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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「制裁」その3

2021-07-12 23:56:47 | 民俗学

その2より

 『長野県史』民俗編「第二巻(一)南信地方」(昭和63年)の具体的な「制裁」事例を拾ってみよう。

 「制裁」することをムラハチブと称すのは、ほぼ全域のこと。とはいえ、「制裁」に関する回答は、「少ない」ともいえる。なぜかといえば、南信の調査地点すべてを網羅するほど、回答事例にそれら地名が見られない。おそらく調査用紙が白紙だった地域が多いと考えられる。

 まずどのようなときに「制裁」を受けるか。質問に対する理解、また身近な問題に当てはめることができたかどうか、そうした調査者の観点によって受け止め方は異なる。例えば辰野町沢底の「ムラの条例の第三〇条で次のように定められている。区に対して不都合の行為のあった場合は、評議員会または代議員会の決議により謝罪、または弁償させることがある。」という例は、明らかに現代の地域社会に照らした回答といえる。しかし、これほど現代の問題として捉えられた事例は、ほかにはほぼ見られない。ようは、昔のムラ社会にあった問題で、現代には整合しない問題と捉えている節がある。いくつか事例をあげてみると、

○おきてを破って田のカリシキとしてのしば刈りをしたとか、共有林に入って無断で薪を伐ったり、バラズミを焼いたりしたときなどに制裁を受けた。(S25-岡谷市湊小坂)
○山のトメギを伐ったり、山の口の日時を無視したり、葬式や婚礼の申し合わせを破ったときなどの、ムラギメを破った場合に制裁を受けた。(茅野市北山湯川)
○盗伐や約定違反をしたとき、山開き前の入会林入会や共有山の無断入山などの、ムラのおきてに違反したとき制裁された。(駒ヶ根市中沢中山)
○ムラの規約にいちじるしく違反したり、または盗人、その他人身に危害を加えたり、他人に思想的に迷惑をかけたときにムラバチブにされた。(松川町大島新井)

といったものがあり、共有山に関する事例が多くあげられている。いわゆるヤマノクチアケが、かつてのムラでは節目であったと言えるし、肥料をカリシキに頼った時代の記憶がよく現れているとも言える。これらのほか、詳細は不明だが、「道を広げるときにいうことをきかなかったときに制裁を受けた。(富士見町若宮)」は、いわゆるウマイレに関する「制裁」かどうか、わたしとしては気になる事例である。また道に関するものとして、「ムラにある公道(地図の赤線道)を掘り起こし、つぶして通れなくしたとき制裁した。(飯島町七久保北村)」というものも注目したい。公の道を通れなくする、あるいは自らの勝手で占用されることは「制裁」の決め手となったとも言える。

 そのほか

○大正五年ころ、ある人が自分の家の林の木を長持のさおにするため青年会に伐られたので、警察に訴えたところ、青年会ではハチブにした。(原村払沢)
○明治二十年の若連の記録には、「ムラバチブの制裁を加えることばかりにうつつをぬかしていた」と書いてある。(飯田市桐林)
○西高遠の例であるが、クロマク(黒幕)といってムラに協力しない家の前に黒幕をはり、権現様や高遠囃子の通過中には、その家の人には見せなかった。東高遠の人々がわざわざ見に行った。(東高遠)

といったものがあげられているが、これらは特徴的な「制裁」の一部である。

続く


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