人の幸せを素直に喜べない。
人の為と言いながら 裏を返せば自分の為。
そういう時は ないだろうか。自分なんてしょっちゅう。
こういう時は ほとほと自分自身が嫌になる。
なぜ もっと素直に何もかも受け取れないのかとか
なぜ もっと心の大きな人間になれないのかと・・・・
最近そんな時は パラパラと相田みつをさんの本をめくる。
書家であり詩人である相田さんの本は「にんげんだもの」で
あまりにも有名だが 確か独身時代 実家で目を通した
記憶はある。でも あの頃の自分の事だけを最優先に
それでも必死に自分本位に生きていた頃と 今とりあえず
結婚し子供が産まれ 年月を重ねたおばさんとなっている
今だと 同じ作品を読んでも 何かが違うのだ。
よく大勘違いの人達は 相田さんの作品を
「字が物凄く汚くて 当たり前の事を書いている人」
なんて評価するが 初期の頃の相田さんの書は自分の
ような素人が評価出来るような物ではない。
要はプロの書家の楷書である。でもそんな基盤があるから
あの詩に対して あの独特の書体が生まれたのだろう。
結構好きな作品に
「夢はでっかく 根は深く」と
「道はじぶんでつくる 道はじぶんでひらく
人のつくったものは じぶんの道にはならない」があるけど
これが奇麗な楷書で書かれても
「それで?当たり前じゃん」などと自分も言ってしまいそうだ。
あの書体だから目に飛び込んでくる。心にずっしり響く。
そういう意味では 相田さんの作品は芸術だ。
芸術って何も玄人だけが唸るのだけが芸術じゃない。
一部の玄人が唸るより万人の素人が理屈抜きに
その作品によって何かしらの感動を覚えたら
それは芸術じゃないのかなと思う。
本屋に行くと 必ずひっそりとでも絶対に相田さんの
本が並んでいる。どの作品も勝手な解釈ながら結局は
「いのちを大切に」「自分を大切に」そして
「同じ生きるなら前向きに生きよう」というような
テーマを感じるのだ。
時代が変わっても皆 こんなテーマを求めているのかもしれない。
そして本当の芸術も求めている。
自分も含め 毎日「こうしたほうがいい」そうわかっていても
自分の欲や醜さで なかなか実現出来ない現状。
相田さんの本からは 人として生きていく最低限の
「普通」が流れる。そんな「普通」に憧れ飢えている現代人。
そんな「普通」に飢えると無性に自分も 相田さんの本に
会いたくなる・・・・・
人の為と言いながら 裏を返せば自分の為。
そういう時は ないだろうか。自分なんてしょっちゅう。
こういう時は ほとほと自分自身が嫌になる。
なぜ もっと素直に何もかも受け取れないのかとか
なぜ もっと心の大きな人間になれないのかと・・・・
最近そんな時は パラパラと相田みつをさんの本をめくる。
書家であり詩人である相田さんの本は「にんげんだもの」で
あまりにも有名だが 確か独身時代 実家で目を通した
記憶はある。でも あの頃の自分の事だけを最優先に
それでも必死に自分本位に生きていた頃と 今とりあえず
結婚し子供が産まれ 年月を重ねたおばさんとなっている
今だと 同じ作品を読んでも 何かが違うのだ。
よく大勘違いの人達は 相田さんの作品を
「字が物凄く汚くて 当たり前の事を書いている人」
なんて評価するが 初期の頃の相田さんの書は自分の
ような素人が評価出来るような物ではない。
要はプロの書家の楷書である。でもそんな基盤があるから
あの詩に対して あの独特の書体が生まれたのだろう。
結構好きな作品に
「夢はでっかく 根は深く」と
「道はじぶんでつくる 道はじぶんでひらく
人のつくったものは じぶんの道にはならない」があるけど
これが奇麗な楷書で書かれても
「それで?当たり前じゃん」などと自分も言ってしまいそうだ。
あの書体だから目に飛び込んでくる。心にずっしり響く。
そういう意味では 相田さんの作品は芸術だ。
芸術って何も玄人だけが唸るのだけが芸術じゃない。
一部の玄人が唸るより万人の素人が理屈抜きに
その作品によって何かしらの感動を覚えたら
それは芸術じゃないのかなと思う。
本屋に行くと 必ずひっそりとでも絶対に相田さんの
本が並んでいる。どの作品も勝手な解釈ながら結局は
「いのちを大切に」「自分を大切に」そして
「同じ生きるなら前向きに生きよう」というような
テーマを感じるのだ。
時代が変わっても皆 こんなテーマを求めているのかもしれない。
そして本当の芸術も求めている。
自分も含め 毎日「こうしたほうがいい」そうわかっていても
自分の欲や醜さで なかなか実現出来ない現状。
相田さんの本からは 人として生きていく最低限の
「普通」が流れる。そんな「普通」に憧れ飢えている現代人。
そんな「普通」に飢えると無性に自分も 相田さんの本に
会いたくなる・・・・・