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映画「アラビアのロレンス」


 左は実物、右はオトゥール

午前十時の映画祭第七回(第六回は見損ねた)
1962年 英 3h55 松江SATY東宝 監督 デヴィッド・リーン 出演 ピーター・オトゥール アンソニー・クイン オマー・シャリフ

1916年の第一次大戦中、英国はスエズ運河を確保するためアラブの対オスマントルコ叛乱を応援すべく、陸軍少尉のT.E.ロレンス(27歳)を派遣した。彼の奮闘は実り、叛乱は成功する。アラブを愛し独立を願ったロレンスだったが、大国間の取引で、彼の善意は裏切られた。失意のうちに帰郷したロレンスは、スピード狂となりバイク事故で死亡した。享年47。

まだ無名のピーター・オトゥールの起用が成功して、アカデミー7部門を受賞している。しかしこの作品があまりに成功したのでイメージが固まり、俳優としてはその後苦労したのではなかろうか。彼の名前だけで期待を膨らました「ロード・ジム」「チップス先生、さようなら」「将軍達の夜」など、どれもさほどの出来ではなかった。
ロレンス本人の活躍は当時から、米国の特派員にも報じられ、映画にも2回なり、本人もこっそり見に行くなど、かなり気に入っていたらしい。

今まで2回、10代終りと50代に大きい画面で見ている。最初の1964年には、エジプト人留学生に「どう思うか」と聞いたら「ウソばっかり!」と一言のもとに切って捨てられた。スレイマン・ムーサ「アラブが見たアラビアのロレンス」(62著、88年邦訳)にあるようにアラブに言わすと、ロレンスはあくまで西欧の為に戦い、西欧によって作られた、西欧側の英雄である。

そうではあるが、この映画はまれに見る良く出来た娯楽大作となっている。特に砂漠の様々な景観、ロレンスの複雑な内面の描写などは心を打つ。大の映画ファンだった若きフセインヨルダン国王の全面的な協力を得て、3万人の砂漠パトロール隊や、1万5000人のベドウィンが参加しエキストラとして出演した。

心に残ったのは、ロレンスと2人の少年の絆。危うい命を救われたガシムを連れて帰ってくるロレンスを迎えてダウドが全速力でラクダを駆るシーンは特に良かった。

脇役ではアンソニー・クインが演じるホウェイタット族の族長アウダ・アブ・タイが近代文明への無知で強欲な田舎者のような描かれ方で、これがアラブ人観客の怒りを買ったのではないか。オマー・シャリフの演じるアリは「知恵の七柱」では官能的な美青年のように描かれており、女性の影がないこの映画では女性の代りとみなす人もあるが、どんなものだろう。この男、登場するやすぐにピストルを振り回す強面ぶりで、私の大学の、硬質と言えば聞こえはいいが、強情なエジプト留学生(「ウソばっかり!」はこの人の感想)を連想し、あまり良い印象を持たなかった。もっとも、年を取るにつれ、だんだんこの人の良さが見えて来たが。

この映画の影響でわたしは長い間、ピーター・オトゥールとT.E.ロレンスの両方に夢中になり、オトゥールのほうは前述のように失望の連続だったが、ロレンスの方は中野好夫「アラビアのロレンス」とか自伝「知恵の七柱」を英日語で読んだり、彼の常宿アレッポのバロン・ホテルを見に行ったりした。ただ、私がアラビア語を志したのは(志しただけで、物にはなっていない、念のため)浪人中に、岩波新書の渡辺照宏著「外国語の学び方」をたまたま読んだからで、この映画を見たためではない。順番から言っても逆である。しかしこの映画で生れた時代の空気に影響されたこともあるのかもしれない。

●オマー・シャリフの出る映画
  →「ドクトル・ジバゴ」  8-1-23
●アンソニー・クインの出る映画
  →「道」 12-8-23
●デヴィッド・リーンの監督した映画
  →「ドクトル・ジバゴ」  8-1-23
●ピーター・オトゥール
 →「ピーター・オトゥール逝く」 13-12-22
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
アラブの友 (戸張 昇)
2012-08-25 15:01:41
しづのをだまき様

1年半近くたって本文を読ませてもらってコメントするのは恐縮ですが、私より数年先輩と拝察されるいづのをだまき様との共感できるところを発見したので止むに止まれずコメントする次第です。

昨日辻邦生の「時の扉」をコメントしましたが、私がダマスカスに駐在している1991-2年頃にT.E.LAWRENCE部隊が爆破に失敗したTELL AL-SHAHABの鉄橋を訪れ写真も撮ってあります。1900-01年にフランスの製鉄所が製作した鉄製の枕木(というよりかまぼこ型の鉄板)とレールの上を歩いたことを思い出しています。
私がアラビア語を勉強しようと思った動機も正しく渡辺照宏著の「外国語の学び方」を呼んで国連(ユネスコ)で使用されている6ヶ国語の1つであると知ったことからでした。今でも「アラビアのロレンス」には特別の愛着を持っています。

 
 
 
Unknown (Unknown)
2012-08-26 09:09:56
戸張昇さま
どう致しまして、旧い記事へのコメント歓迎です。
その本を読んだという人は初めてです、奇遇ですね。
私がシリアにいたのは77-79年のことです。僻地でしたが、協力隊の規則で自家用車は持てず、もっぱら移動は乗合いタクシー(セルヴィス)。いちどだけ、国境を越えてバスでアンマンにだけは行ったことがあります。
ロレンスと言えば、行ってみたいのは彼の受難の地、デラア(本当はダルーア?)です。昨今よくニュースで見ますが、何の変哲もない町(映画でもそうでしたが)みたいですね。
 
 
 
Unknown (戸張 昇)
2012-08-27 15:36:34
Unkownさん
渡辺昭宏の「外国語の学び方」を読んだという人は私が勤めていた職場仲間に一人いました。社内でも奇遇感を持ちました。
デラア(ダルアー/Dar'aa)はヨルダンとの国境の町ですが、確かに変哲もない町といえば特に遺跡などもない普通の町という印象でした。町の東にピクニックに行くような湖(池?)、町の西に10KM程行けば TELL AL-SHAHABの鉄橋(ヤルムーク川に架かっている)に行きます。毎月ヨルダンのアンマンに出張しましたが、ヨルダンから帰る時に国境を越えてダルアーの町に入ると、ヨルダンと比べてダルアーの町が薄汚れて見えてシリアの貧しさを感じました。1989-90のダマスカスでも昼過ぎには停電、断水で、風呂に入ったことはなく、小さなウォーターヒーターの冷水をシャワーとして浴びる程度でした。91-92は新しく出来たビルに引越し出来て、自家用発電機が備わっていたので停電や断水の悩みからは開放されましたが。
 
 
 
Unknown (Bianca)
2012-08-28 18:59:16
戸張 昇さま
続けてコメント有難うございます。
そうでしたか、ダマスでさえ自家用発電機を使っていらしたとは、電力不足は国中に及んでいたのですね。あの国境の町がデラアだとすると、アンマンに行く時に通ったのかしら、私は国境通過するとき緊張のあまり体調を壊すので、気づかなかったかも。アンマンではマーゴ・ヘミングウェイの映画「リップスティック」を見て、紅い内装の「マトアム・シーニー」に毎日通いました(シリアには中華がないので)。
 
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