1、土田晃之の「日曜のへそ」
ラジオでよく聞く番組の紹介。ニッポン放送12時からやっている番組だ。土曜日曜はテレビがつまらないので、ほぼ一日ラジオを聞いている。土田の放送はそれほど中身のある番組ではないが、リスナーとの「会話の距離」が近くて、大変聞きやすい。大体のラジオ番組といういうのは出てくるパーソナリティーのテンションがやたらと高く、その割には聴くほどの内容もなくて、場繋ぎにかける曲がまた「チャカチャカ系」だったりするから、聞いてて疲れてしまう。そんな中では、TBSラジオ火曜日の3時頃からやっている「Action!」の尾崎世界観は、聞いてて「ほぉ〜っ」と思ったりすることがあって、いまちょっとお気に入りの番組である。と言っても私のラジオの聞き方は暇な時につけるだけの「ながら聞き」だが、中には思わず聞き入ってしまう面白い番組もあって、ちょっと番組表などを選んで「じっくり聴く」というのも今度やってみようかなと思っている。
それはそうと、土田晃之が番組の中で、コンビニのレシートを「中身を見もしないですぐ捨てる客はイラッとする」という視聴者のメールを取り上げていた。土田は「その気持、わかる〜」と答えていたのだが、これは私はちょっと気になった。私はレシートを渡すのは「あたりまえ」だと思っていたのだが、店員がイラッとするというのは「理由がイマイチ分からない」立場である。まあ私はコンビニでバイトしたことがないので分からないが、マニュアルではどうなっているんだろうか。ストローや箸は「入りますか?」と気を使うのに、レシートは要求しないと、黙って「次のお客様〜」などとスルーされる事があるのは困った問題だ。お金を払えば領収書を出すのは、親切ではなく商取引の一部である。一方、渡された領収書を使うか捨てるかは、客の自由である。使わなければゴミだ。で、お客の利便性を考えて、レジ脇に不要なレシートを捨てる箱が置いてある。ところがこれを「いりもしないレシートを渡してくる店員がウザい」と文句言う客もいるからややこしい。商取引は現物と金銭のやり取りで終了する。どちらも動産だから、所有権は「いま持っている人」ということになる。これが万引の防止の問題にもつながるから、疎かには出来ないのである。
レシートはお客にしてみれば、品物の代金を払っているという「証明書」になるのだ。色々つまらぬことを長々と書いたが、店員はちゃんとレシートを渡して、お客は受け取ったレシートを「お店を出るまで持っている」こと、というのが結論だろう。その後はどうしようと勝手である。だから「レジ横の不要レシート入れ」は、置かない方が理論的には正しい。もし置いているのであれば、「目の前でポイされても、イラッとするはおかしい」のだ。
コンビニの中で商品の袋を開けて中身を出す人が居たら、店員は「代金はお済みですか?」と聞くだろう。その他にもレシートはレジ打ちのチェックとして「お互いに内容を確かめるため」にも必要である。よくスーパーの袋詰カウンタで「レシートを食い入るように眺めているご婦人」を見かけるが、別にレジ打ちスタッフを疑っているわけではなくい。今日買った商品の「単価チェック」をしているのだ。見上げた態度である。私も無収入の年金暮らしをしているのだから、こういう所は見習わなければ、と感じている今日この頃だ。そう考えるとラジオは無料だから、年金老人にはピッタリである。私はアプリは、基本「無料しか入れない」ことにしている。で、改めて本題に戻れば、土田晃之はまあそれほど面白くない。ランクは「中の中」といったところである(あくまで個人的感想です)。なお、家電の説明は流石にポイントを的確に抑えていて感心する。来週も聞くつもりだから、結構面白いと言ってもいいかも。
5、久米宏の「ラジオなんですけど」
次は土田とは大いに違って、毎週楽しみに聞いているのがこの番組である。といっても中身は他愛もない駄話で、軽快な久米宏のお喋りも「歳のせいか滑舌が怪しくなって」いて、そろそろ限界かなとは思っている。まあ久米宏ということで、ご愛嬌の範囲だが。今週はチョコレート業界では抜群な知名度を誇る、高名な GODIVA の社長ジェローム・シュションとの対談である。
実は、日本の GODIVA はベルギーの本社から何とかという投資会社に売却されていて、今は「全く別の会社」になっているという。知らなかった。まあ味の方は、今まで通りの GODIVA のままでやっているというから安心だが、この会社「売却されてから売上がうなぎ登りに上がっている」というから何ともウハウハである。こないだテレビでやっていた「名古屋のチョコレートの祭典」などにも出店していて、チョコレートは GODIVA だ、という程のトップブランドになっている。
この社長の販売戦略が「消費者のニーズを的確に捉える」ことだと言うのだ。これは当然のことであるが、その方法が斬新なのである。それは先ず、味については絶対の自信があるということであるが、これは言わずもがなという事にしておく。その次に「それをどう買わせるか」という問題になる訳であるが、その時「消費者が買いやすい環境を揃える」ことだ、と思いついたのが、今回のテーマである。今までは有名デパートなどにしか置いてなくて、食べたい時にすぐ買えなかったのである。しかしそれは「高級チョコレートというステータス」を高めるための戦略ではないのか?
