映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
映画「ダーティハリー」
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このころはまだ若かった栗本・東木さん
1971 米 103分 ★午前十時の映画祭★松江SATY東宝にて
原題≪DIRTY HARRRY≫
監督 ドン・シーゲル
出演 クリント・イーストウッド ハリー・ガーディノ
正直に言って、この記事はどう書けばよいものだろうか……。
5作まで続く「ダーティハリー」シリーズの第1作で、刑事アクションとかこの俳優の好きな人にとってはこたえられぬらしいのだが。
クリント・イーストウッドに特に興味があるわけじゃない。名前もいたずらに長いので、打ち込むのが面倒臭く、東木さんと呼ばせて貰ったりする。彼の「ダーティハリー」の魅力は、出世やお金に未練のない一刑事の、捨て鉢なまでの大胆さと素晴らしい身体能力にあるのでは。監督になってからは、繊細な作品を作っているが、俳優時代は、あまり良いと思った記憶がない。単に彼の演じる世界が私の世界と接点が無いだけなんだろうが。
(例によってネタバレありです)
一言でいえば、連続殺人犯と一警官との一騎打ちの話だ。
最初に、サンフランシスコ市の殉職警官の数を年度別にならべている。そのくらい危険な職業であるということだ。また主人公が負傷して、医者がズボンを切り裂こうとすると、「29ドルが惜しいからやめてくれ」というシーンがある。ドルはまだ高かったにせよ、警官の薄給ぶりがしのばれる。一番良かったのは、ある品物を川に投げ棄てるラストシーンで、「真昼の決闘」を思い出した。走っているバスの屋根に飛び降りる場面は、代役を使わず自分で演じたというから驚きだ。
この犯人はゾディアックという実在の無差別連続殺人犯がモデルだそうだ。冒頭から見るものにショックを与えるのは、ビルの屋上プールで泳いでいる若い女性が狙われること、その後も少年少女が犠牲になっている。次は黒人やカゾリックの僧侶などを狙うと予告して市当局に大金を要求するという悪質な犯人である。この犯人は東木に追いつめられると突然「人権がどうだ」とか、「弁護士を呼べ」とか、わめき散らし、結局はまた野放しになって犯行を繰り返すことになる。明らかに悪いことをしながら人権を口にする風潮は昨今の日本にも受け継がれているようだ。もちろん、基本的には人権は大事だし、取り調べの可視化などは大いに進めてほしいけれど。
米国の映画はその後ますますこのような題材が増え続けているような気がする。実際の日常にあるわけではないのに、それを見ることで平凡・善良な市民はカタルシスを得るのかもしれないが、これは国内向けの娯楽で、外国の目を意識していないのじゃないかと思う。
私は50歳で初めてアメリカの地を踏むまでは、アメリカがこれほど平和でのどかな国とは想像していなかった。暴力と犯罪に満ちたこうした映画を長年見つづけたせいである。もちろんスウエーデンはベルイマンの映画のような芸術的なところではないし、そのほかの国のばあいも映画は現実とは違うのだが、特にアメリカの場合はあまりにも映画と現実の差が大きすぎる。彼らはもっと他者の目に映る自分ということを考えたらどうだろう。
●「ダーティハリー」の出てくる記事
→「2級検定問題&結果」7-5-30
●クリント・イーストウッドの監督した作品
→「チェンジリング」 11-2-3
→「硫黄島からの手紙」6-12-21
→「父親たちの星条旗」6-11-1
●刑事もの
→「ブリット」11-3-4
→「張込み」 10-8-23
→「点と線」 9-10-31
●権利意識ばかり強い若者
→「責任放棄」12-5-14
●私と警察官(蛇足ですが)
→「3つの注意」9-7-23
1971 米 103分 ★午前十時の映画祭★松江SATY東宝にて
原題≪DIRTY HARRRY≫
監督 ドン・シーゲル
出演 クリント・イーストウッド ハリー・ガーディノ
正直に言って、この記事はどう書けばよいものだろうか……。
5作まで続く「ダーティハリー」シリーズの第1作で、刑事アクションとかこの俳優の好きな人にとってはこたえられぬらしいのだが。
クリント・イーストウッドに特に興味があるわけじゃない。名前もいたずらに長いので、打ち込むのが面倒臭く、東木さんと呼ばせて貰ったりする。彼の「ダーティハリー」の魅力は、出世やお金に未練のない一刑事の、捨て鉢なまでの大胆さと素晴らしい身体能力にあるのでは。監督になってからは、繊細な作品を作っているが、俳優時代は、あまり良いと思った記憶がない。単に彼の演じる世界が私の世界と接点が無いだけなんだろうが。
(例によってネタバレありです)
一言でいえば、連続殺人犯と一警官との一騎打ちの話だ。
最初に、サンフランシスコ市の殉職警官の数を年度別にならべている。そのくらい危険な職業であるということだ。また主人公が負傷して、医者がズボンを切り裂こうとすると、「29ドルが惜しいからやめてくれ」というシーンがある。ドルはまだ高かったにせよ、警官の薄給ぶりがしのばれる。一番良かったのは、ある品物を川に投げ棄てるラストシーンで、「真昼の決闘」を思い出した。走っているバスの屋根に飛び降りる場面は、代役を使わず自分で演じたというから驚きだ。
この犯人はゾディアックという実在の無差別連続殺人犯がモデルだそうだ。冒頭から見るものにショックを与えるのは、ビルの屋上プールで泳いでいる若い女性が狙われること、その後も少年少女が犠牲になっている。次は黒人やカゾリックの僧侶などを狙うと予告して市当局に大金を要求するという悪質な犯人である。この犯人は東木に追いつめられると突然「人権がどうだ」とか、「弁護士を呼べ」とか、わめき散らし、結局はまた野放しになって犯行を繰り返すことになる。明らかに悪いことをしながら人権を口にする風潮は昨今の日本にも受け継がれているようだ。もちろん、基本的には人権は大事だし、取り調べの可視化などは大いに進めてほしいけれど。
米国の映画はその後ますますこのような題材が増え続けているような気がする。実際の日常にあるわけではないのに、それを見ることで平凡・善良な市民はカタルシスを得るのかもしれないが、これは国内向けの娯楽で、外国の目を意識していないのじゃないかと思う。
私は50歳で初めてアメリカの地を踏むまでは、アメリカがこれほど平和でのどかな国とは想像していなかった。暴力と犯罪に満ちたこうした映画を長年見つづけたせいである。もちろんスウエーデンはベルイマンの映画のような芸術的なところではないし、そのほかの国のばあいも映画は現実とは違うのだが、特にアメリカの場合はあまりにも映画と現実の差が大きすぎる。彼らはもっと他者の目に映る自分ということを考えたらどうだろう。
●「ダーティハリー」の出てくる記事
→「2級検定問題&結果」7-5-30
●クリント・イーストウッドの監督した作品
→「チェンジリング」 11-2-3
→「硫黄島からの手紙」6-12-21
→「父親たちの星条旗」6-11-1
●刑事もの
→「ブリット」11-3-4
→「張込み」 10-8-23
→「点と線」 9-10-31
●権利意識ばかり強い若者
→「責任放棄」12-5-14
●私と警察官(蛇足ですが)
→「3つの注意」9-7-23
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