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われ弱ければー矢嶋楫子伝


三浦綾子全集第14巻 主婦の友社 1993年刊 
初出「幼児と保育」1988年4月号~1989年12月号 
単行本 小学館刊1989年12月20日

「私は子供が好きで好きでたまらないというだけで、小学校教師になった。だが矢嶋楫子(かじこ)を調べていて、やみくもに子供が好きなだけで教師になってはならなかったと、つくづくと思った。」
という冒頭部で、一躍この書への興味がかきたてられる。さらに
「サマセット・モームは
≪情愛深い母親をもった以上に、子供に悪い結果をもたらす不幸はない≫
と言う。この警句を理解できない母親や教師がいたとしたら、子供のみならず、母親や教師にとっても、確かに大きな不幸であろう。愛は単なる情愛ではない。『愛は意志である』という言葉がある。矢嶋楫子こそはその意志的な愛をもった闊達な教育者であった。

という力強い表現で緒言をしめくくっている。ここには並々ならぬ熱意と信念が感じられ、この評伝のなかでも最も印象的である。

矢嶋楫子(やじまかじこ)1833-1925 
 
「あなたがたは聖書をお持ちだ。なにも規則で縛る必要はありますまい」

女子学院の初代校長として彼女は、校則を作らないという画期的な教育を行った。また日本基督教婦人矯風会を創設し、世界を飛び回った。

この赫赫たる名声の持ち主も、前半生は不幸だった。

江戸末期の天保4年に今の熊本県水俣市で彼女が生まれたとき、上に、女・女・男・女・女・女のきょうだいがいた。女5人男1人のあとで、家族がぜひとも二番目の男子をと期待していたところに生まれたため、失望のあまり名前も付けられず放置されたので、7日目に10歳の順子(4女)がつけてくれたのが「かつ」。のちに自分で「楫子」と改名する。

胎教ということばがあるように胎児も耳は聞こえ、周囲のようすを感じ取る能力があるという。家族の失望の空気を、赤ん坊といえども感じざるを得ないし、またこの話は、繰り返し本人に語られ、そのたびにまちがいなく心を傷つけられたであろう。彼女は、笑顔の少ない孤独な性格となる。家族に「渋柿」というあだ名を付けられたという。

このくだりで、私は自分と似た生立ちの楫子(と著者)に感情移入してしまった。三浦綾子のこの構成の巧みさよ。

さてつぎは、彼女の「スキャンダル」ともいうべき離婚、婚外愛、結果生まれた妙子である。この件が大きく取りざたされたのは、彼女の姉久子(3女)の子である徳富蘇峰と徳富蘆花の文がもとになっている。それについても、著者はそれが熊本という男尊女卑の土地と、江戸末期~明治初期という時代の価値観によるものが大きいということを詳説する。蘇峰と蘆花が、親戚間でずっと評判の悪かった、わが子を捨てて東京に出たおばを難詰したのは、彼女の名声への妬みもあったのでは、ともいう。また、葬式の席上で言うべきでない無遠慮な表現をしたことは、蘇峰の叔母への甘えでもあったかもしれない。また楫子のほうも、講演会という公開の場で遠慮なく蘇峰を叱ったりして恨まれたこともあったかもしれない。(吉屋信子「ときの声」)蘆花が死後すぐに彼女を批判する文を発表したのも、あるいは蘇峰への妬みかも、と親戚きょうだい間の複雑な心理を洞察する著者である。そして、その根っこにあるのは、楫子に対する実の姉たちの大昔からの反感である。旧約のアベルとカインの兄弟殺しの話を想起させ、処女作「氷点」で原罪をテーマにした三浦綾子の面目躍如というところ。
   
発刊当時の1990年、井の頭コミュニティセンターで読んで強い感銘を受けた。

→「ときの声」21-7-28
→「愛は意志である」11-2-21
→「名前」11-10-4


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