社長は逆転の発想から、それを「コンビニに置く」戦略をとった。勿論社内で喧々諤々の議論が巻き起こったのは当然である。それでも「社長の鶴の一声」で無理やり押し通し、結果現在の大発展をもたらしたという訳だ。特別な場所でなければ買えないというのはステータスになるが、それは「中々手に入らない」という「味以外の要因」が支えている戦略である。GODIVA は十分味で勝負できると踏んだから、ステータスはむしろ「味そのもの」で十分と踏んだのだろう。高級とか入手困難とかいうのは、決して「美味しい」ことと同義ではない。それに「手に入りにくい」というのはすなわち、「そんなに売上も上がらない」のだ。
いつでもコンビニで買える商品だからこそ、味が良ければ「爆発的に売れる」と社長は考えた。この社長の戦略が見事に当たって大発展に結びついたのである。で、高級チョコレートというステータが落ちたかと言うと、実はそれ程でもない。金持ちのお洒落な奥様方が贈答用に購入するイメージは流石になくなったが、そもそもチョコレート菓子という物自体が女子中学生から老年の甘い物好きの紳士に至るまで、常に身の回りに置いておきたい「日常品」と考えれば、正当な進化と言える。もしかしたら消費者層が富裕層から若者に変化しているかもしれないが、そこは久米宏は突っ込まなかった。販売市場的には大きな決断であり、そこはハッキリさせて置きたいところである。まあ社長の成功体験というものは、難しいところは端折って話するものだろう。
それにこの社長、なんと「弓道5段」でもあるそうだ。そこから弓道の話になって、弓道の極意に話題が及び、段位判者となる上級者にとっては「精神を乱さず正射すれば、的に当たるかどうかは見なくてもわかる」と言う。社長もまた精神を乱さず射ることに苦労したそうだ。まあ話自体は日本武道固有の精神論だから大したことはない当たり前のことを言っているだけだが、ゴルフでも「余計なことを考えると、スイングが乱れる」わけで、一つの真実ではある。が、この当たり前の真理が GODIVA の売上爆発にどう貢献したのかは、大して「関係なかった」というのが真実だと私は思っている。大体、「何が正射なのか」が分からないのがビジネスだから、社長の理論は後付だろう。
話はチョコレートに戻って、私は「誰にでも手に入って尚且、最高の味という考え」は素晴らしいと感服した。それが出来れば、消費者にとって最高である。日本酒でも「写楽」とか「十四代」とか「飛露喜」とかの、入手困難な銘酒がいっぱいあるが評判だけが高くて、実物を買おうにもバカ高いのがとっても困る。出来たらコンビニでも売ってもらえたら最高なのになぁと思ったりもしたが、一升瓶でン万円するんじゃコンビニでは置けないわけだ。入手困難な酒だから「手に入った時にはラッキー!」というのではなく、こんな旨い酒が「いつでも買える」ってのが本当だと思うが。
とまあ、久米宏はじっくり聞くとそれなりに面白い。だから毎週欠かさず聞いている。酒については、大量生産できないからしょうがないから特定の店に卸すのは仕方ないのだけど、「写楽」飲んでみたいよねぇ、ホント。というか、通販では金出せばいくらでもあるってんだから、庶民は泣くしか無いのだよ。万事は金次第なのか・・・ああ、無念!
