Do It Again Steely Dan
阿部芙蓉美 / 町
The Night I Heard Caruso Sing Everything But The Girl
Fujii Kaze - MO-EH-YO(Ignite) Live at Yoyogi National Stadium First Gymnasium
SEPTEMBER 宮本浩次
(ちんちくりんNo,69)
道路を隔てた向かいには一階に印刷所が入ったビル。新しいという以外は、別に何ということのない普通の五階建てのビルであるが、ふと後ろを振り返れば板塀に屋根のついた格子戸、その上から伸びている庭の柿ノ木、その後ろに構えている古民家然とした七瀬家の住宅。この二つの対照的な建造物が同じ空間に存在していることに僕はあらためて〝時代の推移″を感じずにいられなかった。
僕とかほるは格子戸の前に佇んでいた。車が迎えに来る六時半まであと十分だ。空はもう明るく青い。真夏ほどではないが、空気はまだ何処か生ぬるい。あと少しでかほるとの別れが来ると思うと僕は妙に心が高ぶるのを感じた。かほるを送り出した後、そのまま帰りに向かうつもりだ。かほるは、じいさんとは玄関先でお別れをしたが、宣言通りヒロコさんは自室からも出てこず、結局お別れの挨拶さえなかった。ただ、玄関に向かう途中、ドアが半開きになっていて、仕事をしているヒロコさんの後ろ姿が見えたので、かほるはその背中に向かって「行ってきます」と声をかけ、一瞬ヒロコさんの肩がピクッと動いたが、彼女はそのまま振り返らずまるですぐそこにお使いに行く小さな子供に声をかけるように「気を付けてね」と返事をしたのだった。
「そろそろ車、来るね」
最後に何と言って送り出せばいいのかと迷いながら、僕は隣のかほるの方を見た。かほるは「うん」と心持ちこちらに顔を向け、視線を沈ませた。「さようなら」なのか「またいつか」なのか。それとも、心の底から叫びたいほどのこの気持ちを……。
ずっと伝えなければいけないと思っていた。だけど、今、今更この場で伝えることはかほるにとって良いことになるのだろうか。いや、彼女の気持ちを乱すだけで、何一つ良い結果にはならないだろう。全くいつまで経っても優柔不断な俺だ。溜息を一つ吐いてから、西方を見るとかなり古そうで空色の小さい車がこちらに向かって来るのを認めた。
「あれか」
「あれよ」
「七瀬社長が乗るにはやけにボロイ車なんだな」
「モーリス何とかっていう、イギリスの伝統的な車。あれでも何百万もするそうよ」
車が僕らの前に止まり、右側の運転席に座っている七瀬社長が、助手席を跨いで手を伸ばし、こちら側のドアを半分くらい開いた。「お待たせ」
「右ハンドルなんだな」
「イギリスも車は左側通行だから」
かほるはそんなことも知らないの、という風に笑った。
「じゃあ、これでさよならだ」
僕が何気ない風を装うと、かほるの笑顔はふっと消え、諦め顔に変わった。
「うん、可能性は限りなく低いけどいつかまた会える日を期待して」
僕はかほるの荷物を手にして車のトランクへと運んで詰め、それからまた元の場所に戻った。かほるはドアに手をかけ、僕をじっと見詰めていた。まるでカメラのレンズのような目をして。それは心のネガに僕の姿を焼き付けているようにも見えた。
「ねえ。他に何か私に言っておくことない?」
かほるの言葉に僕の心臓は一気に高鳴った。でも、言うことは出来ない。
「さよならだけが人生だ」
「なにそれ」
「井伏鱒二が、ある漢詩を訳した中の言葉さ」
へえ、と頷きながらかほるは車に乗り込みドアを閉めた。運転手側の七瀬社長が僕に向かって何かを言った。それからかほるの方に一瞬目を向けてから前を向き車を発車させた。僕は手を振る。でもかほるは既にそこに僕が存在しないかのように無視し、前を向くばかりだった。車は東へとゆっくり進み、やがて角を曲がって見えなくなった。それと同時に僕も駅に向かって東へと歩き始めた。歩きながら、僕は言えなかった「好き」という言葉を空に向かって呟いたのだった。
