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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史刑事・柚月一歩の、謎解きは晩酌の後で(19)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(2)

2020-09-21 12:12:55 | 歴史・旅行
4、倭王武

478年、倭国は「東は毛人を征すること五十五國、西は衆夷を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐること九十四國」と、有名な南朝劉宋への倭王武の上表文で高らかに先王達の武功を自慢した。漢字文化の高さ深さを示したとして、日本人の誇りにもなっている名文です。この倭王武が日本書紀の天皇名の「誰のこと」なのか、古来「あーだこーだ」と議論百出してますが、答えは「近畿大和王朝の人では無い」でした。これ、割と定説になっています。その昔、埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘に「ワカタケル」と読めるかも?という文字を発見し、これが日本書紀に「大泊瀬幼武」と書かれている雄略天皇のことだと早合点して、大騒ぎになったことがあった。これを受けて、すわ「雄略天皇」が関東まで支配していた証拠だ、と話が広が利、今に至っている。確かに「獲加多支歯」大王と銘にあるが、私には「エカタシハ」としか読めないんだけど、どうなんだろね。何れにしろ、ちょっとでも可能性があれば「前後の見境もなく、無理やり大和に結びつける」風潮はいかがなものだろう、と思います。

○だが私は、この上表文にある「西は衆夷を服すること」という文言にちょっと引っ掛かった。「夷」というのは「東夷・西戎・南蛮・北狄」の中の「東の異民族」を表す中華用語である。西なのに「夷」というのは変じゃ無いか?、と思っていた。これは後日、倭王武が宋王朝に対し、へり下って自分達の居る場所を「夷」と言っているのだ、と何かの本で読んだ。なるほど納得である。倭国の周辺は、本来は「夷戎蛮狄」ではなく「自分達がいる」文化の進んだ地域の筈である。それを「衆夷」と書いているから「倭国を含めた領域が夷」という表現なのだ(何という深謀遠慮!)。これは中華用語として「ピッタリ」の表現である。倭王武も相当考えている(尊敬した)。この一点だけでも、倭国の情勢判断力は半端無い。それから、倭国の領域の「さらに東」には、毛人の国が広がっていると言っているし、「海北を渡りて」と朝鮮半島にも九十四國を支配下に置いていると宣言していた。東は「毛人」であるが、朝鮮半島の国は認識上は「夷戎蛮狄」ではなく、倭国と同格の民族であることになる。この国際政治感覚は、もう中国人と同じレベルに達していると言えよう。

○自国を取り巻く勢力の正確な把握を読めば、倭国が当時「東アジアで、高句麗や百済や新羅と覇権を争っていた」のは間違いない。しかるに古事記も日本書紀も、5世紀末から6世紀初頭にかけて、朝鮮半島で他国と戦争をしていた、というような記事は「皆無」なのである。おかしいでは無いか。これでは倭国と近畿大和政権は「別の国」であるとしか考えられないのだ。そして倭国は古の「金印の委奴國」から「親魏倭王の卑弥呼」の時代まで、一貫して中国に朝貢していた筈である。ならば近畿大和が邪馬台国と別の地域の支配者だというのは自明の理屈である。日本歴史学会は、邪馬台国の場所を九州と近畿で争論しているらしいが、既に結論は出たようである。その間、近畿大和政権は一体何をしていたのだろうか。答えは明白だ。一地方の代表者として「のんびり自国内の出来事に専心していた」に違いないのだ。古事記・日本書紀に「記事がない」のがその証明である。

5、筑紫君磐井と物部麁鹿火

502年に「征東大将軍」に叙されてから25年後の527年、当時の継体天皇は「長門より東をば朕とらむ、筑紫より西をば汝とれ・・・」と言って、物部麁鹿火を送り出したと言う。所謂、筑紫君磐井の乱である。一条このみ氏は、これは「磐井の乱」ではなく「物部麁鹿火のクーデター」だと断じる。まあ定説である。筑紫君とあるから、磐井は「国王」と認識されていたのは間違いない。だから大和政権とは「別の国」である。しかし日本書紀は「属国扱い」で反乱と表現した。まあ色々な地域で「〇〇の君」がいて、それ等を統轄支配しているのが近畿大和政権だ、という見方も出来よう。それならば、朝鮮半島の利権を争っている日本が、その最前線である九州に「信頼できる拠点」が無い、というのは不可解である。まあ、この辺を一条このみ氏はアッサリすっ飛ばしているが、私は、当時の倭国情勢を知る上でも重要なのでは無いかと思っている。結論は倭国九州が中央で、近畿大和政権が「地方」であることは明白だろう。朝鮮派遣軍には「上つ毛臣」などという関東を匂わせた名前もあるようだから、倭国の支配領域も「関東まで及んでいた可能性もなくは無い」として、今後の研究が待たれる。

