明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(水)雑学:居酒屋おしゃべり(25)俺にも言いたいことあるんだけど!

2021-03-17 19:43:37 | 今日の話題

1、緊急事態解除と各知事の反応
政府は明日解除のつもりだとニュースで言っていて、各知事もそれぞれ意見を言っている中で、肝心の首都圏のリーダーである「小池都知事」は調整中と、依然としてダンマリを決め込んだままである。これ結局のところ、小池都知事お得意の「後出しジャンケン」をしようという魂胆なのがミエミエなのだ。前回衆院選で希望の党躍進の後押しを受け「他党の排除発言」したら思わぬ批判・大炎上した、という失敗に学ぶこともなく、またしても「ライバルを蹴落とすためだけ」の日和見姿勢で世論の様子見をしようというのは、「小池都知事の陰険・陰湿」な性格がはっきり表に出た証拠だと専らの評判である。勿論大衆の支持を得るというのは大事なことだが、それは「結果」であって、政策決定時点で「世論に阿る」というのとは決定的に違うと私は思う。世間の考えというのは、あくまで「結果論」である。何を言っても結果が出なければ叩かれる。それだから重要な決定においては、「しっかりとした信念に基づいた判断」が求められているのである。なのに、こういう肝心な時に「様子見をする」ような人というのは、政治のトップに立つべきではない、と私は思うのだ。普通に考えても「重要な時」に判断を保留するのでは、やっぱり「この人は信用出来ない」と皆さん思われるのは納得できる。確かにそうなのだ。小池都知事は「信用ならない悪」そのものである(おおー、怖っ)。

だが、人柄を信用して「政治を任せる」というのは、やり方として間違ってはいないだろうか。政治を行うのは「あくまで有権者一人ひとり」である。だから都知事に求められることは「都知事としての考えと行動」のみであるべきなのだ。腹の中で「何を思っているか」なんてことは、有権者の知るべきことではないと私は考えている(実際にも「知る」ことは出来ない)。政治は結果が全てだ。それを結果が出る前に信念に基づいて実行し、結果が出たら「それを受け入れる」態度こそが、政治家には求められるもである。だから「こう言う現状」において小池都知事に政治を任せているのは、都民にとって「最悪の選択」だと私は思う。まあ私は千葉県民だから関係ないっちゃ関係ないんだけど、ねぇ。

2、コロナ感染の実態
神奈川に住む人が勤務先の東京で「市中感染」したとする。無症状なのでそのまま普通に生活していて、地元神奈川で飲食店で会食したとする。そうすると、同席していた人が「会食感染」した。でも、その人も無症状だったのでPCR検査はしなかった。ところがその会食感染していた人が別の人に「市中感染」させて、その人が家庭に帰って母親が運悪く感染し発症した場合、最終的に統計上は「神奈川で家庭内感染」とカウントされるわけである。では、上記のストーリーにおける「感染防止対策」の重点はどこにおけばいいのか?、という問題だ。勿論PCR検査を徹底的に行う、という方法で「最初の市中感染」をする前に「ウィルス保有者」を発見するという考えもあるだろう。これは理想の方法だが、「全員が確実にしかも短期間で一斉に」検査しないと効果が出ない。となると、実行するには「2、3日間で何十万人」の検査をする必要があり、その間にはロック・ダウンもしなければならないだろう。費用もかかるし検査のスピードも必要だ。では似たような病気であるインフルエンザで同じような対策を取っているかというと、誰もそんな必要性は感じていないのが現実である。結局対策としては中途半端な方法だが、マスクと飛沫感染を防ぐことになってしまうし、個人の対策をしっかりやった上で「罹ったらしょうが無い」ということに落ち着くのではないだろうか。コロナに罹患し、重症化する率は東京で言うなら「人口1200万人で1000人」くらい、つまり1万人に1人だ。勿論、年代別にカウントすれば、高齢者ではもっと率は上がるだろう。普段からマスクを着用し、会食時にも「感染対策をキチンと取っている人」という括りで言えば、感染対策はもう「個人の免疫力」の問題になってくる、というのが私の結論である。誰が悪いわけではない。自分で気をつけよう、という事に尽きるのだ。たまたま日本はある意味「体質的」にコロナに防御力があるという「恵まれた環境」にある。ここらでコロナを怖い病気と宣伝するのはもう止めて、コロナ対策は「医療で戦う」と決めても良いんじゃないだろうか。現状の日本は、コロナに感染しても無症状の人に取っては「ありがた迷惑」な社会になっている。その辺の決断をしていくのが菅首相の責任だと思う。ブラジルの大統領のようになれとは言わないが、もう少し「メリハリのある対策」を取っても良い頃である。

