映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
「再会、その後」
久しぶりに投稿欄を再開し、今回はSakaguchiさんの文をふたつ紹介する。上は教室に提出した文で、下は以前メールで送ってきたものである。
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再会、その後
K.Sakaguchi
「失礼ですが、かよこさんではないですか?」と、声をかけられた4年前の5月26日、それが、たあこちゃんとの30年ぶりの再会だった。友だちのYが連れて行ってくれた、からほり通りのフレンチの店でのことである。私はのんびり、食後のコーヒーを味わっていた。
「孝子(たかこ)です」という、店のマダムらしき女性。「えっ、たあこちゃん?」。私の知っている「たあこちゃん」は、ボーイッシュな少女だ。ロングヘアーの、中年の女性とは結びつかない。昭和30年代の終わりに、わが家の隣に引越してきた10歳の女の子は、わたし達3姉妹に懐(なつ)き、私たちも4番目の妹のように、かわいがっていた。その少女が、フレンチの店のマダムとして、私の前に現れたのだ。
「逢えてうれしい。良くしていただいてほんとうに感謝している。おばちゃんはどうしてはる?」と聞く彼女に、母は亡くなったと伝える。「おばちゃんには優しくしてもらった」と涙を流す彼女に、父親の不在、姉との不仲など、複雑だった隣家の家庭の事情を思い起こした。「おばさんは?」と尋ねると、病気がちで、認知症も少しあり、今は入院中と言う。華やかで美しかったTおばさんの顔が浮かぶ。30年の年月が流れたのだ。
再会から1年後の3月、「母の80歳の誕生会をします。3人お揃いでどうぞ」と、うれしい案内が届いた。花曇りの夕刻、店内は春の花で飾られ、鮮やかなエンジ色のワンピースを着たおばさんが、長女のKちゃんに付き添われ車椅子で登場してきた。小さくなり、昔の面影はないものの、やはりTおばさんだ。私たちのことはよく覚えていて、「ありがとう」と喜んでくれた。さらにうれしいことには、私が3月生まれと知っていたらしく、私への花束まで用意されている。シェフである彼女の夫Dさんの、腕によりをかけた料理が何種類も並ぶ。母のことや、昔のいたずら話に、泣いたり笑ったり。たあこちゃんは、「あのころのお礼です」と言っていたが、これは、母への気持ちだと受け取った。昭和30年代、隣同士がおたがいに助け合う、そういう時代だった。「ううん、私たちもお世話になったわ。ありがとう」とお礼を言った。これから1年後の昨年4月、Tおばさんは旅立った。
この再会は単なる偶然だったのだろうか。私は、誰かのはからい、のような気がしてならない。
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彼女からこの題材を課題文で書くと聞いて、少し危惧を抱いた、というのは、あまりにも情緒的な話を上手く書けるかしらと思ったのだ。しかし出来上がりを見ると客観描写を上手く配分して、すらすら読めるものになっていた。
参考までに、前は次のような表現だった。
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今から40年ほどまえに、隣に引っ越してきた3人家族(小悪魔的な美少女、ボーイッシュな女の子、華やかなお母さん)
と、とても親しくしていたんですね。特にボーイッシュな女の子は、姉とうまくいかず、私たち3姉妹にいつもくっついていたんです。
母は、不憫に思ってか、食事に誘ったり、市場への買い物に一緒に連れて行ったりしていたようです。
10年くらいして、私たちが引越しし、音信も途絶えたんですが、3年前、気功の帰りに立ち寄った、からほり通りのフレンチで、偶然出会ったんです。私はまったく気がつかなかったのですが、視線は感じるなあという感じでした。
その店のマダムらしき人が、コーヒーを出しながら、「失礼ですが、かよこさんではないですか」と切り出し、「孝子です」というのです。
あの、隣の「たあこちゃん」だったのです。ふたりが泣きながら抱き合っているのを見て、一緒に行った友達はキョトンとしています。
その店は彼女が気に入っていて、私を連れて行ってくれたのですから。最初に聞いたのは「おばちゃんは元気?」でした。
その日のメールに「中国残留孤児がお姉さんにめぐりあったような気持ちです」とあって、彼女の孤独の深さにまた泣いてしまいました。
10歳のボーイッシュな女の子が、50歳になっていたのです。
このことを、フリーのときに文章にして提出しましたが、失敗作でした。
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中でも「ふたりが泣きながら抱き合っている」「彼女の孤独の深さにまた泣いてしまいました」と言う表現があまりに生々しくて、かえって感動を弱めると感じた。「涙」とか「泣く」とか「孤独の深さ」とかいう表現は無闇に使うと安っぽくなる。孤独、それは人間ならばどんな人でも持っているものであり、その言葉自体に力があるとは思えない。
「孤独の深さには、それほど同情しなくてもいいと思いますよ。
生まれつき孤独の好きな人もいますしね。
生理的に、一人を好むってあるのです。」
と燃えている火に水をさすような返事をした。
「八木先生は情緒に流されるのはお嫌いですし」とのことだが、私もその点では似ている。アドバイスが生きたということかと勝手に気をよくしている。
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再会、その後