○ここで私は、日本書紀の記述の仕方に注目してみたい。すでに近畿大和政権が日本を支配下に置いているのなら、「西をば汝とれ・・・」ではなくて「西の反乱を鎮圧せよ」でなくてはおかしい。それに「東をば朕とらむ」と言うのも「戦う相手の領域を東西に2分割する話」だから、筑紫の君磐井が「長門より東にも相当な範囲で支配を広げていた」ことを意味している。これでは継体天皇より磐井の方が「大きい領域を支配している」事になって、辻褄が合わないではないか。筑紫の君磐井は実際に「東をどこまで支配していたのだろうか」。倭国は昔から連合王国、今で言うならばアメリカ合衆国あるいは英国連邦のような「緩やかな友好国の集合体」を形成していた筈である。その連合国の中には大和も含まれていた。倭国が朝鮮半島で覇権を争っている頃、大和では武烈天皇が崩御して政権に空白ができたようである。その跡目争いに、遠く敦賀からやって来たのが「継体天皇」で、彼を呼んできて天皇に据えたのが、武闘派の「物部一族」である。物部麁鹿火等は実は大和で部族連合と跡目相続で敵対しており、戦いの一方の側の「神輿」がわりに担がれたのだと言う説もある(本当か?)。継体天皇と物部麁鹿火は最初、まだ「どこも支配してなく」て、敦賀からやって来ても継体天皇は長い間「大和に入れないまま」宮を転々として戦っていた。その場所は現在の河内の辺りだと言う。大和の旧勢力は武烈の死後、新たな代表者を立てるか或いは共同統治方式をとったか、何れにしても「継体天皇と敵対する勢力」になっていて、20年近く戦っていたのだ。だから、ようやく526年に大和を支配下に入れて意気あがる継体ー物部軍は、当時朝鮮半島にかかりっきりの倭国軍を見て、「東をば朕とらむ」の策略に出たのである。

○物部麁鹿火は倭国の同盟者であり、筑紫君磐井の協力者として倭国に入ったのであろう。麁鹿火の行動は「にわかに官軍動発」と筑紫風土記にあるから、完全に不意を突いたクーデターである。磐井は斬られ(筑紫風土記では行方知らず)、「倭国の皇子・葛子は、糟屋の屯倉を献上・・・」と書いてある。だがもし九州が、日本書紀が言うように大和政権支配下の一部であれば、元々「屯倉は大和政権の所有物」の筈ではないだろうか。わざわざ葛子が献上するいわれは無い。あるいは百歩譲って、筑紫國が大和政権の協力国だとしても、屯倉だけ貰うと言うのは如何なものか。磐井が大和政権に楯突いたのであれば、磐井から筑紫を取り上げて「別の支配者にすげ替えれば」良いだけである。書紀は屯倉を取り上げた「その後」を書いていないので分からないが、結局筑紫國はそのままの形で残り、物部麁鹿火は「屯倉を奪っただけ」で「すぐ大和に帰った」のでは無いだろうか。屯倉の献上が「賠償金」の意味ならば、筑紫國と物部麁鹿火は「手打ち」したと思われるのだ。私が想像するに当時、倭国は大軍を朝鮮半島に送り込んでいて、自分の国の防衛は手薄だったと思われる。だから物部麁鹿火のクーデターが成功したのだ。当然、クーデターを知った倭国軍は、急遽日本へ戻ってきて「物部麁鹿火」と一戦交えようとしたに違いない。それを察した物部側が、屯倉の献上で「手を打った」のだ。そう考えなければ話が合わなくなる。元々、物部麁鹿火軍は「筑紫國を支配するだけの規模の軍隊ではなかった」と言うのが真相であろう(私の想像)。だから書紀の言う様な「東をば朕とらむ・・・云々」は、伝承の中の「脚色」である。それを書紀制作メンバーが忠実に記録した。本当は、朝鮮に出兵するのを嫌がった物部麁鹿火が、反逆して磐井を斬り、屯倉の財産を奪って逃げた、と言うのが妥当な処だろう。