3、官僚の国会答弁
国会で答弁に立つ官僚は、皆んな一様に2言目には記憶がないという。例えばある「事実があったかどうか」を確認する質問があった場合、普通は記憶がなければ「してません」とか答える筈だ。それが相手方と食い違いがあってスッタモンダした「結果」に、してたと結論がでた時に「記憶がない」という言い方をしていれば、「ウソはついていない」という言い訳が出来るのである。つまり後から追及されないための自己防衛だ。こういう自己を守るためだけの発言をするような官僚は「いらない」とは思いませんか?。やっていないのなら、「やってません」と答えれば良い。もしそれが間違っていたら「そうだとしたら受け入れる」しかないではないか。責めるのなら「記憶してない自分のだらしなさ」である。だから「記憶にない」と答える官僚や政治家は「即、クビ」にするのが良いと思う。もし記憶がないとしたら、「その日に何をしたか、行動を全然思い出せない」という状況しか考えられないのだ。それが10年前ならいざ知らず、官僚が重大な仕事のことで「数年前」のことを思い出せないというのでは、殆ど「官僚の仕事としては失格」だと思う。いわば「官僚型認知症」だ。それであるなら「クビ」というのもやむを得ないだろう。何しろ覚えていないんだから「使えない」のである。使えない奴はクビにするしかないではないか。そのために政治家や官僚または民間の人であっても「公的メモの記録作成」は必須である。自己防衛をするのなら「そういうこと」に気を使うべきである。

4、記憶力の向上
ちなみに私は最近テレビに出てくる「顔と名前」を忘れないために、「声に出して復唱する」ようにしている。これ、年寄りには大切なことなのだ。但し、記憶する「必勝の方法」というのを、最近私は発見した。名前の記憶というのは、脳が刺激を受けた「その刺激の量」が多いほど、しっかりと記憶される仕組みになっている。ところが何が刺激になって記憶されるかと言うと、顔と名前の「何が刺激になって」脳に関連付けられ記憶されるかというと、案外「自分では意識していない状況」がアシストしていることが「多い」のである。例えばテレビで何か放送事故をやらかした人がいるとしよう。その場合、脳は「非日常の事故」を重要と捉えて記憶する。だが名前は事故に比べて「必要じゃない情報」なので、忘れてしまうわけだ。人間の記憶というのは「脳の記憶容量が限界が決まっている」ので、いちばん重要な情報だけ記憶していて、他は切り捨てているように出来ている。そこで「何を契機として記憶を呼び出すか」を自分でコントロールしつつ、呼び出す場合を想定しながら「補正」して、再度復唱する方法を取っている。これがどれほど効果があるのかは、これからの成果に期待である。なお、忘れていいことは忘れる、というのも大事だろう。自分の脳のハードディスク容量は「意外と少ない」というのが最近の私の感覚だ。とにかくまず、顔を見ながら名前を連呼する、から始めたい。その時に、相手に向かって「〇〇さん」と呼びかけるのが大事である。ぼんやりと思い浮かべるのではなく、意識して相手に呼びかけることで記憶にしっかりと刻みつけるのだ。皆さんも是非やって見て下さい。

