映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
映画「教授のおかしな妄想殺人」
2015 米 95分 原題≪Irrational Man≫
監督脚本 ウディ・アレン 出演 ホアキン・フェニックス エマ・ストーン
大好きなウディアレンの映画なら何はともあれ見ておこうと思う。たとい度々「??」と首をひねる箇所があっても、彼のことだからきっとこれには何か深い意味があるのだろうとさまざまに解釈する。それほど彼への尊崇の念は強い。過去のたった数回の感動体験ゆえに。
この映画は、毎年作品を発表するアレンの八十歳の作で厭世的な哲学教授が主人公。彼は妻や友人を失いアルコールにおぼれ、ことあるごとに自殺の衝動に駆られるほどひどい状態なのだが、食堂で小耳にはさんだ悪徳判事を殺してやろうと一念発起することで、俄然生きる意欲が出てくる。
さてこの教授の言動は、ウディアレンをしのばせるが、外見は全く対照的であるため絶え間ない違和感がある。
牡牛のようにたくましい首筋と出っ張ったお腹のホアキン・フェニックスは本来は深みと苦悩を感じさせる容貌の持ち主で、「帰らない日々」の大学教授役はぴったりだった。しかし、役作りとはいえこうも肥っては、荘重さや知的な雰囲気は消し飛んでしまう。暴飲暴食の果てのもとラグビーか格闘技の選手のようだ。表情しぐさに知性が感じられないので大学教授に見えない。
誕生祝にエドナ・ミレン(1892-1950)の詩集を贈るシーンがある。
「人生は悲惨なことの連続だというのは嘘で、人生は最初から最後まで悲惨である」とはアレン好みのセリフ。
「罪と罰」のラスコリニコフのような発想で殺人を犯す主人公だが、結末は正反対、娼婦ソーニャに当る純真な女子大生に従って自首せず、奔放な中年の女性同僚と海外に逃げることを選ぶ。しかし突然呆気ない幕切れ。社会通念にそった、勧善懲悪的な結末がくる。カミユ「異邦人」の主人公は殺人によって自由と全能感を獲得する。そこは共通である。しかし死刑も怖れないムルソーと違い、この主人公は司法解剖であしがつくなど想定外。「僕が刑務所なんかで生活できると思う?」司法や警察がこのまま見過ごしてくれないかなあ、という虫の良い発想はいつものアレン節で、吹き出してしまった。
ウディアレンはこの映画で何を目指したのだろうか?エマ・ストーンというお気に入りの若い女優を輝かしたかったのか?自分より若く逞しいホアキン・フェニックスを彼女のお相手に選び、自分の代理としたかったのか?哲学教授や大学人一般を揶揄したかったのか。
ところでウディアレンは、過剰なまでに道化を演じたがるが(「タロットカード殺人事件」)、本来知性派である。最近見た「検事フリッツ・バウアー」のユダヤ系主人公に顔だちがそっくりで、彼は本質的に知識人なのだと思った。そのままの自分を出すことに照れがあるのだろうか?私はまるで違う肉体、容貌、年齢、の中でしゃべる彼よりも、彼自身を見たいと思う。あの彼が魅力的なのだ。しかしいずれにしても77年の「アニー・ホール」での全盛期の彼はスクリーン上に登場することはないだろう。そういえばエマと可憐なボーイフレンドのいきさつ、「アニー・ホール」でのウディ・アレンとダイアン・キートンのようだった。実人生での挫折と苦悩を、こうして何度も何度も取り戻しているかのようだ。芸術は人生を、芸術家自身の人生を救う。「ブロードウェイと銃弾」でもそうだったが、芸術のための芸術ではなく人生のための芸術だというかれの持論がここにも顔を出している。
しかし殺しの標的が判事だなんて、ミア・ファローと親権をめぐって裁判になったのがよほど応えているのだろうか。
私におけるかれのベスト3は「アニー・ホール」1977「カメレオンマン」1983
「ラジオ・デイズ」1987である。
ウディアレン関係の過去記事・・・何とこんなにあった。
→「ジゴロ・イン・ニューヨーク」15-4-4
→「ローマでアモーレ」15-3-24
→「人生万歳!」14-11-29
→「恋のロンドン狂騒曲」14-11-16
→「タロットカード殺人事件」14-11-11
→「ミッドナイト・イン・パリ」14-8-5
→「それでも恋するバルセロナ」9-12-6
→「ブルー・ジャスミン」17-3-15
→「フォロー・ミー」11-9-11
監督脚本 ウディ・アレン 出演 ホアキン・フェニックス エマ・ストーン
大好きなウディアレンの映画なら何はともあれ見ておこうと思う。たとい度々「??」と首をひねる箇所があっても、彼のことだからきっとこれには何か深い意味があるのだろうとさまざまに解釈する。それほど彼への尊崇の念は強い。過去のたった数回の感動体験ゆえに。
