映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
若槻禮次郎
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/60/c31bd3a1e90b90b15eb8c077958cb5ad.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/d6/8e16ccb46f5b07413db167457847da74.jpg)
島根県庁の前庭に、梅の木に囲まれている若槻禮次郎の胸像は、写真を撮るとたいがいは真黒に映ってしまう。地元の知名度もどれくらいあるのだろう。そう思っているのが私だけならごめんなさい。「判官びいき」だろうか、その地味さ加減が気になって、いつも彼のことは頭のどこかにある。しかし実際、どうしようもなく地味なために、もう一体の岸清一と比べると名前が覚えられず、何かあるたびに思いだそうとして苦労する。私の付けている「忘れ物手帳」によると、6,7,8月と3か月で3回、思い出せなかった。これでは時間の無駄でもある。
この際、二度と忘れないようにしようと、一策を講じ机の前のボードに姓名を書いて朝夕目に触れるようにした。初は5文字全部書き、次に「若」と「次郎」の3文字、最後に「若」の1文字だけにして約二週間、もうこれで覚えたとは思うが、念のため、昨日撮った写真を利用してブログにアップすることに。これを撮るのも一苦労だった。曇って小雨の降る日を選び、(レンズの水滴をご覧ください)距離と角度を工夫し、ようやくここまではっきりとれた。
皆さん、昭和の始め、平和条約締結に努力した島根のこの人の名をどうぞ憶えてください。
若槻禮次郎わかつきれいじろう(1866-1949)
昭和初期2回首相を務め、ロンドン海軍軍縮条約(1930)に署名した。
→「沈丁花」15‐3‐10
→「若槻禮次郎と岸清一」17-1-6
憶えるのに一苦労した名前
→「ボガートvsボガード」17-2-26
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
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若槻礼次郎のことを勉強したこともありませんでしたが(歴史でロンドン海軍軍縮条約を締結したことを学んだかもしれませんが)、覚えているのは50年前の東京外語に通うとき巣鴨駅から「染井墓地」(染井吉野の桜の名前の発祥地とか)の中を近道して通ったのですが、文豪二葉亭四迷(?)等の墓の中で大きく「若槻礼次郎の墓」がありました。
とげぬき地蔵とか巣鴨駅とか、懐かしいですね。東京外大が北区から都下西郊に移っていたことを毎日新聞の連載小説「少女A」でつい最近知って驚いた私ですが、40数年前に、私も学生ではありませんが巣鴨5丁目に住んで、よく墓地を散歩したものです。しかし若槻禮次郎の墓がそこにあったとは知りませんでした。
再度のコメント有難うございます。
お彼岸に墓参りされたんですね。
若槻家の墓は小さかったとか。
「戸張昇」で検索し、ご尊顔ならびになつかしいハマの水車を拝見しましたが、もっと見るにはfacebookに登録しなくてはいけない様で……。
御忠告有難うございます。そういう方法もあるのですね。やってみようかなあーとは言え、もし私が正会員だとしたら、そういうこそこそしたメンバーに対してあまり良い感情は持てないでしょうね。少し考えてみます。