映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
映画「少年H」
2013 日本 122分 8月13日 松江SATY東宝にて鑑賞
原作 妹尾河童「少年H」1997刊
監督 降旗康男 出演 水谷豊 伊藤蘭 國村隼
少し時間はたったけれど記事にするのは、この夏に見た戦争に関する3本の映画(あとの2本は「風立ちぬ」「終戦のエンペラー」)の中でこれが一番後味が好かったから。
舞台美術家・エッセイストの妹尾河童(1930~)が戦時中、神戸の少年時代に経験したことを書いた原作。
原作もそうだったが、多くの人に伝わるように、という気持ちが強く流れていて、独りよがりや自己宣伝がないので素直に胸に入る。
ネタバレあります
神戸の下町に住む主人公は周りに「変な人」がいくらもいる。
まず、両親が相当「変」である。
●お母さん。お寺の孫娘だったのに神戸に来てから熱心なキリスト教徒になり、しかも救世軍なので、タンバリンを打ち鳴らし「信ずる者は誰も皆救われん」の歌を歌いながら町内をくまなく歩く。手編みセーターの胸にローマ字で「H.SENO」と編み込む。(河童の本名は肇=ハジメ)将来困らないようにと、宣教師にならって、ナイフとフォークを使った食事や、標準語などを子供に強いる。
●お父さんは小柄な紳士服縫製職人だ。父と兄の不心得で生家が破産したが、進学を勧める周囲を振り切って小学校出ただけで手に職をつける道を選ぶ。この風変わりな妻への包容力と言い、外国語もろくにできないのに英米仏伊独(ユダヤ系とナチスと両方)の客をかかえ、中国・朝鮮人ともつきあい、人を差別しないキリスト教の教えに忠実に生き、戦争の大波にさらわれもせず沈みもしないように生きる処世上の賢さと人付き合いでの思慮深さを持っている。水谷豊が自分からこの役を買って出たそうで、好演している。実生活でもかれと夫婦である伊藤蘭にはひたむきで純粋、微笑ましい妻がぴったりである。
●Hの家族が通う教会は壮麗な石造の建物やステンドグラスとは無縁、普通の民家で、畳の上で礼拝しているのが、懐かしかった。(子どもの頃通った日曜学校を思い出して)
●他には東京から来た「うどん屋の兄ちゃん」またの名を「赤盤の兄ちゃん」。かれは左翼思想の持ち主だったらしい、警察と深夜、屋根の上で捕り物を演じた挙句、姿を消す。少年に自室で珈琲をひいて飲ませ、アメリカ製の高価なレコード(赤盤)を隠し持っていて聞かせてくれたのだが……
●そして「オトコ姉ちゃん」は映写技師で劇団の女形らしいが、壮行会で「ばんざーい」と送られて入隊しながら逃げ出して首つり自殺する。
この二人を小栗旬と早乙女太一が印象的に演じている。
●全くの庶民と言っていい警防団長の國村隼。「徹子の部屋」に出たとき高所恐怖症だと言っていたが、防火訓練シーンではやはり屋根の上でおっかなびっくりに立っているのがおかしかった。
●ナチスの迫害でヨーロッパを追われ、日本を経て南アからアフリカ縦断する逃亡の途上にあるユダヤ人家族の洋服を修繕したりもする。その強烈な臭気の記述が実感をかもしている。
何だかあまりに普通の日本人の生活とはかけ離れているので、フィクションかと思えるくらいだが、そこが神戸という町の独自性だろう。
「風立ちぬ」は東大出のエリートを主人公にした映画。(宮崎駿は学習院大卒だが)
「少年H」は下町の庶民を主人公にした映画。(降旗監督は東大卒だが)
原作は発売当時、100万部を超える売行きで、やっかみ半分の批判もすさまじかった。一言にすれば、こんな少年が日本にいたはずがないということだ。山中恒は不審点を詳細にあげつらって2冊の本にしているけれど、「戦争を伝える」というふたりの共通の目的からそれているようで残念である。山中は北海道の小樽出身。H少年は神戸。小樽と神戸じゃ、まるで環境が違う。殆ど外国であると考えていいのでは。山中恒は1931生まれ、年下だが、受けた教育、家族構成、これまでの仕事歴なども違うし、プライド・ねたみなども絡むのは人情としてわかるが、それがむき出しなのはどうかと思う。
野坂昭如との対談「少年Hと少年A」でのように、虚心坦懐に互いの見たものを語り合う、そういう態度に出ればいいのだと思うが、初めから敵意をあらわにするとは。動脈硬化症だろうか。
参考までに初めて「少年H」を読んだ時の感想を記す
2000年9月2日(私は55歳)
妹尾河童「少年H」を借りて読んでいる。98年の暮れに彼の講演会に行って以来、ようやく機会を得たので……ということはつまり、図書館でも引っ張りだこの人気だってことだろう。一体何故?
