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眠る村

2019 日本 96分 副題 名張毒ぶどう酒事件57年目の真実

ナレーション 仲代達也 監督 鎌田麗香 斎藤潤一

予備知識なく見始めてほどなく、これは文芸映画ではなくて記録映画だということに気づいた。「眠る村」とはひとりの死刑囚の犠牲のかげで、ひたすら安眠をむさぼる現実の村と司法という村の住人たちを指している。

わりと整備された緑の豊かな道を、奥へ奥へと進んでいく画面を見る者は、ペロー童話の「眠れる森」に入っていくような錯覚を覚える。

この事件は昭和36年(1961年)三重県名張市葛尾の公民館で開かれた村の懇親会で、ぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡し当時35歳の奥西勝が「妻と愛人との三角関係を清算するため計画した」と自白。やがて彼は、自白は警察に強制されたと犯行を否定。1964年一審の三重地裁では無罪になるが、1969年名古屋高裁で逆転の死刑判決。1972年最高裁で死刑が確定する。しかし彼はその後50年以上にわたって獄中で再審を求め続け、2015年10月、八王子医療刑務所で死亡。その後、妹の岡美代子が再審請求を引き継ぐ。

二つのたとえ話が出てくる。一つは、「村を流れる名張川で洗濯中の女房がたらいを転がし、亭主にとりに行かす間にほかの男と情事を持つ」逸話。これはこの土地のおおらかな性感覚を表わしている。実際、ほかにもいくつかの三角関係はあった。奥西勝も妻と愛人を、とくに罪悪感なしに同時に愛していて、したがって毒殺によって「清算する必要性などもともとなかった」と隣人も証言している。つまり「三角関係の清算」とは警察がでっち上げた動機ということである。もう一つは、人身御供ということ。村の災いをしずめるために、僧侶が自らお棺に入り人身御供となった伝説である。奥西勝が、50年以上獄中にあったことは人身御供のように見なされていたのかも。

作業の手伝いなどして村人に近づき、かれらの重い口を開かせたという女性(鎌田?)の控え目な受け答えが印象的。私ならとっくに堪忍袋の緒が切れている。

会場にいた人たちの歯切れの悪さに比べ、当時母の胎内にいたという59歳の男性は中立的だった。年齢と場所が離れるほど、そういう意見が増えてくる。なぜ村人たちは、本音を語らないのか、そこには、真犯人がぬくぬくと生きのびていることを認めたくないか認められないという事情があるのではなかろうか。奥西勝は分家であり、友人が少なく、村における発言権が小さかった。学歴(高等小学=今の中学)とか、財産とか社会的地位の条件が、マイナスに作用したのか?見たところ、長身・男前で女性に持てたのも、悪く作用したのか?裁判官で30件以上の無罪確定をした木谷明氏いわく、日本で裁判官の資格があるのは10%くらいで、あとは頑迷固陋か右顧左眄タイプばかりだというが、だとしたら恐ろしいことである。

東海テレビが長年にわたってこの事件を追い続けている、その執念というか、良心的な制作態度には打たれる。

誰かの犠牲のもとに安眠を貪ることがないように、とこれら醜い証言者の顔を眺めつつ思う。

奥西勝(1926~2015)エリザベス女王と同年生。

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