仕事重視の企業社会について「世田谷遺体切断事件から」で触れたが、企業ばかりがこんな社会にしたわけではない。大企業もない地方は、はてしなく彷徨っている。地方企業の多くは、大企業の部品製造などが中心になる。だから製品として人々の手元に届くような、そして印象の深い製品を提供しているようなものは数少ない。だから大企業の浮き沈みによって大きな影響を受ける。景気が良くなったとはいっても実感しない、ということをいい、とくに地方はまった実感を得られない、なんていうことを言う。ところが、地方の製造業が大企業の背景にある以上、明らかに仕事は増えているはずであり、口をつぐんでいて現実的には景気の良い人たちはずいぶんいるはずだ。まったく先が見えない状況にあるような職種が多く、加えて自治体の様子も良くないから、景気が良いなんて「言えない」という人たちもけっこういるに違いない。まさにそれが格差の一模様だろう。
そんな地方の農村地帯であっても、「仕事が忙しいから」の一言で逃げの理由になると思っている人たちがずいぶんと増えた。生活が成り立たないのなら仕方ない、なんてまわりも気を使ってしまうほどお人よしになったが、やはり、社会生活を踏まえれば、すべての人たちで暮らしを補ってゆくという意識は継続していかなくてはならないだろう。にもかかわらず、地域活動は「できる人で」という考えは一般的になった。だからこそ、少し手間をかければ多くの人たちが手を貸してくれるはずなのに、依頼するのも面倒だから自分たちでやろう、なんていうことになる。地域活動はとくに多くの人たちに現実を認識してもらう必要がある。そこで暮らしてゆく以上当たり前の意識のはずなのに、逃げの口上は確立している。以前にも何度も触れてきているが、地域の役員にしても自治体のさまざまな役職も、誰にでもかかわれる環境が必要だろう。またその環境をサポートできる会社が、地域では必要なはずなのだが、それは「世田谷遺体切断事件から」でも触れたように、収益重視で地方の会社も成り立っている。地方も社会が成り立っていないのだから、まず日本中だめなのだろう。
そう考えてくると、定年前にリタイアする人が多くなった今、格差は拡大しているといわれる。しかし、格差が拡大するほどに、銭のことは諦めてもっと違った価値観を持とう、とする人たちが増えるに違いない。そうすれば地方が変わって行くのかもしれない。けして財政的には好ましくないが、「だれでも同じ」ではなく、差があって当たり前という意識が人々の生活意識に変化をもたらせるように思うのだ。ただ、ひとつだけ言えることは、こと「子ども」がそこに介在すると、やはりそう簡単にリタイヤすることはできない。とすると、この世の中で平等な環境が必要だと誰もに感じさせる要因に「子育て」があることは否めない。その子どもがいないことで、多様な価値観が生まれるとしたら、やはり不自然であるわけで、子どもがいても、銭がなくてもまともな教育ができるどこかの国のような背景が必要なのかもしれない。
そんな地方の農村地帯であっても、「仕事が忙しいから」の一言で逃げの理由になると思っている人たちがずいぶんと増えた。生活が成り立たないのなら仕方ない、なんてまわりも気を使ってしまうほどお人よしになったが、やはり、社会生活を踏まえれば、すべての人たちで暮らしを補ってゆくという意識は継続していかなくてはならないだろう。にもかかわらず、地域活動は「できる人で」という考えは一般的になった。だからこそ、少し手間をかければ多くの人たちが手を貸してくれるはずなのに、依頼するのも面倒だから自分たちでやろう、なんていうことになる。地域活動はとくに多くの人たちに現実を認識してもらう必要がある。そこで暮らしてゆく以上当たり前の意識のはずなのに、逃げの口上は確立している。以前にも何度も触れてきているが、地域の役員にしても自治体のさまざまな役職も、誰にでもかかわれる環境が必要だろう。またその環境をサポートできる会社が、地域では必要なはずなのだが、それは「世田谷遺体切断事件から」でも触れたように、収益重視で地方の会社も成り立っている。地方も社会が成り立っていないのだから、まず日本中だめなのだろう。
そう考えてくると、定年前にリタイアする人が多くなった今、格差は拡大しているといわれる。しかし、格差が拡大するほどに、銭のことは諦めてもっと違った価値観を持とう、とする人たちが増えるに違いない。そうすれば地方が変わって行くのかもしれない。けして財政的には好ましくないが、「だれでも同じ」ではなく、差があって当たり前という意識が人々の生活意識に変化をもたらせるように思うのだ。ただ、ひとつだけ言えることは、こと「子ども」がそこに介在すると、やはりそう簡単にリタイヤすることはできない。とすると、この世の中で平等な環境が必要だと誰もに感じさせる要因に「子育て」があることは否めない。その子どもがいないことで、多様な価値観が生まれるとしたら、やはり不自然であるわけで、子どもがいても、銭がなくてもまともな教育ができるどこかの国のような背景が必要なのかもしれない。
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