言われるうちが花?されど「華」は「華」
いまでこそ20時には帰宅いたしますが
起業当初は仕事に集中していると、時が経つことも忘れて
気がつくと深夜0時を回っていることもめずらしくはない。
帰宅するや、いつもながら家内がグチグチうるさい。
このこと(家内がグチグチと、うるさい)を友人と飲みにいったときに
愚痴たりすると、
いや、「言われているうちが花」だよ。とか
これは「言われているうちは、まだいい。」
「言われなくなったら、終わり。」という意味だろうが、
しかし、そうではないだろう。
言われなくても「華」は「華」。
言われなくなって、
「ひまわり」が「たんぽぽ」になったりしますか?
「ひまわり」はいつだって「ひまわり」でしょう。
その逆も然り。
それがものごとの道理というもの。
言われなければ華に成れないのは、それは「あだ華」
咲いてもいずれは散る運命。なぜなら自らの力で咲けないから。
(枯れた花には、虫すら寄り付かない。)
私が言いたいのは、
まだ、家内ならまだ、かわいいものだが
それを企業、組織でそのこと
(言われているうちが花)使う場合には、端的に言えば
言っている側に気に入られるように「従属しろ」という意味。
「言われている内は、まだいい。」「言われなくなったら、終わり。」
というように主たる側の常套句として、マインドコントロールに使われる。
自らの「信念」を殺し、その言う側の意に沿って迎合し、
顔色を伺い、気に入られているうちは
「花」として、取り立てられるかもしれないが、その主たる言う側の気変わり
はたまた、その主たる言う側がいなく(左遷などで)なったら、従属していた人間は
枯れてしまう。
つまり、主たる言う側に自らの「人生をコントロール」
されてしまうことになる。
そのような(主の気が変わったり、いなくなったりで)
「枯れてしまった」隷属の人を過去に何人も見たきた。
自らが確たる「志」をもって、
さまざまな雑音を気にも留めず目標に突き進めば
誰に言われようと、言われまいと、自らが「華」となる。
それは、周囲の雑音にも目もくれずに、3年、5年、10年かかろうとも、
自らの「華」を咲かせたものが
最終的に勝利していることは過去を振り返って、つくづく実感している。
これこそ「独立自尊」の精神。
「言われているうちが花だよ」 とか言う、従属、奴隷にさせたい人間がいたならば
言われなくても「華」は「華」だろう、と言ってやればいい。
※ご注意!!ただ、それにはそのことを言えるだけの裏づけがなければ、
あなたの想いをかたちに。。。そして世界へ"
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