この著者は「はだかの王様」の子どもにあたるのだろうか?
1930年生まれ、翌年満州事変、32年 515事件、33年国連脱退、34年満州国建国、36年226事件、37年日中戦争始まり、日独伊三国防共協定、38年国家総動員法制定、39年ノモンハン事件以下略、かくて15歳まですべては戦争一色。でも住んでいた神戸は国際都市だったし、両親はクリスチャンだった。通っていた二中の友人教師の中にも自由な考え方をする人々がいた、という環境にめぐまれている。
(河童さんの講演を聞いていたことは2013年の今日まですっかり忘れていた。)
1998年12月5日(私は54歳目前)
妹尾河童の講演会。2-4pm、茨木市ユーアイ会館にて市教組主催。
往復徒歩で行く。思ったより面白かった。「少年H」は本屋で立ち読みしただけだが、作者がこんなにハッキリした意図で書いているとは思わなかった。作者の宣伝にもかかわらず、買うまでには至らなかったが、借りてじっくり読んでみよう。
野坂昭如→「竜馬暗殺」10-8-29
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
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河童の映画も本もずいぶん御覧になっているんですね。映画の方言は、地元の人が見ると引っかかるものですが、やはりそうでしたか。私はあまり気になりませんでしたが、現に、一日中関西弁のシャワーを浴びている貴女としてはやはりそうでしょうね。妹さん方もでしょうか?
昭和5年(1930年)生まれの人って結構多いですね。クリント・イーストウッド、佐藤忠男、黒木和雄も……。野坂によると、前後の世代とはまるで経験が違うそうですね。身近にもいらっしゃるのですか?
やはり、少しね。ランちゃんの方がじょうずでした。でも、映画の内容は上質のものだったと思います。焼夷弾で家が焼かれる場面で、「くやしい」と思ったんですよ。大阪でも空襲があって、焼夷弾の中を赤ちゃんの私を抱いて逃げたという、母の言葉を思い出して。
昭和5年生まれというと、終戦時15歳の少年です。15歳でその洗礼を受けた人独特の感性があるように思って、関心があります。私の会社のオーナーがそうでした。ある種の魅力があるんですね。クリント・イーストウッドは、ローハイドのときファンになりました。大好きです。
高倉健も勝新もそうですね。ファンというわけではありませんが・・。
私もあなたも、零歳のときに空襲を経験しているんですね。それでも宮崎は遠くだったのですが、焼夷弾の中を赤ちゃんを抱いて逃げ惑うとはひどい経験だったでしょうね。しかし「くやしい」とは米軍に対して思ったのですか?私はこの時代の被災者を見ると、戦争をいつやめるかという判断もできず、決断力もない日本の支配者に対して一番腹が立ち、別に米軍には何とも思わないのですが。ところでその年生まれは勝新や健さんもですか、たしかにどこか一味違いますね。あなたのしばしば話題に上るそのお方もそうなんですね。なーるほど!!
「ひどいやないの!」と感じたのは事実で、それは、戦争そのものにだったのかもわかりません。