日日雑感

その日の気になった出来事や
七ヶ浜町の状況をつぶやいています

ブログランキング

日記@BlogRanking

縁の下から支えるボランティア活動

2011年11月17日 | ひとりごと


ボランティアセンターで常時使用するトイレと
センターが隣接しているトイレを
県外から来て頂いたボランティアの方々が率先して
清掃していただきました。

清掃活動して頂いた方々は
ボラセンの常連の個人の方と
こちらも常連の尚生会の
みなさんです。

Y県からおいでのSさんは
手袋もせず布ヤスリで
便器の黒ずみまでしっかり
落としてピッカピカに磨いて
綺麗にしていただきました。

災害ボランティアセンターは
こういう人たちに支えられて
いるからこそ
運営できるのです。

本当に
ありがとうございます。

千葉県民ショー! セカンドステージ!

2011年11月17日 | ひとりごと


ボラセン恒例の朝のストレッチ

今日は丸紅・みずほ・沖電気ボランティアグループ第11団の
千葉県民による「なのはな体操」で体をほぐす。

前日、今回のグループに千葉県の方が結構いらっしゃると伺い
私がお願いしました。(迷惑かけた?)

私は日本国民が君が代を歌うのと同じに
千葉県民は「なのはな体操」ができると
信じていたのだが、どうやらそこまででは
ないらしい。

しかし七ケ浜ボラセンでは

千葉県民=なのはな体操
なのです。M村さんのせいです。

今後も千葉県の方は
なのはな体操をしっかり練習してから
来て下さい。







M村さんも待ってますよ!
牛丼ばっかり食べてないでね!
野菜もしっかり食べて下さい!



口承伝説

2011年11月17日 | ひとりごと
 
 ひとりの男が鼻節神社へお礼に参じていた。
好いた娘との婚礼が決まったからだ。
お礼参りもすみ帰ろうとしたそのとき
地面がうなり声をあげた。
社の山ごと男も紺碧の海に沈んでいった。
859年の貞観の大地震である。
相手の娘は深く悲しんだ。娘も男を好いていたのだ。
海へむかってくる日もくる日も男の名を呼んだ。
その声が、沈んだ社へ届いたのか、ほどなく娘も身罷った。
不憫に思った家族は、海が見える小高い丘に塚をたて供養した。
それ以来、恋しい人の名をその海に向かって叫ぶと、思いが叶うという。

娘が眠る小高い丘から見える美しい白い砂浜がその当時のなごりを残している。
前塚浜という。


花淵浜の由来
貞観の地震後、鼻節神社の山一体に咲き誇っていた紅枝垂れ桜の花びらが紺碧の海を紅に染めた。
紅が波うち輝く様はこの世のものとは思えぬほどであったという。
紅の花の淵、花淵となった所以である。
紅の波は悲恋の二人の婚儀を祝うかのよう静かに舞い漂ったという。
清少納言の枕草紙にも「はなふちの社」とあり多くの歌に詠まれており、当時からその美しい様が遠く都まで聞き及んでいたことを示すものである。

後にこの地に城を築き治めることとなった氏が花淵紀伊となるも何かの縁であろう

波乗り兎伝説はこうして生まれた

2011年11月17日 | ひとりごと
口承伝説   

 猿田彦命が第六代孝安天皇の命により北東をめざし航海中、月に雲かかり暗闇となる。わずか雲晴れ西に白い光現れる。光に向かって進むと御崎に辿り着く。
白い光は月明かりに輝く兎の群れであった。
この後御崎が兎ヶ崎(うがさき)となる。

 869(貞観11)年5月26日 陸奥で大地震起こる。
流光が昼の如く現れる後、大きく揺れ、地面が裂け大津波が押し寄せ死人計り知れず。
鼻節の森、瞬く間に世の獣が一斉に吼えるがごとき地響きとともに海底に沈む。
その後、鼻節神社が鎮座した御崎の沖から十五夜になると誰も聞いたことのない吼声響く。社とともに海に沈んだ兎が十五夜の月の夜に御崎に現れると伝えられ、人々は鎮魂の供養をしたという。

その後、吼坊ヶ崎(こうぼうがさき)として今に至る。


延喜式神明帳 名神大社って、なにっ社(しゃ)?