○ところで、ここで一つ謎がある。書紀の左注に、朝鮮の歴史書「百済本紀」が「又聞く、日本天皇および太子皇子、倶に崩薨りましぬ」と書かれていた、として引用するが、詳細を書いていないのである。この記事が「誰のこと」を言っているのか、書いてないから謎なのだが、大和政権で起きたこと「ではない事実」に関しては、詳細を省く書紀の習性からすると、「百済本紀」の言う「日本天皇」は大和政権内部では無い可能性が高い。多くの歴史家は「筑紫の君磐井とその子供達」と考えているようだが、果たしてそうだろうか。磐井は朝鮮に行かなかったにしても、太子か皇子は軍のトップとして半島で戦っていたと私は思う。だから筑紫國王(倭国王)磐井を物部麁鹿火に打ち取られたとしても、息子達が残っていたから「筑紫國(倭国)は負けたわけではない」。後継者の息子が朝鮮半島から戻って来て、大王磐井を失った怨みと傷を癒して雌伏数年、ようやく軍を立て直して東上し、物部麁鹿火と継体天皇を打ち破って「昔年の恨みを晴らした」と言うのが真相ではないだろうか。継体天皇の没年は、古事記では「527年の丁未」とし、書紀は「531年の辛亥」と記している。磐井の乱が528年に起こり、数年後に倭国軍が継体・物部連合軍を成敗したとすれば、ピッタリ531の辛亥年に符合するではないか!(出来過ぎ!)。

○結論:それまで継体天皇側と抗争していた大和の部族連合は、ようやく継体天皇と太子・皇子の滅亡によって大和の地に平和を取り戻したのである。そこで急浮上したのが、欽明天皇と蘇我氏のコンビというわけだ。これが「磐井の乱」に対する私の想像、つまり見解である。磐井の乱には、今まで色々書かれてきた大きな矛盾があるのだが、これは元々物部麁鹿火側が「反乱軍」と考えれば「至極尤もな記述」だと頷かれることと思う。ついでに継体天皇という存在も、従来のような「大和王権の後継者」としてではなく、敦賀から大和の収益を虎視眈々と狙っている「簒奪者集団の長」と位置付けた方が良いように思う。そして最後は、復讐に燃えた「倭国軍」に蹴散らされて全滅したというのが流れではないだろうか。倭国軍は継体天皇等を打ち破った後、「欽明天皇」に大和を託して九州に帰ったと思う(私の想像)。倭国に取っては大和という地方の小国を直接支配するよりも、朝鮮半島の覇権争いの方が大事だったのだと考えたい。勿論、毎年の上納金額のアップは、当然あっただろう。私はその財務関係を一手に引き受けたのが、渡来系財務官僚「蘇我氏」だと考えた。蘇我氏は当初支配者としてではなく、大和國の税収から、一定の上納金を一括して倭国へ送る役目を担っていたのではないか。つまり、倭国の「大和監督官」のような立ち位置である。

6、物部氏の滅亡と倭国

欽明が大和支配を確立し、敏達・用明と同族で王権を継承して、これで大和政権も安定したかに見えた。しかし用明天皇が2年で崩御したことから蘇我氏と物部氏の争いが「崇仏廃仏論争」に発展し(これは権力闘争で、崇仏廃仏というのは言い訳であろう)、互いに兵を率いて戦争となった。蘇我馬子・聖徳太子の側が「587年丁未の乱」で物部守屋を破って、決着が着いたのはご承知の通り。物部守屋の押す穴穂部皇子を倒して、崇峻天皇が皇位を継承した。ところが蘇我馬子はその崇峻天皇を弑逆して、殯もせず即日埋葬したと書紀にある。実に「異例中の異例」である。崇峻の後に推古女帝が立ったが、稲目の邸宅であったと言われる「豊浦宮」で即位し、603年「小墾田宮」に移られたという。

○ところでこの豊浦宮は、甘樫丘陵の西側にある「向原寺」がその原形と見られているが、向原寺は蘇我氏ゆかりの寺である。小墾田宮はどこにあったのか明確にはなっていない。この頃、飛鳥地方に天皇が代替わりする度に「〇〇宮」を作って王宮が転々としているが、「日本を統一支配する近畿大和政権」と大上段に構える割には、余りにも貧弱すぎるでは無いか。私は「個人の私邸」のように感じた。少なくとも何十年も同一氏族で支配を続けていれば、地域の支配に適した場所に「壮麗な宮殿」を建設するのは「当然」である。この大和政権の「天皇の宮」がコロコロ変わるという一事を持ってしても、大和支配の実情は「部族の緩やかな連合体」というのが実態なのでは、と思う。推古天皇は一応形の上では「連合体代表」であったが、実質的な命令権は「九州王朝の代官・蘇我氏」が持っていたと考えたい。

