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【旅】新宮

 
新宮は和歌山県・紀伊半島・熊野川河口にあり、製紙・製材の町として栄えてきた。昔から熊野信仰のゆかりの地として賑わい、現在は人口3万余、瀞峡観光の拠点としても客を集めている。(2000年刊 JTBのポケットガイド「南紀」¥300)

だが私にとっては、何よりも先ず佐藤春夫の故郷だった。関西にいるうちに行きたいと、6年前に地図とガイドブックも買ったが、ようやく実現したのは、毎日新聞に、

新宮で佐藤春夫と西村伊作展が開催される(11月1日~3月9日)ことと、連載中の「許されざる者」の著者、辻原登氏の講演会があるという記事があったからだ。

演題:「兄・伊作と弟・春夫」
日時:11月18日(日)午後2時より
場所:於新宮市職業訓練センター

松江からはJRで8時間の行程なので、前日に出て2泊3日の旅にするつもりだったが、新宮のホテルが、17日(土)は満室なので和歌山で1泊した。

着いて見ると、小さいが豊かで清潔感のある、どこか西欧風の「ハイカラ」な感じの街で、和歌山市とはまるで違う。

幾つかの観光スポットの中で、まず西村記念館に、講演の前に寄って見た。かれ自身の設計した洋館は、浴室の流し場が広々としているのが、7人の子供があったという話と思い合わせ、印象に残った。2:00-3:30の講演後、ホテルで一眠りのつもりが、2,3日来の寝不足のせいか起きた時は、真っ暗、新宮の店は大方閉っていて、空腹を抱えてようやく見つけたのが

駅前の「十二社」という食堂で、唯独りの客として、めはりずし(高菜でつつんだ名物のすし)とそばを食したのが10時過ぎ。めはり寿司は冷たいのが普通だと思うが、このときは温かい混ぜご飯風で、美味しかった。普段もそうなのかな?目の前の壁には、春夫の4行詩「さまよひくれば秋草の・・・」が貼ってある。

翌朝、ホテルの朝食の時、辻原氏を見かけたが、話かけるのは遠慮する。小説も所所しか読まず、講演も殆んど憶えていない、話す資格がない気がして。チェックアウト後、男だけの祭事で有名な神倉神社で、ご神体の巨岩「ゴトビキ岩」の場所を尋ね(500余の石段の上と聞いて、即あきらめる)そのついでに、「昨日は講演会に行ったんですよ。ここから佐藤春夫記念館に廻ります」などと、ひとり旅の気軽さはここにある、聞かれもしないのに喋ったら、あたりにたむろしていた男性ばかりの中高年の中に、偶然にも、「ドクトル大石(「許されざる者」の主要人物で、大逆事件で処刑された)に先祖が関わった」という人がいた。

明治40(1907)年にその人の曽祖父が海外で亡くなったとき、マニラから来た横文字の手紙を、読めず、郵便局に持参したら、そこもダメで、ドクトル大石に頼むと、快く引き受け、おかげで遺骸(遺灰?)を引取ることができた、と祖父から聞いているとのこと。(外国語に堪能で、海外との通信を行ったことも、謀反の容疑をかけられる一因となったらしい。今もどこかの国で起きていそうな話)貧乏な患者からはお金を取らなかった。壁を杖でコツコツと叩くのが、無料にしろという合図だったとか。

私の相槌が上手だったせいか、いや、多分それとは関係なく、話は益々佳境に入って来る。新宮からは他にも、僧侶など、数人の犠牲者が出た云々、70代後半かと見えるその人は、話が止らない。「皆に慕われていた方だったのですね。お話は帰ってから必ず伝えます」と約束した。傍らから80がらみの男性が、「話をしてくれてありがとう、これを上げます」と、二人にチョコレート菓子を下さった。そのニコニコとした顔立ちが端正だったのが記憶に残る。

これはあとで読んだことだが、事件後、その親族は新宮を捨てたそうだ。大石の甥、西村伊作が12歳の娘を入れるために建てたのが日本初の男女共学の「文化学院」だそうで、今もお茶の水のアテネフランセの斜め向?にある。黒柳徹子の母校でもあることは、「徹子の部屋」で何度か聞いている。辻原氏自身も和歌山の出身で、この学院の卒業生だとか。

佐藤春夫を訪ねる旅のつもりが、いつの間にか大石誠之介と西村伊作を訪ねる旅に変わったようだ。それに佐藤春夫記念館が案内書には水曜休館とあったのに、じつは月曜休館だった。これも何かの符合かと、外から見るにとどめた。「詩人は詩の中に永遠に生きる、他を見る必要はない。」などと自分に言い聞かせながら。

また、旅の目的の講演会の中身は殆んど覚えていないが、辻原氏が新宮を「ユートピア」に喩えたことが印象的だった。もう一つは、谷崎潤一郎がこの地を訪れたのは、「秋刀魚の歌」の背景になった事件、妻を譲る(潤一郎→春夫)に当たって、春夫の父に挨拶するためだったという話も・・・