2011年11月17日 | ひとりごと
名神大社
名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。
式内社の社格
式内社は各種の種別がある。まず官幣社と国幣社の別である。官社とは、毎年2月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける神社のことであり、各神社の祝部が神祇官に集まって幣帛を受け取っていた。これが、延暦17年(798年)、それまで通り神祇官から幣帛を受ける官幣社と、その国の国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。式内社では、官幣社が573社737座、国幣社が2288社2395座である。国幣社が設けられたのは、遠隔地の神社では祝部の上京が困難であるためとされているが、遠隔地でも重要な神社は官幣社とされている。
次が大社と小社の別である。この別はその神社の重要度や社勢によって定められたと考えられている。官幣社・国幣社および大社・小社は全ての式内社について定められているので、式内社は以下の4つのいずれかに分類されることになる。
• 官幣大社 -- 198社304座
• 国幣大社 -- 155社188座
• 官幣小社 -- 375社433座
• 国幣小社 -- 2133社2207座
官幣大社は畿内に集中しているが、その他の地方にも分布している。官幣小社は全て畿内に、国幣大社・国幣小社は全て畿外にある。なお、近代社格制度にも同じ名称の社格があるが、式内社の社格とはその示す意味が異なる。また、近代社格制度の社格は延喜式における社格とは関係なく、制定時の重要度や社勢に応じて定められている。
式内社の中には、祈年祭以外の祭にも幣帛に預かる神社があり、社格とともに記されている。
• 名神 -- 特に霊験著しい「名神」を祀る、臨時祭の名神祭が行われる神社。全てが大社であることから名神大社(名神大)という
• 月次 -- 月次祭(6月と12月の年2回行われる祭)に幣帛(神前に供える物)を受ける神社
• 相嘗(あいのなめ) -- 相嘗祭(新嘗祭に先立ち新穀(しんこく)を供える祭)が行われる神社
• 新嘗(にいなめ) -- 新嘗祭(毎年11月に行われる一年の収穫を祝う祭)に幣帛を受ける神社

日本のアトランティス  海底に眠る鼻節神社

2011年11月17日 | ひとりごと
鼻節神社(延喜式神明帳 名神大社)は凄い神社なのだ! 


鼻節神社は第六代孝安天皇の御代(前392~前291)に、岐神(ふなどかみ)として猿田彦命を花淵浜兎ヶ崎(うがさき)に勧請して、神社を創建したと伝えられている。
 
口承伝説   猿田彦命が第六代孝安天皇の命により北東をめざし航海中、月に雲かかり暗闇となる。わずか雲晴れ西に白い光現れる。光に向かって進むと御崎に辿り着く。白い光は月明かりに輝く兎の群れ。この後御崎が兎ヶ崎(うがさき)となる。

貞観の大地震   869(貞観11)年5月26日 陸奥で大地震。流光が昼の如く現れる後、大きく揺れる。多賀城崩壊し圧死者あり。また地面の裂け目に埋没する者もあり。城下に大津波が押し寄せ千余人が死す。 この後、猿田彦命が上陸した御崎は創建された鼻節神社もろとも海中に没する。(海中に没した鼻節神社を現在、大根神社とし祀られている)その後今の鼻節神社が鎮座する場所を吼坊ヶ崎(こうぼうがさき)とよぶようになる。文献により「吼坊ヶ崎(こうぼうがさき)」「ほうが崎」「うが崎」とあるのはこのためであろう。

謎の歴史  塩竈神社の祭神である岐(ふなど)神(かみ)は塩土(しおつち)ノ(の)翁(おきな)とも言われ猿田彦(さるたひこの)命(みこと)とは同神(どうしん)異名(いみょう)である。猿田彦(さるたひこの)命(みこと)が製塩法を教えたと伝えられている。猿田彦(さるたひこの)命(みこと)が最初に上陸したのは花渕浜であり、この地で製塩していたが、のちに、塩釜の地へ移ったと塩釜神社の縁起の一節にある。
 
