うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

培養の海

2007年11月12日 | ことばを巡る色色
長いこと生きてきたせいか、最近は言葉で考えないことが多くなった。たとえてみれば、培養液の中に相互関係もなくキーワードがぷかぷか浮かんでいる感じ。それらを、自由に泳がせていると、狙い定めたように、幾つかを結ぶ言葉が与えられ、ああそういう風につながっているのだとわかる。そうしてそれは、言語のレベルでなく、培養液のイメージのレベルでなされるのだ。余り長く生きていなかった頃は、つなぐ作業が、「言葉」抜きではできなかったけれど、今は、色や匂いやを伴ったものとしてなされているようだ。そうそう、左脳でしていたのを、右脳でするようになったのかもしれない。
「知」というのは、本来そのキーワードを増やすということかもしれない。それが増えれば増えるほど、多様な結びつきが可能になり、一見すると関係のなさそうな物が、実はユニットを組むことによりソルートすることが可能になる。知識が少なければ、画一的な発想しかできない。
そしてそれらを、要素として浮かばせておくことが必要だ。敢えて結び付けようとすると陳腐なユニットになってしまう。放置しているようで、いつも心にかけておく、するとキーワードは蠢いて形を成していくのだ。その形成を感知するのは、やはり言語レベルでなく、右脳の方であり、その瞬間は数多の色が弾けるように、衝撃的で、魅惑的だ。
言葉で確認しながら物を見、知る。それは重要な作業だ。それにより知識は確実に自分のものとなり、理解の浅い部分がはっきりする。知識を厚く堅固にするには、得た知識を言葉で説明しなおしてみるという行為が有効だ。解った気になっていることと解っていることはやはり別物だからだ。しかしそれだけではいけない。同時に、それを大きくイメージでとらえ、培養液の中に丸ごと浮かべておかなければならない。この作業が、イメージで理解し言葉で記憶するという逆の物になってしまうと、不安定な知識・硬直した発想になってしまう。
知識はアトラクティブなものだ。キーボードやジョグなどなくとも、体一つで極彩色の世界が味わえる。特に、うごうごと浮かんだ物がくっつこうとしている時はhighな世界だ。

先日、民俗学の講座を聞いた。
キーワードが、増えるのは楽しい。
遷都 海の民 養蚕 数寄 黒 帝の庭 山人 秦氏 塗椀 常世 鹿ぞ鳴く 
触媒はもののけ姫?
説明は不能。次にみえるのはどんな世界だろうか。 
   
コメント (2)
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