映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
同窓会
卒業後55年ぶりに中学の同窓会に出た。
鹿児島市天文館のあるホテルで。
私たちの学年(1960年3月卒業)は約450名(9クラス)出席者は先生1人を含めた60名。
団塊の世代ほどではないが多人数の上、公立であらゆる階層がそろっているだけに出席者も多様な顔触れだ。
その夜言葉を交わさずにしまった2、3人が悔やまれる。
同級からは私のほかに女子3人、男子2人がきていた。
男2人は小学校から高校まで同級だったとか、今もお神酒徳利のように顔を並べている。
W氏は、工業高を出て就職し2年してから、大学を受験しなおして、校長にまでなったそうだ。
「荒れる中学校」の時代、いかにして腕白どもをとり扱ったかを語ってくれた。
自分自身がしょっちゅう職員室に呼ばれるやんちゃ坊主だった。
「ケスイボ」↓のときも彼らが関与している。
女子の3人は、良識派や常識派と、当時のままである。人間15歳ともなると原形からそう変わらないようだ。
獣医のH君、老犬を飼っていた晩年の母がかなりお世話になったらしい。
ただ1人ご出席の先生は私の2年時の級担任で、学科は数学、部活はサッカーの顧問だった。
当時は卒業したばかりで学校でも一番若かったが、今は真白な髪。
あいさつに行くと、手を握って喜んで下さったが、その手が温かいことに感動した。
「ブログ読んでいるよ」と男性(失礼ながらどなたか想い出せない)に言われた。
母の介護に関って下さったとのこと。
「この頃〇〇ちゃん書いてないねって噂しているのよ」とA子さんに言われた。
これで鹿児島に3人は読者がいることが判明した。こんな声を聞くと励まされる。欲を言えば、コメントを下さると嬉しいのだが、そういう未経験の行動は想像できないほどの勇気がいるものらしい。
中学時代の自分は孤立していたとずっと思って来たが、それは単なる思込みだったのかも知れない。
とつい思いたくなる夕べだった。幹事の文章に誘われて、勇気を奮って出席して良かった。
いま不本意な生活をしていても、生きていれば、全く別な風に思い出せる日が来るかも知れない。
「モンテクリスト伯」の結びの句「待て、そして希望せよ」の通りに。
「残念ですが、欠席します」8-10-10
「半世紀ぶり」8-8-5
「ケスイボ」 14-8-18
「真室川音頭」18-3-14
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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>いま不本意な生活をしていても、生きていれば、全く別な風に思い出せる日が来るかも知れない。 「モンテクリスト伯」の結びの句「待て、そして希望せよ」の通りに。
希望しながら、待つのですね。とてもよい文言ですね。心に響きます。
久しぶりですね。
お元気とのコメント、嬉しいです。
運動をしながら回復していらっしゃるのでしょうね。
そうです、じたばたせず、短気を起こさず、希望を捨てずに生きてゆきましょう。
「モンテクリスト伯」もどうぞ。
大規模校に在学したのですね。
私は純農村地帯ながらも21年生まれとて2クラスで113名というすし詰め状態でした。貧しくて貧しくて
社会に恨みを持っていたので、中2の時、党員担任にオルグされた経緯があります。二木先生でおなじみのハコベの花様の永遠の恋人~彼の防衛大進学を期に思想的なかい離から封印した過去への思慕に胸が痛む私です。何故なら高校の先輩の亡夫もオルグした党員教師の機関紙を購読しており~彼をオルグせよとの密命を帯びて接近したのが馴れ初め。ところが彼は近所の党員(銀行員)お兄さんの機関紙販路拡大に協力していただけ。むしろ思想には批判的であったとう次第。交際から結婚に至るまで
オルグの師に背く形となり人に言えな葛藤がありました。亡夫の選んだ職業が党員からは敵対視される公務員であったために。ではまたコメントさせていただきます。良いお年をお迎えください。
肝心のコメント
工業高校を出て大学に進学なされて校長になられた同級生~漢気のある好ましい人間ですね。
「いま不本意な生活をしていても、生きていれば、全く別な風に思い出せる日が来るかも知れない。
「モンテクリスト伯」の結びの句「待て、そして希望せよ」の通りに。」
古希を過ぎてこの言葉がしみじみと胸に響きます。
娘の置いて行ったピアノで「家路」や「ダニーボーイ」を弾きながら15歳の私へ~そして多くの不遇をかつ思春期の子供たちに モンテクシスト伯の言葉を語りかけています。
尚ピアノは上達のために月4回先生に通ってます。
ここにもコメント、ありがとうございます。
同級のかれは、おっしゃるように男っぽい人でした。
党員とか機関誌と言う語、当時の空気が思い出されます。
りんご様、中学生でオルグされるとは早熟でしたね。