話題提供三人目は長野市立博物館の細井雄次郎氏である。
限界集落集落で人がその集落から移るとき、家財道具を持っていくと思う。ところが新しい新居の家が小さかったり、文化住宅だったりすると、昔の古民家の暮らしをそのまま移すことはできないと思う。その際に何を残して何を持っていくか、選択すると思う。その際今暮らしている人たちは現代に生きている方たちなので、昔の人たちが大切していたものでも今の人たちは大切と思わないものもある。そういったものがなくなってしまう、移住によって代々残されてきたものがなくなってしまう、という可能性がある。限界集落の場合は、その選択をする時間があるが、神城断層地震や栄村の北部地震のように急な災害によって家が傾いてしまったり、倒壊危険があるという際には人命優先の中では家財道具を残すという選択はできない。そういった場合に大量な生活道具や古文書にあっては、文化財指定されているようなものは残されても、一般の生活の中で残されてきた民具とか古文書といったものは、家屋を処分する際に一緒になくなってしまう。当事者にとってはこれからの生活を確保することを優先するから、そうしたものは捨ててしまう。ところが数年後、生活が安定した時に振り返ると、村の記憶や歴史を示すものであったりして、土田拓氏が指摘した三つの空洞化のひとつ、「ムラの誇り」というものを失ってしまうことになる。そうした場合に気持ちとしての集落がなくなってしまうのではないか。阪神大震災以降、そうした指定にかかっていない文化財を救出しようという活動が、歴史・民俗・建築といった研究者のなかから立ち上がって文化財レスキューといった活動が行われるようになった。細井氏自身、博物館に勤務しているという関係からこの文化財レスキューに関わり、その中で指定されていない文化財をどう残していくのか、あるいはレスキューしたけれどそのものをどのように活用し、そして残していくのか考えさせられたという。その体験からの報告であった。
5年前に起きた長野県北部地震後、地震が起こる前から栄村に古文書調査に入っていた白水智氏が中心となって文化財レスキューの動きが始まった。白水氏の声に賛同した人たちによって民具と古文書を被災家屋に入って救出し、それらは村が用意した旧分校跡に収められた。被災後1年後にかけて救出したものの、これをどうするのかが問題となった。研究者の考えとしては保管して公開するだけではなく、地域でその存在を認識できるよう活用されなくては意味がないというものだった。したがって地域の人たちとの関わりを積極的にもって、ものを地元の方たちに使ってもらい村の文化形成に役立てられるよう活動を計った。古文書については、古文書を読めると人と、村のそれを読めない人がペアを組んで一緒に整理するという方法をとった。文字が読めなくても目録はできる。古文書にある地名の情報を読めない村の人からもらったりしながら、読めない村の人は内容を少しずつ理解し、内容について入り込むことができた。また民具については積極的に地元の人たちに参加してもらって、その方たちから聞き書きをしながらものを活用する活動をした。たとえば寺にあった地獄図から絵解きを行ったり、またたくさん集まったお膳については実際に使ってみないと解らないといって、オカノエコウの時に出される料理を再現してみるという企画を持った。5年経過してが、今でも文化財レスキューに関わった県外からの参加者が月に一度集まって、古文書や民具の整理をしながら地元の人々と交流している。こうしてものを活かし、村の活性化へ繋げようとしている。今年の8月には村の予算で分校を整備して、栄村歴史文化館としてオープンするという。資料館だけではなく、公民館としても利用されることから、物を見せる展示室だけではなく、人が集まって活動ができる施設になっていて、栄村ではレスキューしたものを活用する良い例となっている。
いっぽう神城断層地震の方については、新潟から建築士の方たちが被災した古民家を修復するボランティアに参加している。そこに呼応する形で、県内外の歴史・民俗の研究者が集まってレスキュー活動を行っている。震災後すぐに雪が降ってしまったので、雪解け後に作業を始め半年で終わった。ただ救出しただけでは意味がないと、地元の方に加わってもらって、地元に還元できないかという活動をしている。しかし、栄村のようにうまくいっておらず、地元との連携が取れていない状況だという。それでも昨年度末あたりから白馬村教育委員会の協力を得て、レスキューしたものを整理するなかで解ったことを2月にいっぺんの割合で報告会を開催している。そしてそこに集まっていただいた方の中から毎月1ぺん、民具の整理に加わってもらってもらえるようになった。ところがレスキューしたものを置いてもらっている村の施設を空けて欲しいと言われており、整理する場所がなくなってしまうという状況になっているという。今後救出したものをどう活用していくか検討していかなくては状況となっている。
どちらの場合も行政から指定されていないものを救出している。緊急時において地元の人たちがいらないと思っていても、年数がたって気がついた時に地元の「誇り」を示す重要なものになるはず。これを失わせないために、レスキューは意義がある。そしてこのレスキューには、継続的に活用する仕組みづくりするのも含まれているという。細井氏は、文化財レスキューの先駆的例ではないかと昭和469月に発行された『長野』第39号に報告された「小田切小鍋地区民俗資料展」の例を紹介した。それによると、昭和44年に長野市小田切小鍋で発生した地すべりにおいて集落の移転を余儀なくされ、1年をかけて移転が行われた。その際三輪田町の原登さんという元国鉄に勤務された方が中心となって、自転車で小鍋まで行き自転車の荷台や、仲間の軽トラックに地元の人たちがいらないといって残して行ったタンスや生活道具、あるいは馬を飼っていた道具、戸口に貼られていた御札といったものを集めて個人で保管していた。これを信学会の市川理事長が引き取られ、民俗資料展を何箇所かで開催されたことが『長野』で報告されている。その後それらは信学会の倉庫にずっと眠っていたのだが、数年前にその倉庫が取り壊される際に博物館に話があって、一部を小田切の旧学校跡のプレハブに移動した(倉庫に限りがあったため、大半は処分された)というが、その後そのままになっている。救出はされたものの誰の目にも触れられずそのままになっているのは、捨てているのと同じではないかと細井氏はいう。
こう考えてくると、救出活動は大事なことだが、今後どうそれを活用していくかというところが大きな課題だという。今例会の「限界化」というところとは直接関係することではないが、ムラがなくなるという際には同じような例に遭遇することが予想され、救出する資料のあり方を考える例として細井氏は紹介された。
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