うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

文六ちゃんとチーと

2007年11月03日 | ことばを巡る色色
昨日、見るともなしにつけていたNHKで、新美南吉をやっていた。浅野温子氏が、「狐」という話を朗読していた。初めは聞くともなしに耳に入っていただけだった。「狐」の主人公の文六ちゃんは仲のよかったお友達から、夜に新しい下駄を下ろしたということで、「狐憑き」かと思われてしまう。自分でもだんだんそんな気がしてきて、「こんこん」と咳が出る。考えれば考えるほど、自分がお友達たちとは違ってしまった気がしてしまう。そうしておかあちゃんにどうすればいいのと泣いて尋ねる。

南吉は結核で夭逝している。29才であったそうだ。自らに責がなくともある日、人は「狐」になってしまう。されてしまう。本当に怖いのは、「狐」だと思われていることなのか、それとも、自分が「狐」かも知れぬと思えてしまうことなのか。こんこんと咳をする南吉も、自分を「狐」と思えてしまったのか。
ある日気づく。「狐」である自分。凍りそうに恐ろしいことだけれど、誰も自分が「狐」でないという証明を持ち合わせていない。ただ、それに思い至ってしまうかそうでないかの違いでしかないのだろう。

文六ちゃんのおかあちゃんは、私も文六ちゃんと同じ狐になるよと言う。そうして、猟師の前でびっこを引いてゆっくりゆっくり歩くから、文六ちゃんはその間に逃げるんだよと言う。
自分の大事な人を本当に救おうと思えば、自分の命を投げ出すしかないということか。それほど、「狐かも知れぬ人」は非力である。そうやっておかあちゃんが身を投げ出して助けても、文六ちゃんはそれからは一人ぼっちなのだ。しかも、「狐」であり続けなければならないかもしれないのだ。

この「狐」という話が、育児セミナーのようなところで人気だそうである。若い母達は、この話に何を思っているのだろうか。育児の専門家らしき人はそれを歓迎すべき新しき流れのように語る。それもなんだか違っているような気がする。
愛するというのは哀しいことだ。
セミナーにはそれが抜けているような気がする。
とはいえ、私は、若い母や、若くはない母や、母でも父でもない人がこれを読んでくれるのは、いいな、と思う。人は「狐」になってしまうことがあって、それは、ヒューヒューっとさむいかぜが吹くように、心細いことで、それを助けようとしてくれる人がいて、でも、それが完全なる解決策にはなりえないという、どうにもこうにもできぬことの中で生きていかねばならぬ、愛していかねばならぬということが、そこにはあるからだ。

「モーニング」という雑誌を毎週読んでいる。なかなかの秀作ぞろいなのだけれど、柄でもなく、「チーズ・スイート・ホーム」が好きだ。初めは、チ、猫漫画だぜ、と思っていたのに、最近は、嗚咽しながら読んでいる。こういう読み方をするのはおかしいのかもしれない。何も、哀しいことは書いてない。子猫のチーの話しなだけだ。チーは迷子になって、でも元気に「チッチッ」とミルクを飲んだり、散歩したりしている。何が泣けるのかって、多分、その心細さ、だろう。まっさらな人生の。何者かわからぬ心細さ。寄る辺ないこどもだった自分と、そうではなくなったはずの大人の自分がないまぜになっている。

今月は児童虐待防止推進月間で、シンボルカラーはオレンジだそうだ。「狐」と同じ色だ。
コメント (4)
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