのをはじめ、2002年(平成14年)6月21日、収賄罪で逮捕された鈴木宗男衆院議員に対して、2003年(平成15年)3月25日、政治資金規正法違反事件で逮捕された坂井隆憲衆院議員に対して、2006年(平成18年)3月17日、弁護士法違反で起訴された西村眞悟衆院議員に足して、可決されていますが、4人全員が辞職を拒否し、友部参院議員は有罪確定まで約4年間在職し、残る3人も衆院解散まで議員でいました。
地方議会でも、議員の辞職勧告決議は多数可決されていますが、ほとんどの場合、辞職していません。ちなみに、都道府県議会では、この10年の間に9人に対して、10件の決議案が可決しています。福島県の須賀川市議は飲酒運転で逮捕され、昨年10月から今年3月までの間に、4回の辞職勧告決議を受けてやっと辞職したほか、名古屋市議会でも、ポルシェで当て逃げをした市議に対して今月11日辞職勧告決議を全員一致で可決しましたが、辞職を拒否され、河村市長らの説得工作も不調に終わったことから、27日から始まる定例会に再度、議決案が提出されることになるそうです。
かように法的拘束力のない議員辞職勧告決議案を可決したとしても、多くのケースでは辞職が拒否され、長い間、議会が混乱するという状況が続くことも希ではありません。私たち会派「かけはし」は、法的拘束力がなく、可決したとしても意味の薄い議決は、県議会として、できる限り、避けるべきだと考えます。
さらに前例を調べていると、ほとんどのケースが逮捕、起訴、有罪判決の確定など司法的判断の節目でなされており、今回のように、まだ、告訴告発もされていない段階で、辞職勧告決議案を可決することはいかがなものかとも思います。
そして、今回の手紙は、自民党県連会長である県会議員と谷村県議の間に生じたもので、県政に関する者ではありませんので、告訴するなり、話し合うなり、両者の間で解決を図られるべきもので、議会で議論をするべきではないと思うのです。
以上のような理由から、議員辞職勧告決議案には賛成出来ません。しかしながら、今回の問題について、常軌を逸する、まことに品性を欠く手紙を出されたこと自体は、谷村県議は認めておられます。この行為そのものは、議員である以前に、社会人として許容されるものではなく、谷村議員を容認することもできません。私たち、会派「かけはし」は苦渋の選択として、議決に際して退場することに致しました。
報道の中では、私たちの退場だけが報じられ、その理由が報じられないものがありましたので、長くなりましたが、説明をさせていただきました。県民の皆様のご理解を賜りますようお願いを申し上げます。
本日から9月議会です。県民の皆様の暮らしは大変です。少しでもお役に立てるよう全力を尽くして参ります。どうか傍聴にもおいで頂きますようお願いを申し上げます。
「古井喜実先生の業績を顕彰する会」が鳥取市内のホテルで、日中国交正常化40周年記念交流事業として開催されましたので、参加させていただきました。
古井先生は郡家に生まれ、内務省に勤務し、東京都制を実現し、42歳で次官に就任。戦後は政界に転じ、衆院議員を11期務め、日中国交正常化に努力され、1995年に92歳で他界されました。
会は日中友好協会の福間理事長の挨拶で始まりました。藤井会長が関西広域連合議会の常任委員会のため、出席できず、福間県議が主催者を代表して挨拶となったわけです。
福間議員は「水を飲む人は井戸を掘った人のことを忘れてはいけないと中国では言います。日中友好を考えるとき、古井先生の功績を掘り起こし、後世に伝えていかなければならないと思います」と話されましたが、その通りだと思いました。
来賓として、元知事で国会議員でもあった平林鴻三さんが挨拶されました。
「私は81歳になりましたが、古井先生は矍鑠としておられました。敬愛というより、畏敬の対象です。私の先生が古井先生の弟子ですから、古井先生は雲の上の人。明治の気骨を引き継ぎ、中国との細い糸を繋ぎながら、国交を回復させたのは大変ことだと思います。後藤田正晴さんは古井さんと同じ内務省出身でしたが、かつて『古井さんには親分、子分はなかったけれども、先輩、後輩、友人がたくさんいた』と回顧されていました。その言葉通りで、独立自尊、その人柄を示すものだと思います。鳥取県で志のある人は皆、古井さんの周囲に集まっていたようにも思います。皆さんから慕われているという点では、これ以上の人はいない人はいません。雲の上の人でしたが、今日は感想を言われていただきました」などと話されました。古井先生を直接知る方の言葉だけに、興味深く、聞かせていただきました。
八頭町長の平木誠さんも思い出を語りました。
「同じ八頭町池田の出身です。郡家駅前に胸像を建てました。古井先生は生前、「胸像を建ててはいかん」と言われていたそうですが、古井先生のお人柄だと思い、実行委員会を作り、建てさせていただきました。 長島愛生園を訪れたとき、ハンセン病と闘ってきた加賀田さんから、環境問題と、世界にアンテアを張り巡らせることが大事と言われ、古井先生はソ連から生ワクチンの導
入を決められたことを思い出したました。八頭町がワクチン等の導入に懸命なのは古井先生に学んだものです」。岩美町の副町長も、岩美町と古井先生の縁を話されました。
記念講演は、「古井善実と中国」を著した鹿雪宝・同志社大学教授です。
以下はその骨子です。
京都大学に留学したとき、古井先生の資料がたくさん寄贈していることを知り、研究テーマに選び、本も書かせていただきました。水を飲む人は井戸を掘った人のことを忘れてはいけないと諺がありますが、日中国交正常化の縁の下で努力された人のことを得れてないはいけないと思い、今日の講演を引き受けたけであります。
1962年に調印されたLT貿易は、大きな意味があったのですが、佐藤内閣の登場で日中関係は悪化した。しかも、ベトナム戦争もあり、日中関係は最悪になりました。5年の期限でLT貿易は終わるようになっていましたが、古井先生が努力され、NT貿易として継続されることになりました。しかし、古井先生は、中国で佐藤内閣の手先だと避難され、国内では土下座外交とさげすまされたが、それでも、真摯に努力なさったのです。
その理由は、これ以上、日中関係を悪化させてはいけないし、ベトナム戦争はいずれ終わる。そうなれな、アメリカは中国と手を結ぶだろうから、その時に備えなければならないという先見の名もあったからです。 古井先生は日本のことを第一に考える戦時下ではありましたが、自国のことだけを考える偏狭な民族主義者ではありませんでした。
中国は野党や市民との間に、いくつものルートはありまたが、最後は自民党のルートは古井先生のルートしかなかったのです。というのも、社会党、公明党ルートでは野党が政策決定をしたことになり、内閣の面子が立たないからです。そこで、中国が重傷視したのが古井先生らのLT貿易、NT貿易ルートだったのです。日中国交正常化の立役者は古井先生です。 日中関係を考えるとき、忘れてはならず、もっと評価されていい政治家だと思います。
その後、古井先生を偲ぶ宴となりましたが、様々な話を拝聴し、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。この会を企画、運営されました皆様に心からの感謝を申し上げます。