K.Sakaguchi
「失礼ですが、かよこさんではないですか?」と、声をかけられた4年前の5月26日、それが、たあこちゃんとの30年ぶりの再会だった。友だちのYが連れて行ってくれた、からほり通りのフレンチの店でのことである。私はのんびり、食後のコーヒーを味わっていた。
「孝子(たかこ)です」という、店のマダムらしき女性。「えっ、たあこちゃん?」。私の知っている「たあこちゃん」は、ボーイッシュな少女だ。ロングヘアーの、中年の女性とは結びつかない。昭和30年代の終わりに、わが家の隣に引越してきた10歳の女の子は、わたし達3姉妹に懐(なつ)き、私たちも4番目の妹のように、かわいがっていた。その少女が、フレンチの店のマダムとして、私の前に現れたのだ。
「逢えてうれしい。良くしていただいてほんとうに感謝している。おばちゃんはどうしてはる?」と聞く彼女に、母は亡くなったと伝える。「おばちゃんには優しくしてもらった」と涙を流す彼女に、父親の不在、姉との不仲など、複雑だった隣家の家庭の事情を思い起こした。「おばさんは?」と尋ねると、病気がちで、認知症も少しあり、今は入院中と言う。華やかで美しかったTおばさんの顔が浮かぶ。30年の年月が流れたのだ。
再会から1年後の3月、「母の80歳の誕生会をします。3人お揃いでどうぞ」と、うれしい案内が届いた。花曇りの夕刻、店内は春の花で飾られ、鮮やかなエンジ色のワンピースを着たおばさんが、長女のKちゃんに付き添われ車椅子で登場してきた。小さくなり、昔の面影はないものの、やはりTおばさんだ。私たちのことはよく覚えていて、「ありがとう」と喜んでくれた。さらにうれしいことには、私が3月生まれと知っていたらしく、私への花束まで用意されている。シェフである彼女の夫Dさんの、腕によりをかけた料理が何種類も並ぶ。母のことや、昔のいたずら話に、泣いたり笑ったり。たあこちゃんは、「あのころのお礼です」と言っていたが、これは、母への気持ちだと受け取った。昭和30年代、隣同士がおたがいに助け合う、そういう時代だった。「ううん、私たちもお世話になったわ。ありがとう」とお礼を言った。これから1年後の昨年4月、Tおばさんは旅立った。
この再会は単なる偶然だったのだろうか。私は、誰かのはからい、のような気がしてならない。
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彼女からこの題材を課題文で書くと聞いて、少し危惧を抱いた、というのは、あまりにも情緒的な話を上手く書けるかしらと思ったのだ。しかし出来上がりを見ると客観描写を上手く配分して、すらすら読めるものになっていた。
参考までに、前は次のような表現だった。
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今から40年ほどまえに、隣に引っ越してきた3人家族(小悪魔的な美少女、ボーイッシュな女の子、華やかなお母さん)
と、とても親しくしていたんですね。特にボーイッシュな女の子は、姉とうまくいかず、私たち3姉妹にいつもくっついていたんです。
母は、不憫に思ってか、食事に誘ったり、市場への買い物に一緒に連れて行ったりしていたようです。
10年くらいして、私たちが引越しし、音信も途絶えたんですが、3年前、気功の帰りに立ち寄った、からほり通りのフレンチで、偶然出会ったんです。私はまったく気がつかなかったのですが、視線は感じるなあという感じでした。
その店のマダムらしき人が、コーヒーを出しながら、「失礼ですが、かよこさんではないですか」と切り出し、「孝子です」というのです。
あの、隣の「たあこちゃん」だったのです。ふたりが泣きながら抱き合っているのを見て、一緒に行った友達はキョトンとしています。
その店は彼女が気に入っていて、私を連れて行ってくれたのですから。最初に聞いたのは「おばちゃんは元気?」でした。
その日のメールに「中国残留孤児がお姉さんにめぐりあったような気持ちです」とあって、彼女の孤独の深さにまた泣いてしまいました。
10歳のボーイッシュな女の子が、50歳になっていたのです。
このことを、フリーのときに文章にして提出しましたが、失敗作でした。
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中でも「ふたりが泣きながら抱き合っている」「彼女の孤独の深さにまた泣いてしまいました」と言う表現があまりに生々しくて、かえって感動を弱めると感じた。「涙」とか「泣く」とか「孤独の深さ」とかいう表現は無闇に使うと安っぽくなる。孤独、それは人間ならばどんな人でも持っているものであり、その言葉自体に力があるとは思えない。
「孤独の深さには、それほど同情しなくてもいいと思いますよ。
生まれつき孤独の好きな人もいますしね。
生理的に、一人を好むってあるのです。」
と燃えている火に水をさすような返事をした。
「八木先生は情緒に流されるのはお嫌いですし」とのことだが、私もその点では似ている。アドバイスが生きたということかと勝手に気をよくしている。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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早速のコメント有難うございます。
「読み直すと新鮮」とは、他人の意識が入るからでしょうか。このブログも、よそで紹介されていると、新鮮に見えます。文章は書いた当座は特に、何回も読み直すものですよね。誰より熱心な読者は書き手自身。ナルシストといわれそうですが。