映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
別れの儀式
2021年02月21日 / 本
シモーヌ・ド・ボーヴォワール著 1983年人文書院刊
二宮フサ・海老坂武・朝吹三吉訳
サルトルの晩年の10年間を綴った「別れの儀式」テープから起こした「サルトルとの対話」が収録されている。ノーベル文学賞の候補者となり、知の巨人といわれたサルトルが、人より早く老い・病気・失明に侵される姿を目の当りにすると、感慨もひとしお。
二人の名が世界史年表(吉川弘文館)の仏国欄に太字で書かれているのを発見した。このところ、彼らの裏の顔について立続けに読んでいたので、世界史的人物であったことを忘れていた。
サルトルが美しい若い女性を次々に征服しようとしたこと、斜視で背が低く、容貌が醜いと自覚していたので、言葉で相手を魅惑しようと、よくしゃべったこと。
大変な偏食家で、果物は大嫌い、執筆のためには薬物を用い、制止を聞かずにアルコールを大量に飲む、それで70歳前に失明し、読み書きも歩行も不自由になる。元々、日本人のように健康を重視する国民ではないとはいえ・・・。
サルトルは生涯あまりお金で苦労しなかったので、労働者のように生活を律する必要がなく、したい放題をして生きていたように見える。幼いころ顔を覆っていた巻毛を切ったとたんに、醜いと(母親にさえも)いわれて以来、自分の身体に自信が持てず、身体との折り合いがつかないでいた。それで身を削って執筆し続け、文化大革命当時は毛沢東主義にかぶれたり、晩年は周辺にいた極左の若者にいいように利用されて自分本来の道を外れたりと、迷走している。
ビアンカ・ランブランの処女を奪ったが、女性をベッドで喜ばすことは得意でなかったようだ。ボーヴォワールもビアンカも、その点で一致している。
サルトルを偉大な有名な人物に仕立て上げたのは実はボーヴォワールではなかったか。それは世の妻たちがやってきたことと同じで、「第二の性」を書いた彼女もまた、「愛」と「献身」に生きたのではないのだろうか。肉体的な意味では母親になることを拒んだけれど、彼女自身、豊かな「母性」を、周囲の人々に与え続けたのではないか。クローディーヌ・セール著「晩年のボーヴォワール」やエレーヌ・ド・ボーヴォワール著「わが姉ボーヴォワール」を読むとそう思えてくる。
→「ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代」21-1-31
→「晩年のボーヴォワール」22-3-1
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