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「若い詩人の肖像」

講談社文芸文庫 1998年刊 (初出1954)

伊藤整(1905ー1990)といえば「チャタレー夫人の恋人」「女性に関する十二章」など小説・エッセイ・翻訳・評論などで幅広く活躍したが、詩人を目指した若い日を50歳の時振返って表わした自伝である。

小樽高等商業学校時代に校内で一番英語ができたこと、一年上に文学志望の小林多喜二がいて、自分を認めていたらしいことに言及している。戦後のこの時代は、毎年「百合子・多喜二祭」が行なわれるなど左翼の隆盛期であった。以前なら国賊といわれた多喜二との関係を、いまや多少大げさにでも語るべきだと、世の中の動向に敏感な著者は感じていたに違いない。

さて私は20代のころ、タイトルに惹かれてこの書を買った。20歳の著者と17歳の重田根見子との非精神的な恋とか、東京の下町の家でオルガンを弾き歌う尾崎喜八に胸苦しくなったとか、高村光太郎の家では呼吸が楽になったなどのくだりは記憶に残っている。

ところでもしこの「若い詩人の肖像」を出さなければ、彼が詩人であったことは大半の人の念頭にも上らないのではなかろうか。と言っても、手元にある伊藤信吉編「現代名詩選」下巻(新潮文庫)を見ると、ちゃんと彼の作品が収録されている。「忍路(おしょろ)」「雪あかりの人」などは印象的だ。でも本書での彼は私には詩人らしくなかった。詩人という名に夢を見過ぎる私が悪いのか?ここは伊藤のタイトルの付け方の上手さに感心すべきなのか。

同じくタイトルに惹かれて読んだ「典子の生き方」は、喫茶店に勤めるヒロイン典子が、客の大学生が置き忘れた文庫本(トルストイ作「イワン・イリッチの死」)を読んで生き方を考え直すという長編小説。この大学生は若い女性の前に啓蒙者として登場する彼自身ではないか。芥川龍之介の「葱」「南京の基督」でも、社会の底辺にいる無学な女性の目に映った自分を描いている。このふたりの自意識過剰なエリートぶりには共通性がある。

蛇足ながら、同時代、彼より少し前に私の父が生れているので、比べてみたが、全然と言っていいほど共通点がなかった。もちろん地理的に南九州と北海道では正反対だし、精神風土も保守と進歩で両極端、父は医師という職業があり詩歌に純粋に対しているが、整氏は詩や文学を社会への足掛りに利用したふしもある。対女性態度でも、純情一途な父と自己中心で冷酷な整とは対照的だ。(余計な事だが)

映画「氾濫」9-11-22

映画「ブライト・スター」10-12-11

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