半月ほど前に“「お悔み欄」は何処へ”を記した。その後もお悔み欄に掲載される「亡くなられた方」を意識するのではなく、葬儀はどうなっているのだろうと、気になってお悔み欄を見ることが多くなった。時には「南信」エリアの葬儀すべてが「近親者のみで行った」、あるいは「葬儀は○日」と既に終わった葬儀の報告だけで占めた日もあれば、通常通りの葬儀の方が多い日も…。地域間の違いも見られる中、例えば長野市の感染拡大状況を示すレベルが「2」に上げられた今日のお悔み欄は、8事例中6事例は「近親者のみで行った」と、明らかに通常葬儀を避けた姿が現れていた。県内での初期段階の感染者に飯田市域の方が判明した際には、その周囲では通常葬儀が避けられて印象があったが、その後感染者が現れなくなると、再び通常の葬儀に変わりつつある姿も見られる。
こうして見てみると、新型コロナウイルスが収まってくれば元通りになるようにも思われるが、長期化すれば完全には戻らないかもしれない。そもそも、そう簡単に収まりそうもないし、これほど全世界に広がったものが、全く意識されないほどに元通りになるには、安心感がない限り難しいだろう。巷でもささやかれ始めているが、もはやオリンピックは延期から中止に早く舵をとった方が良いという意見も聞こえる。もしかしたら完全なる安心感をつかむまでには、オリンピック1回分(4年)くらいかかるかもしれない。衝撃的な喪失感を味あわせることになるだろうが、致し方ない。
本日の朝日新聞デジタルに「特殊な霊柩車に載せられた母、顔見ぬまま 一変した葬儀」というものがあった。志村けんさんが亡くなった際に、お兄さんが盛んに口にされていたように、火葬されて骨になるまで会うことができなかった。「そんなことがあるのか」と思った人も多いだろうが、感染力が強いため、周囲の人々に不安感が強い。したがって、 厚生労働省が感染者の遺体について「全体を覆う非透過性納体袋に収容・密封することが望ましい」としたうえで、「搬送を遺族等が行うことも差し支えない」などと説明するものの、その対応をしてくれる葬儀屋さんがいない。ということで、安全度を確保するために、遺族でさえ顔を見ることすらできない。新型コロナウイルス感染者が増加するほどに、世間では不安感、不信感、疑心暗鬼になっている人が増殖している。その発端になっているのは、PCR検査をしたくてもできないという現実ではないだろうか。さすがのわたしも、「今は病んではならない」とつくづく思う。この状況を作り上げてしまった責任は大きい。「どうして?」と思っている人は多いだろう。実は、それほど危うい世界が出来上がっていた、ということなのだろう。マスクが市場に出回らない、消毒液もない、ウェットティッシュすらない、そう簡単に元に戻るはずもない。今生の別れさえ、それも身内が送ることができないという今、死生観への影響があるかもしれない。
まったく話が異なるが、「送る」、「迎える」という季節だった。ところが、葬儀同様にいずれも避けられたため、寂しい「送り」を体験された方も多いだろう。非接触の日々を迎えている。
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