「コト八日を探る」の付録である。
妻の実家でもこの9日コトぼた餅を作った。その日の夕飯はぼた餅である。小豆と黄な粉、そして黒胡麻の3種類である。このあたりではぼた餅といったらうる米ともち米を半々に混ぜて炊いたものを、すりこぎでつぶし、てごろな大きさに丸めて、小豆餡や黄な粉、ごまなどをつけたものを言う。基本的にはおはぎもぼた餅も同じものを言う。ただ、秋はおはぎ、春はぼた餅、なんていうごく一般論を今は言うが、本当に昔もそうだったのか、家によって違うようにも思う。実はここにあんころ餅なんていうものも加わる。わたしの記憶では我が家ではあんころ餅もぼた餅も同じものだったように思うのだが、あくまでもあんころ餅はもち米だけの餅ということらしい。妻にぼた餅とおはぎを問うと、前述したようなごく当たり前の答えが返ってくる。ちなみにウェブ上でこのことについて検索してみると、「こしあんが「おはぎ」で、つぶあんが「ぼたもち」とか、米粒が残っているのが「おはぎ」で、完全に餅になっているのが「ぼたもち」とか、大きいのが「ぼたもち」で、小さいのが「おはぎ」」なんていう答えもあるようだ。ここの「完全に餅になっているのが「ぼたもち」」という感覚はわたしにもあった。
実は先ごろ松本市入山辺へ入った際、まさにわたしの感覚と同じような答えをいくつか聞いた。オヨウカ(2月8日)には道祖神に餅を持ってお参りし、餅を道祖神に塗ってくるのだが、この際に持っていく餅が、最近は「おはぎ」多くなったようなのだ。前段の説明の通りならこの季節だから「ぼた餅」にあたるのだろうが、ここでは「おはぎ」という。正確におはぎとぼた餅の違いについては問い質さなかったが、どうも雰囲気では「うる米ともち米を半々に混ぜて炊いたものを、すりこぎでつぶし」たものは「おはぎ」、もち米を搗いたもので作ったものを「ぼた餅」と言っているようだ。松村義也氏の『山裾筆記』の中で「真田町の知人から、もち米とうるを混ぜた餅が「おはぎ」で、もち米を搗いたあんころ餅をここでは「ぼた餅」と呼ぶ」と書いている。やはりそういうわけ方をしているところもあるようだ。
昔はどうだったのか、『上伊那郡誌民俗篇』にかつての農家の記録を掲載した部分がある。下記にあげたのはそれら事例である。家によって異なるが、春彼岸に作るものを「おはぎ」と記しているものも多い。また秋に作るものを「ぼた餅」としているケースも見受けられる。やはりおはぎとぼた餅は違ったものを言うのではないかと思えてくる。
○飯島町飯島 飯島氏『年内行事ひかえ』(文政年間)
四月山のくち 「ほたもち」(ぼた餅)
○中川村片桐小和田 林氏『年中行事日記帳』(天保15年)
「彼岸中ニ春・秋ともにおはぎ致ス」
八月十四日 「朝 牡丹餅」
十一月卅日か廿九日夕 「おはぎ」
○駒ヶ根市赤穂南割 小町谷氏『覚え書』(明治40年)
旧三月彼岸中日 「おはぎ」
○宮田村南割 湯沢氏『年中行事』(大正4年)
彼岸 「御萩ノ餅ヲ作リ」
十月十日山ノ講 「アンコロ餅」
さて、コトぼた餅といっている妻の実家でのぼた餅は、いわゆるおはぎと同じ。翌日の10日、妻は飯田市上久堅に用事があって峠を越えた。その際コトノカミ送りの送られた残骸をのぞいてきた。我が家はとっくに厄神が取り付いているから、写真に納めたからといって怖いものはない。たくさんの笹竹が捨てられていたようだが、上久堅の知人に聞くと、まことしやかに「富田(喬木村)で引き継いで送っている」と語ったという。これまでの伝承の記述でも、上久堅から富田と送り継がれるとあるが、どうも送る側は富田でも引き継いでいるとすっかり思っていてそう伝えているのではないだろうか。実際は捨てられたものを引き継いではいない。
ところでそのついでに妻は集落内のコトオクリの様子を少しうかがってみたという。かつてに比べるとずいぶんと笹竹の旗が少ないという。実家のある常会でも、今年コトオクリをしたのはおそらく妻の実家と妻のおばさんの家くらいだったのではないかという。妻曰く「竹だってどこの家にでもあるというものではない。我が家は裏山ですぐ採れるが、集落内の家では材料も容易には手に入らない」。ようはかつてなら無くても融通したのだろうが、そういうこともしなくなったということになる。道に出された笹竹の旗は、富田上の人たちによって富田下のカゴ端まで集めて送られる。果たして今はどのくらいの家が実施しているものなのか、かなり衰退しているのかもしれない。個々の家々の行事はそれぞれに委ねられるため、集団の行事より衰退が早い。そもそもコトぼた餅を作っている家も少ないのだろう。
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