阿部芙蓉美 / 町
The Night I Heard Caruso Sing Everything But The Girl
Fujii Kaze - MO-EH-YO(Ignite) Live at Yoyogi National Stadium First Gymnasium
SEPTEMBER 宮本浩次
(ちんちくりんNo,69)
道路を隔てた向かいには一階に印刷所が入ったビル。新しいという以外は、別に何ということのない普通の五階建てのビルであるが、ふと後ろを振り返れば板塀に屋根のついた格子戸、その上から伸びている庭の柿ノ木、その後ろに構えている古民家然とした七瀬家の住宅。この二つの対照的な建造物が同じ空間に存在していることに僕はあらためて〝時代の推移″を感じずにいられなかった。
僕とかほるは格子戸の前に佇んでいた。車が迎えに来る六時半まであと十分だ。空はもう明るく青い。真夏ほどではないが、空気はまだ何処か生ぬるい。あと少しでかほるとの別れが来ると思うと僕は妙に心が高ぶるのを感じた。かほるを送り出した後、そのまま帰りに向かうつもりだ。かほるは、じいさんとは玄関先でお別れをしたが、宣言通りヒロコさんは自室からも出てこず、結局お別れの挨拶さえなかった。ただ、玄関に向かう途中、ドアが半開きになっていて、仕事をしているヒロコさんの後ろ姿が見えたので、かほるはその背中に向かって「行ってきます」と声をかけ、一瞬ヒロコさんの肩がピクッと動いたが、彼女はそのまま振り返らずまるですぐそこにお使いに行く小さな子供に声をかけるように「気を付けてね」と返事をしたのだった。
「そろそろ車、来るね」
最後に何と言って送り出せばいいのかと迷いながら、僕は隣のかほるの方を見た。かほるは「うん」と心持ちこちらに顔を向け、視線を沈ませた。「さようなら」なのか「またいつか」なのか。それとも、心の底から叫びたいほどのこの気持ちを……。
ずっと伝えなければいけないと思っていた。だけど、今、今更この場で伝えることはかほるにとって良いことになるのだろうか。いや、彼女の気持ちを乱すだけで、何一つ良い結果にはならないだろう。全くいつまで経っても優柔不断な俺だ。溜息を一つ吐いてから、西方を見るとかなり古そうで空色の小さい車がこちらに向かって来るのを認めた。
「あれか」
「あれよ」
「七瀬社長が乗るにはやけにボロイ車なんだな」
「モーリス何とかっていう、イギリスの伝統的な車。あれでも何百万もするそうよ」
車が僕らの前に止まり、右側の運転席に座っている七瀬社長が、助手席を跨いで手を伸ばし、こちら側のドアを半分くらい開いた。「お待たせ」
「右ハンドルなんだな」
「イギリスも車は左側通行だから」
かほるはそんなことも知らないの、という風に笑った。
「じゃあ、これでさよならだ」
僕が何気ない風を装うと、かほるの笑顔はふっと消え、諦め顔に変わった。
「うん、可能性は限りなく低いけどいつかまた会える日を期待して」
僕はかほるの荷物を手にして車のトランクへと運んで詰め、それからまた元の場所に戻った。かほるはドアに手をかけ、僕をじっと見詰めていた。まるでカメラのレンズのような目をして。それは心のネガに僕の姿を焼き付けているようにも見えた。
「ねえ。他に何か私に言っておくことない?」
かほるの言葉に僕の心臓は一気に高鳴った。でも、言うことは出来ない。
「さよならだけが人生だ」
「なにそれ」
「井伏鱒二が、ある漢詩を訳した中の言葉さ」
へえ、と頷きながらかほるは車に乗り込みドアを閉めた。運転手側の七瀬社長が僕に向かって何かを言った。それからかほるの方に一瞬目を向けてから前を向き車を発車させた。僕は手を振る。でもかほるは既にそこに僕が存在しないかのように無視し、前を向くばかりだった。車は東へとゆっくり進み、やがて角を曲がって見えなくなった。それと同時に僕も駅に向かって東へと歩き始めた。歩きながら、僕は言えなかった「好き」という言葉を空に向かって呟いたのだった。