この映画は、毎年作品を発表するアレンの八十歳の作で厭世的な哲学教授が主人公。彼は妻や友人を失いアルコールにおぼれ、ことあるごとに自殺の衝動に駆られるほどひどい状態なのだが、食堂で小耳にはさんだ悪徳判事を殺してやろうと一念発起することで、俄然生きる意欲が出てくる。
さてこの教授の言動は、ウディアレンをしのばせるが、外見は全く対照的であるため絶え間ない違和感がある。
牡牛のようにたくましい首筋と出っ張ったお腹のホアキン・フェニックスは本来は深みと苦悩を感じさせる容貌の持ち主で、「帰らない日々」の大学教授役はぴったりだった。しかし、役作りとはいえこうも肥っては、荘重さや知的な雰囲気は消し飛んでしまう。暴飲暴食の果てのもとラグビーか格闘技の選手のようだ。表情しぐさに知性が感じられないので大学教授に見えない。
誕生祝にエドナ・ミレン(1892-1950)の詩集を贈るシーンがある。
「人生は悲惨なことの連続だというのは嘘で、人生は最初から最後まで悲惨である」とはアレン好みのセリフ。
「罪と罰」のラスコリニコフのような発想で殺人を犯す主人公だが、結末は正反対、娼婦ソーニャに当る純真な女子大生に従って自首せず、奔放な中年の女性同僚と海外に逃げることを選ぶ。しかし突然呆気ない幕切れ。社会通念にそった、勧善懲悪的な結末がくる。カミユ「異邦人」の主人公は殺人によって自由と全能感を獲得する。そこは共通である。しかし死刑も怖れないムルソーと違い、この主人公は司法解剖であしがつくなど想定外。「僕が刑務所なんかで生活できると思う?」司法や警察がこのまま見過ごしてくれないかなあ、という虫の良い発想はいつものアレン節で、吹き出してしまった。
ウディアレンはこの映画で何を目指したのだろうか?エマ・ストーンというお気に入りの若い女優を輝かしたかったのか?自分より若く逞しいホアキン・フェニックスを彼女のお相手に選び、自分の代理としたかったのか?哲学教授や大学人一般を揶揄したかったのか。
ところでウディアレンは、過剰なまでに道化を演じたがるが(「タロットカード殺人事件」)、本来知性派である。最近見た「検事フリッツ・バウアー」のユダヤ系主人公に顔だちがそっくりで、彼は本質的に知識人なのだと思った。そのままの自分を出すことに照れがあるのだろうか?私はまるで違う肉体、容貌、年齢、の中でしゃべる彼よりも、彼自身を見たいと思う。あの彼が魅力的なのだ。しかしいずれにしても77年の「アニー・ホール」での全盛期の彼はスクリーン上に登場することはないだろう。そういえばエマと可憐なボーイフレンドのいきさつ、「アニー・ホール」でのウディ・アレンとダイアン・キートンのようだった。実人生での挫折と苦悩を、こうして何度も何度も取り戻しているかのようだ。芸術は人生を、芸術家自身の人生を救う。「ブロードウェイと銃弾」でもそうだったが、芸術のための芸術ではなく人生のための芸術だというかれの持論がここにも顔を出している。
しかし殺しの標的が判事だなんて、ミア・ファローと親権をめぐって裁判になったのがよほど応えているのだろうか。
私におけるかれのベスト3は「アニー・ホール」1977「カメレオンマン」1983
「ラジオ・デイズ」1987である。
ウディアレン関係の過去記事・・・何とこんなにあった。
→「ジゴロ・イン・ニューヨーク」15-4-4
→「ローマでアモーレ」15-3-24
→「人生万歳!」14-11-29
→「恋のロンドン狂騒曲」14-11-16
→「タロットカード殺人事件」14-11-11
→「ミッドナイト・イン・パリ」14-8-5
→「それでも恋するバルセロナ」9-12-6
→「ブルー・ジャスミン」17-3-15
→「フォロー・ミー」11-9-11
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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私もウッディ・アレン好きなので、新作が出るとつい見てしまいますが
ここのところ(私にとっては)不作が続いているので
次作のカフェ・ソサエティは劇場で見るのはやめようかな...と思案中です。
本作はせっかくのホアキン・フェニックスの魅力が生かし切れてない気がしたし
会話のキレも今ひとつだったように思います。
Biancaさんの過去記事を拝見すると、ブルー・ジャスミンはご覧になっていないでしょうか。
これはおもしろかったですよ!
TBとコメントありがとうございます。
うーん、キャスティング・ミスでしょうかねえ。ホアキン・フェニックスとアレンの世界とは異質すぎるかも知れません。その点で次回作のアイゼンバーグ君は期待できると思いますが…。ビデオ化まで待つのもいいでしょうね。「ブルー・ジャスミン」は確か見ているのですが、なぜか抜落ちていました。早速、日記を調べてみます。ケイト・ブランシェットのおかげで傑作になりうるかもですね。題材は私好みじゃないのですが・・・。