浜野安則氏の「道祖神の柱立てと火祭りの関係」において火祭りの目的について、「オンベやイネバナは厄除けに効果があるものと考えられているが、一年も経つとその家を守ってさまざまな厄が身に付いてしまい、厄除けの効果が薄れてしまう。かといって厄が付いたものをそこら辺に捨てると怖いので、火祭りで焼き払うのであろう。その点で火祭りは、正月の終わりに松や注連飾りを炊き上げるのではなく、年の終わりに一年間の厄を焼き払う「厄払い」の行事なのである」と述べている。果たして焼くという行為が「そこら辺に捨てると怖いので、火祭りで焼き払う」というものなのかどうなのか、疑問の派生する点である。例えば盆に迎えられた仏は川に流される。確かに新野の盆踊りでも、あるいは峠を越えた豊根の各地で行われるはねこみ後の送りでも、切子灯篭などがムラ外れまで送られて焼かれるのも同様という捉え方ができなくもない。しかし、必ずしも焼くばかりが「送り」の後始末ではない。むしろ現代に至って、処理に困って「焼く」行為に変化したケースも多い。となれば、捨てる(ここでは送るといった方が良いだろうか)ことが必ずしも「怖い」を意識するものではない。むしろその方が現代人の意識ではないだろうか。したがって、正月の飾りを1年の災厄と重ねてしまって良いかは、もう少し検討が必要かもしれない。
浜野氏は2度の火祭りについても触れている。「二度の火祭りが道祖神の火祭りの本来の姿なのかは、現在二度燃やしている事例を観察することができず、明かにしえない」と述べる。なぜ2度の火祭りに注目しなければならないのか、浜野氏の文から正確には読み取れないが、浜野氏は「柱立てと火祭りの関係を考える」章の「(二)柱立ての目的」の中でこのことについて触れているが、きっとその前項「(一)火祭りの目的」の末尾に加えるものを間違えて柱立ての目的の項に記しているのではないだろうか。とすれば大正月の終わったあとの火祭りと小正月の終わった後の火祭りという2度の火祭りが結びつくわけで浜野氏の意図は繋がる。ところで浜野氏はこの2度の火祭りの事例として今成隆良氏が『松本平の道祖神』で触れた例を引用しているが、2日がかりで焼いたものと明かに日を置いた2度の火祭りを混同している。松本市芳川小屋の事例である「七日と一五、一六日の二度燃やした」は、確かに浜野氏が指摘する大正月の火祭りとしての7日、小正月の火祭りとしての15,16日と言えるが、松本市中山の「一四、一五日の両日に燃やした」事例とは内容が異なる。実は二十日正月の火祭りは伊那谷ではよく知られたこと。確かに現在も2度焼いているところをわたしは知らないが、わたしの子どものころは14日と20日にほんやり(火祭り)を行った。ようは大正月の飾りは14日に、小正月の飾りは20日に焼いたのである。今でもその名残りなのだろうか、小正月には焼かずに二十日正月に大正月の飾りも含めてすべて焼くという地域があちこち(辰野町川島や旧長谷村など)にある。神送りの場合は焼かないが、正月の飾りは焼く、このあたりの違いがどこにあるのか、検討が必要な部分である(既に検討されているものなのだろうが、わたしの記憶にないのは不勉強)。
いずれにしても厄除けに柱立てを結びつけたところも含め、他の事例と比較が必要なのかもしれない。また 象徴的な目印ともいえる柱は、1年に1度ではなく、何度か建てられたということも考えられる。さて、浜野氏はこれらの行事の継承という問題で、「祭日や後継者の問題ばかりでなく(中略)、(作り物の)材料の問題、(中略)技術の問題」などを上げている。このことについては先に「コトオクリの周辺」で触れたとおり、浜野氏の指摘どおりだ。ようは材料が無いから用意するのも面倒だから「やらない」ということになるのだ。これもまた無縁社会の一例と言ってしまえばそれまでだが、そもそもそれぞれの家で展開される行事も、地域があってのものということを強く教えられるのである。
終わり
以上「道祖神の柱立てを探る」にかかわる記事は三石稔が記述したものである。
(本記事について浜野氏より指摘がありましたため、文責をはっきりさせていただきました。)