 この一節から七ヶ浜のどこかに製塩遺跡があるだろうと推定されていた。
昭和47年東宮浜の寺下囲貝塚を発掘調査したところ、関東以北では珍しい弥生期(前期2000年前)の製塩遺構であることが確認された。
 現在、塩釜神社で製塩の儀を司って(つかさどって)いるがその際に「花渕沖の海水(うみみつ)」と「花渕のほんだわら(海藻)」を煮詰めて製塩の祭事を催していたが、いつのまにか「松島の海水」に代わっている。
本来、海藻を育んだ海水とともに製塩するのが常套であり、何故わざわざ違う場所から海水を汲むようになったのかは理解し難い。


鹽(しお)竃(がま)神社の不思議  「鹽竃」の名の由来は、境外末社の御竈神社の御神竈。
鹽土老翁神が、当地で塩の作り方を教えたという。
左右宮に祀られる武甕槌命・経津主命は、鹽土老翁神が先導して当地へ迎えたもの。
とすると、主祭神は鹽土老翁神と考えられるわけだが、これらの祭神は、四代藩主伊達綱村公が元禄六年(1633)、家臣の識者に命じて撰述した『鹽竈神社縁起』によるもの。
本来の祭神であるかどうかは、不明ということらしい。
 
 当社の創建は、相当古いようだが、史料にはない。また、延喜式内社でもないのは不思議なところ。延喜式内社とは、『延喜式』の「神名帳」記載の神社であるが、当社は「神名帳」にはなく、同じく『延喜式』の「主税式」や、『延喜式』以前の『弘仁式』の「主税式」にはその名があるが…
 鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた。当時全国で祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社で共に『式内社』でありますが当社に比べ格段の差があり、国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか。

 いっぽう、鼻節神社は全国の神社を調査せしめた延喜式神明帳には当時陸奥国にある壹百座を大まかに分け大社十五社小社八十五社とし本社は名神大社に列せられている。
後に鎌倉時代陸奥国府(多賀城)の主厨であったといわれる花淵浜の舘主花淵氏累代の崇敬篤く社殿の造営、祭事が相つぎ社敷場や地名に残る祭田、三月田四月田五月田等は神田、社領の遺名でありその盛大さを偲ばせます。

 鹽竃神社が延喜式神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというのは、初めに製塩の祭事を執り行っていたのは鼻節神社と考えるべきである。

 しかしなぜ、その祭事が塩竈神社に移ったのだろうか。
それは、貞観の大地震が大きく影響していたと考える。

 この貞観の大地震により鼻節神社は海底に没したと伝えられている。
没した神社の面積は今の七ヶ浜町に匹敵する大きさの大社だったとある。
往時の鼻節神社が霊験あらたかで朝廷の尊信を受け、民間の信仰も厚かったというのは当然のことであり、延喜式神名帳の名神(みょうじん)大社(たいしゃ)に列せられていたのも当然であろう。
 しかし、このあまりにも大規模な地震、津波災害により、製塩の神事を守るため鹽竃神社に移したと考えるのがごく自然ではないだろうか。
『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていない鹽竃神社がその後、格段の隆盛を迎え今に至ることから推察すればごく自然な流れと考える。

今日のピョン子

2011年11月17日 | ひとりごと
やはり寒いです日差しは暖かいのですが風が冷たい。

今日から丸紅の井上さんがセンタースタッフとして参加していただいています。

井上さん見たさにセンターを手伝う男性陣が増えるという相乗効果がでています。


そのおかげで、たまっていた渉外活動への対応がこなせました。



今日の波乗りうさぎシスターズは寒さなんて感じていないようです。


「アンゴラのセーターが温まるなぁ~」


と言っていたような…




明日のボランティア参加者は平日にもかかわらず250人ごえです!

感謝

おもしろかったらクリック!

ブログランキング・にほんブログ村へ