ところで、物事をしっかり脳に記憶させる一番の方法は、意外だろうが「人に説明する」ことである。人に伝える必要がなければ、脳はモノの名前なんか覚えようとはしない。名前はコミュニケーションの為に必要なの道具なのだ。そこで若者の「映像離れ」が加速しつつある中、言葉の必要性が段々無くなってくることに少なからず不安を覚えるのは私だけではないのではないか。そう言えば街頭インタビューなどで映し出される若者の発言を聞いていると、何だか「画一的で内容が薄い」と感じることが多くなって来た。勿論、老人もしかりである。人から意見を求められたら「なるほどなぁ」と感心されるようなコメントが出来るように、常に言葉を大切にして生きていきたいものです。

5、幸せとは?
70を越えて人生終盤に差し掛かって来た私は、ありきたりだが「健康であること」が何よりも幸せだ、と思うようになった。お金や地位や名声は一般的にはあったほうが良いとは思うが、個人的には「無くても」別に困るわけじゃない。精神的には、「他人の個人的なこと」には一切立ち入らない、を生き方の基本とするのがこれからは良いと思っている。そしてお互いに「興味のあることだけ」 話をする、それが良い人生を送り良い社会を維持する唯一の方法であると感じている。世の中にあふれているゴシップ雑誌などの「個人の隠された裏側を覗き見する」雑誌などは、金輪際見ないと決めるのだ。そんな他人の「あら探し」などに時間を使っても、幸せは決してやってはこない。幸せとは「他人との比較で生まれる相対的優劣」では無いからである。

そこで我々の生活を考える時、解決策となりそうなのは、世界政府によるベーシックインカムの導入である。誰しもオギャーと生まれてから死ぬまでの間、全員に基本的人権の守られた「安全安心な生活を送る権利」を保証しようというのだ。その第一歩として、ユーロと同じような考え方を持つ「ASEAN」を拡充し、まず「ASEAN憲法制定・ASEAN政府発足」にむけて、10年計画で「試験的に」実験を始めてみることとしたい。手始めにやるのはまず「通貨統一」である。これは通貨を一つに統一して、今までの交換レートと同じ価格設定をし、100円払うところを「1ASEAN」払うという標準化の一方式である。これは他の事に「何も影響が無い」からすぐに実行できる筈だ。キャッシュレスにすれば「もっとかんたんに導入」出来る。勿論、東京で1000円するラーメンは、ベトナムで食べれば「300円」で食べられるであろう。そうやってお互いの資産が交流することで、自然と格差が「薄まってくる」んじゃないかと思っている。

これはあくまで「概論」の話だ。実際は色々と細かい決め事が必要になるとは思う。だが社会全体が良くなるためには、目標をASEAN地域の一体化に置く、というのは悪くないと考えている。もう個人的なゴシップに一喜一憂して楽しんでいる場合ではないのだ。中国海警局の圧力というのが問題になっているようだが、日本という小さな社会の中で成功しようとして「他国と覇権争い」するのではなく、ASEAN全体が「幸せになる」ことを目指さなくてはならない時期に来ていると思う。それにはまず「貧富の格差」を無くすことだ。中国だって、沿岸部の住民の生活をアップさせようとして領海の拡大を図っているに違いない。領土領海の拡大による民衆の生活向上は、中国の歴代王朝が取ってきた「支配の常道」である。だが中国のやり方は、他国にとっては侵略にしかならない。それで過去の王朝は皆んな失敗してきた。また習近平が同じことをしようとするのかどうかわからないが、もうそろそろ違い方法を模索してもいい頃である。しかし道はまだまだ遠い。というか他の国のことを言う前に、日本の貧困家庭を救うのが急務だと思うのだが、この遠大な改革事業、「菅首相」に出来るのかなぁ・・・。コロナより、そこが肝心なんだけど。


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