佐藤春夫は19才の時「愚者の死」で大石誠之助を追悼している。
同郷の人びとへ、突っかかるような苦々しい弾劾詩。手元の詩集にもあるが、ここでは言葉がやさしく、しかし批判は鋭い、も一つの詩を。誠之助は「明星」の同人でもあったらしい。12.27付記


    誠之助の死       ~与謝野 寛~

大石誠之助は死にました、
いい気味な、
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある、
然し、然し、
わたしの友達の誠之助は唯一人。

わたしはもうその誠之助に逢われない、
なんの、構うもんか、
機械に挟まれて死ぬような、
馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。
それでも誠之助は死にました、
おお、死にました。

日本人で無かった誠之助、
立派な気ちがひの誠之助、
有ることか、無いことか、
神様を最初に無視した誠之助、
大逆無道の誠之助。

ほんにまあ、皆さん、いい気味な、
その誠之助は死にました。

誠之助と誠之助の一味が死んだので、
忠良な日本人はこれから気楽に寝られます。
おめでたう。

その後(同じく大逆事件に衝撃を受けていた)永井荷風を慕い、かれが教壇に立つ慶応義塾に進んだそうだ。

→「大石誠之助と金子文子」18-2-8
→「大逆事件と大石誠之助」11-11-14
→【詩】少年の日 7-3-19
→「石見への旅」9-7-6
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コメント
 
 
 
コメントおひさしぶりです。 (えいはち)
2007-12-20 12:11:56
10年ほど前、熊野三山、高野山、伊勢を巡る旅で新宮に寄りました。
なにしろ紀伊半島の主要な霊場を一度に周ろうということで、西村記念館や佐藤春夫記念館に寄る時間までは取れませんでしたが。
でも新宮は、熊野速玉大社や、神倉神社などのスポットだけでなく、普通の街並みがなぜか妙に味わい深かったことを憶えています。
熊野は霊場だけではなく、ここや田辺のような、人が暮らす街も魅力的でした。
写真も結構撮ったはずですが、フィルムスキャンが大変なので、なかなかブログに載せられないのが残念です。
御茶ノ水の文化学院も、マロニエ通りに面したアーチが印象的なあの佇まいのままなのか、気になってきました。
こちらは近々、デジカメ持って行って見ようと思います。
 
 
 
Unknown (Bianca)
2007-12-20 22:41:16
えいはちさん、お久し振りです。
そうそう、新宮の町は魅力的ですよね。
田辺といえば、南方熊楠の出身地、車窓で眺めた田辺には、川と山の景色がどこか松江を思わせるものがありました。えいはちさんがお住まいの新宿十二荘も熊野と関連があるとか・・・芸術的センスのあった伊作の遺作らしく、文化学院は建物も又、素敵だと思います。そちらの方へも足を伸ばして下さい!
 
 
 
新年の挨拶 (claudiacardinale)
2008-01-01 19:08:13
ビアンカさん、明けましておめでとうございます!
日本のパリでの新年は如何ですか?なんか日本の情緒深いお正月が楽しめそうですよね。
今年も映画レビューに色々な話期待してますよ。

では今年も宜しくデス。
 
 
 
おめでとうございます! (Bianca)
2008-01-01 20:25:03
クラウディアさん、明けましてオメデトウございます。初めての神話の国の正月は、何十年ぶりかに初日も拝めたし、雲が低くかかった山は神々がそこまで降りてきているような感じ。義母と3人でお雑煮や、おせちをしんみりと頂きました。NYのカウントダウンの様子をCNNで見ましたが、どこかに貴女がいるのでは、まさか、なんて。この頃貴女のブログに接近できないのでもっぱら見るだけ(ROM?)になっていますが、今年もよい記事を!
 
 
 
おめでとう! (JT)
2008-01-01 21:26:24
Biancaさん、明けましておめでとう!
新宮の旅の話も興味深く読ませていただきました。
昨年は、日本映画や日本文学の話、松江のこと、映画館の閉鎖、そうそう司馬遼太郎記念館の話も、カポーティとアラバマ物語、”ばらの丘へ”をご披露いただいたり、ブログ名の由来も教えて頂きました。年末には荷風と「魔女の論理」のこと。色々と教えて頂きました。こちらの不勉強でコメントできない部分が多かったですが、今年も色んな話題を楽しみにしています!
 
 
 
謹賀新年 (Bianca)
2008-01-02 10:48:55
JTさん、昨年中は度々お出でいただき、有難うございます。そういえば、そんな記事もありましたかね。今南国の花が霜に打たれたようにすくんでいますが、徐々に動き出しますので・・・今年もJTさんの記事を楽しみにしていますよ。
 
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