映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
「青年茂吉」
2020年07月30日 / 本
北杜夫著 2001年岩波現代文庫 91年岩波書店刊
初出「図書」1988年1月~91年1月連載「茂吉あれこれ」
斎藤茂吉伝四部作の第一作。
歌集「赤光」「あらたま」茂吉23歳~35歳
明治38年(1905)~大正6年(1917年)の時期
昭和2年(1927年)生まれの著者が、60歳を超えてようやく父について本格的に語りだした。それを控えていたのは、「まえがき」によれば、父に比べて文学者としてあまりにも卑小だとの自覚からだと言う。客観的に言っても、あの茂吉・輝子の両人が格闘する家庭に育つことは楽ではなかろう。この私も、著者から一人前の男性という感じを受けたことがない。息子のまま年をとったという感じである。
閑話休題、ポリープの大手術を経て、いよいよ死が近いと感じ、父について書くべき時が来たという覚悟もできてか、出だしの一巻には力がこもっている。
1・「赤光」では幼年期の家の周りの思い出から始まっている。それは今青山墓地になっている付近。お墓についての茂吉の歌から始まる。
墓はらのとほき森よりほろほろと上るけむりに行かむとおもふ
続いて「幼な妻」の登場だ。茂吉14歳で上京した時、のちの妻になる輝子はまだ幼く、おんぶしたこともあるという。結婚に至るまでは十数年の長い年月があった。その間、茂吉は一方的に思いを募らせていた。秀才とはいえ村夫子然としたかれと、東京で何不自由なく育ったお嬢様との結婚はあまりにも不釣り合いであり、後年の悲劇を生むが、それもこれも養父斎藤紀一の病院発展第一の方針からであった。
この辺りは塚本邦雄氏の著作※に詳しそうだからあとで読もうと思う。
をさな妻をとめとなりて幾百日(いくももか)こよひも最早眠りゐるらむ
「赤光」については後になって茂吉は否定的だったが、優れた創作者というものは常に自作をのり超えて行こうとするからこういうことは珍しくない。しかし「赤光」が発刊当時もたらした熱狂は今日の想像を超えている。「聞けわだつみの声」にも、この歌集を携えて入隊した学徒兵の例を読んだことがある。
みちのくの母のいのちを一目見ん、一目見んとぞただにいそげる
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
最近読んだ岡田尊司の「愛着障害」で引用されていた。茂吉の場合、生母との間にはしっかりとした愛着が形成されていたが普段は養子の立場上、抑圧されていた。危篤の知らせで一気に噴出したわけだ。「玄鳥(つばくらめ)ふたつ、はりにいて」などこどものころ読んだ時にはよくわからなかった。岡田氏の解説により初めてこの一連の歌に感動を覚えた。ちなみに父は高校時代、啄木風の歌を作っていたが、友人に茂吉を読めと言われたそうだ。しかし大学に行くまでは茂吉も読まずアララギとの近づきもなかった。また我家には全集を除き、単行本の「赤光」はなかったと思う。「童馬漫語」「白き山」の文字は見覚えがある。私も思春期のころ啄木が好きで、茂吉には何かとっつきにくいものを覚えた。やっぱり親子である。最近、茂吉は天才であるから、初心者はまねはするなと、ある指導者が言ったと聞き、わが意を得たりと思った。北杜夫がまねをしてるのは息子だから特別かもしれない。
2.あらたま(1913年9月~1917年12月)
ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも
茂吉が死んだ日の夜8時5分ラジオ東京で追悼番組があり、自作を詠む茂吉の音盤の声が放送された。「いかにもつたない、いかにもトツトツとした、そしていかにもひたむきな、昔のあの父の声である」著者の日記のこのくだり、涙せずには読めない。
さてこの二冊は前の二冊に続いて図書館から借りていて、きょうが返却日なので昨夜から緑茶を飲んで必死でUPした。まことに不埒な読者である・・・。
※塚本邦雄著「茂吉秀歌『赤光』百首」講談社文芸文庫(20-10-13記)
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