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「座る」

私が10代か20代のころ、父が往診から帰って言った。

「小学校のそばを通りかかったら、運動会の練習中らしく、
先生たちがしきりと『座れ、座れ』と叫んでいたが、見ていると
子供たちは皆分っていて、しゃがんでいたぞ」

恥ずかしいが、私にはその話がピンと来なかった。
つまり「座る」と「しゃがむ」が別動詞だとは感じなかったわけ。

つらつら考えるに「座る」とはどうも「正座をする」ということのようだ。
私は行儀作法のうるさく言われない家庭に育ち「そこへ座れ」と言う前置きで
説教を食うシーンは小説や映画でしか見たことがない。
座るとは漠然と高い姿勢から低くなること(足元は問わず)と受け取っていた。

父は子どもの頃厳しく仕付けられたらしく「座る」と聞くや否や「正座する」とイメージし
小学生が校庭で正座するとは「これは異なことを」と俄然好奇心だか憂慮だかが心を占めたのかも知れない。
父の状況は、仕事のあとのノビノビと解放された気分で、往診かばんを自転車に積んで
短歌のネタなど探しつつ、あちこちを見回しながら、ぶらついていたのだろう。
等と言えば、「お前じゃあるまいし、そんなのんきな気分ではなかった」とあの世から叱られるかもしれないが。

短歌に命をかけていた父の感覚の鋭さに感心するという話でもなく、どの時代にもある、
前の世代の言語感覚が、通用しない時代になっていたということだろう。
ともあれ、懐かしい父の姿である。

そして「座る」ことは、今のわたしはもうできない。
間もなくある法事では椅子に「座る」つもり。

追加:正座だけでなく座禅を組む、あぐらをかく、体育館座りなども、要は腰がある場に落着くことが「座る」で、「椅子に座る」はそれだ。さらには「目が据わる」「肝が据わる」座礁は「舟が据わる」……辞典を読みだすときりがない。

10月17日記
私は決してファザコンではないと信じるが、「父親っ子」ではあり、父に対しては、鴎外の娘たちのように、生前も死後も変わらず敬愛を抱き、彼の言動はいつも肯定する習慣を持っていた。したがって読者はそういう私の身になって読んでほしい。
ここで父を戯画化したつもりはない。残念ながら父親との関係の悪かった人はそういう心理が想像できないかもしれないが、その場合は祖父とか兄弟とか恩師とか、母親とか姉妹とか、隣のお姉さんとかおばさん、または歴史上の人物でも、架空の人物でも、心から敬愛できる人との場合を当てはめて。そういう人の誰もない人もいるかもしれないが……。

→「本日休診」13-10-28
→「歩いても、歩いても」8-12-14
→「終り良ければすべてよし」7-9-25
→「ふんどし医者」12-5-28
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