島畑の二夜様(令和5年9月6日)
旧暦の7月22日の夜(今年は今日)、月待ちのひとつ二十二夜様の祭りが伊那市近在で見られる。ひとつは高遠町の街中島畑で行われているもの。コロナ禍の3年間もこぢんまりと地区内の人たちだけで行われたといい、ようやくオープンな姿で二十二夜様の夜を迎えた。三峰川の天女橋端の岩場に祀られた石造の「二十二夜」は、写真の左手の祠に祀られる守屋貞治作延命地蔵尊のさらに裏手高い位置に同じように祠に祀られている。道端に設けられた祭壇は、雨の予報があったためブルーシートで覆われたが、祭りの始まる午後6時にはすっかり雨はあがった。島畑町会によって昔から行われてきたが、軒数も減って今は9軒だけだという。
午後6時、町内会のみなさんが整列するなか、沢尻の恩徳寺住職によって読経があげられた。もともとは近くの香福寺の住職にお願いしていたが、無住になってから南箕輪村沢尻の恩徳寺にお願いするようになったという。読経が終わると祭壇へのお参りが始まり、しだいに近在の参拝者もお参りに訪れ参拝者には護符が配られる。護符は菓子店の千登勢に依頼している。「二十二夜尊御守護」のお札は町内会で用意され、今年は30枚刷ったという。前年に刷ったものもあって、50枚くらい用意しておくと言う。お札1枚200円で譲られているが、それほど多くの参拝者が手に入れるわけではないよう。お札の効果について、受付の貼り紙には「安産祈願、商売繁盛、家内安全、大願成就」と掲げられている。島畑町会内に貼り出されている「二十三夜」を知らせるビラには「大願成就」と「安産祈願」が記されていて、この祭りに参加されている町内会の方もこのふたつの祈願が中心だと答えられていた。「二夜」の翌日は「三夜」にあたることから、ここでは翌日二十三夜様も祀るというものの、ここの石碑群の中に「二十三夜」の碑はない。二夜様の祭壇に鉦が置かれていたので「いつ使うのですか」と聞くと、「三夜」の際に鉦を叩くという。身体の痛いところを数珠でこすって「鉦を叩く」のだという。「二夜」と「三夜」はセットで祀られている風にもうかがえる。
坂下の二夜様(右側)
同じ日、坂下常円寺においても二十二夜様の祭りが行われた。かつては仲本町商工会によって行われたというが、商工会が縮小するなか実施が難しくなって平成14年に区の方に相談されたという。区が応援し、実行委員会によって実施するよう引き継いだという。以来実行委員会によって祭りが行われてきたが、今は坂下女性の会のみなさんが応援してくれて賑やに祭りが盛り上げられる。「二十二夜尊」の碑は「法華経一千部供養塔」と「蚕玉尊」とともに三つの碑が並んで浄円寺境内に祀られている。珍しい大理石の石碑は、『坂下区誌』によると仲町の中村庄助翁が四国・西国・秩父・坂東の霊場めぐりをした記念に大正3年に建てたものという。その中村家がかかわって祭りが行われてきたが、昭和42年から仲本町商工会が中心になって引き継いでいたという。
さて、いずれの二十二夜様も安産祈願にローソクが用意されており、祭壇に供えられたローソクを持ち帰り、陣痛が始まったらローソクに火を灯すとローソクが燃え尽きるまでに丈夫な子が生まれると言われ、できるだけ短いローソクが好まれた。かつては手良野口蟹沢でも旧暦7月22日に二夜様の祭りがされていたというが、今は8月末の土日開催に変わっている。いずれにしても伊那市近郊に、目立って二夜様の祭りが今も行われている。
島畑のお札
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