7、阿毎多利思北孤と裴世清

物部氏は丁未の乱で滅亡したが、この時、一条このみ氏は「九州倭国軍が大和に進駐して来た」としている。587年に倭国アメタリシホコが物部氏を破って河内國を占拠し、「大和に宮を構えた」というのだ。隋の開皇20年(600年)に倭国が使者を送り、妻の名前が「キミ」で太子の名前が「カミタフリ」と記録されている。報告書には「阿蘇山あり・・・」と記されているから、この時は「九州にいた」のは確かだ。さらに大業3年(607年)には使者を送って「日出ずる処の天子、書を云々」という有名な国書を届けた。隋の煬帝は怒ったそうだが、それでも翌年調査のために「裴世清」を日本に送って来た。一行は対馬・壱岐・筑紫とやって来て(今回は「末露國」では無い!)、「また東して秦王国に至る」と書いている。この秦王国とは「豊前国、現在の北九州のこと」だと一条このみ氏は言っている。ここまでは異論は無い。だが彼女は、ここから一行は海岸に出て瀬戸内海をクルーズし、難波の海岸に到着した、とするのだ。私が納得しづらいのは、ここである。

○古代史に出てくる「中国からの使者達の行動」を読んでいて、いつも疑問に思うのが、何で「北九州に到着する道順を長々と」説明しておきながら、次の到着地は「突然前触れもなく大和に上陸する」のか?、という点である。目的地が大阪や奈良であるのなら、途中の周防(=山口)や吉備(=岡山)や播磨(=明石)は一言あっても良さそうなものである。邪馬台国の時にも散々九州に上陸してあちこち回っておいて、最後に女王に会いに来るのは「間をすっ飛ばした大和だ」というのでは、旅程報告書にならないではないか。この「報告書の書き方」という点で、私は裴世清の目的である「タリシホコ」は、当時、大和ではなく「九州にいる」と確信している(まあ、直感だけど)。一条このみ氏の言うように、もしタリシホコが岡本宮(飛鳥板蓋宮・飛鳥浄御原宮などと同じ場所)で裴世清を迎えたとすれば、暗闇峠越えか竹内峠越えかは別として、途中の険しい生駒山脈を越えなければならなくなる。私は昔、夏の暑い盛りに徒歩で竹内峠を越えたことがあったが、あんまり汗が出るので「頂上のケーキ屋」でコーヒーを飲み、涼を取って一休みした記憶がある。裴世清の一行が当時の細い山道を歩いて越えたとすれば、相当な難行であることは間違いないだろう(昔の人は平気だった、という説もある)。一条このみ氏はその点には一切触れてないが、こういう実体験というのは「案外と真実」を反映していることが多い。裴世清は、タリシホコに面会したのは「やっぱり太宰府」だろうと私は思う。

(2)のまとめ

これまでは、大和政権と別の「倭王武の九州王朝」が存在していること。その九州王朝の「筑紫の君磐井」を物部麁鹿火が襲ったこと。継体天皇は大和に入れず、九州王朝側の反撃で倒されたこと。その結果、大和に欽明王朝が登場して、一時的には安定したが次第に形骸化していって、跡目争いが紛糾したこと。そして物部氏が蘇我氏・大和豪族連合軍によって滅亡し、蘇我氏の実質的支配体制が確立したこと。この間、中国との交渉は大和政権とは関係なく、別個に「九州王朝と隋との間」で行われていたこと。以上である。細かい歴史的立証は専門家に譲るとして、日本書紀の「事実と異なる記事」の一部は、意図的に嘘をついていたのではなく、「地名や、その他の似たような名称」にせいで誤解した結果だと私は思っている。大半の事柄は、何とか辻褄を合わせて「九州の事件を大和で起こった事」にしようという意図が感じられた。しかしこれは悪意というよりは、彼らの中にも「九州王朝の存在を認められない事情」というものが何かあったのだろうと推測する。それが何かは、古代史の謎の「最後の最後」に明らかになる、と私は信じている。

(続く)

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