6、聞く力
私は生まれてこの方、ずっと「ダメだな」といった否定的な評価を受けずに過ごしてきた恵まれた人生である。小学校から大学まで勉強はそこそこ出来たから、親からガミガミ勉強しろと言われたこともなかったし、言わば「ポーっとしたまま」人生に挫折することもなく大学を卒業した。いざ社会人になる時も、なにか特に夢などがあったわけではなく、社員30人くらいの「名もない小さい会社」に入ったのである。それでも親は何も言わなかった。というか、元々何も言わない親だったのである。良かったのか悪かったのか。
勿論、時代背景がバブル絶頂に向かって右肩上がりに成長していて、出世路線からドロップアウトするのが「若者に流行りの正義感」でもあり、ヒッピー全盛というのも影響があったろう。私自身お金に困ったことはなく、お金を稼ぐことには全く関心がなかったのである。会社に入ってたころは営業には向いてなくて成績はビリのままだったが、ある時「事務」に回されると「俄然能力を発揮」して周りから高い評価が集まり、自分でもやる気がドンドン出てきて「人生絶頂の黄金時代」を味わった。といっても本人には全く実感がないが、今にして思えば「苦労無し」のサラリーマン生活を満喫していたのである。
さらに30代で、趣味からパソコンを独学で勉強し、請求書などをプログラムするようになってからは「時代の要請」にマッチして一気に花が咲き、そのころは仕事をやっていても「天馬荒野を行く」の感があったことは、自分でも不思議な高揚感であった。やることなすこと自由自在だったと言える。つまり、私の人生はどっちかと言えば、「成功体験しかなかった」のだ(ちょっと不遜に感じる方がおられることは自覚しています)。まあ、お金の面では、マンションと車のローン返済がダブルで重なった頃が一番苦しかったが、両親が亡くなってマンションを手放して借金を全額返済、最後に車も売り払って無借金生活になってから「生活が一気に楽」になった。
それで趣味に没頭する生活を始めて、ゴルフや読書やステレオシステムなどに熱中した。そんな有頂天の生活も65才になった途端に「脳梗塞」になり、とうとうリハビリ生活を余儀なくされて今に至っている。しかし振り返ってみれば、それまで仕事的には「一度も悩んだことがない」順風満帆の日々であった。というか、当然悩みはあったのだろうが、実際は「すぐ自力で解決し」、後々引きずらなかったのが結果としては、記憶に残っていなかったと言える。勿論、収入や出世には無関心であったのは言うまでもない。思うがままの人生だと思っているが、むしろ「欲がなかった」と言えば、そうかも知れない。
で、これからが本題だが、私は自分を普通の人間だと思っていたのだが、最近になって「実は自分には聞く力が無い」と思うようになった。自分が思いついて言おうと思ったことについては一生懸命説明し、それについて能力不足を感じたことは一度もないのだが、考えてみれば「聞くこと」については「全く能力ゼロ」だとハタと思い知ったわけである。
そう言えば思い当たることが人生にいくつもあった。何か人間関係で行き違いがあり、疎遠になってしばらくしたら「あれはそういう意味だったのか」と気がつくことが、思えば結構ある。勿論、何で相手の態度が急変したのか、気が付かないことも「それ以上に」あるのだが。特に女性の気持ちというのは、私には分かりづらかった。これは聞く力と言うよりは「共感力」というものだろうと今は考えている。若い女の子が「わかる〜!」とはしゃいでいるのも、きっとこれである。これが私には「根本的に欠如」しているのだ。相手の話から、困っているという問題点を浮き立たせて解決する「事務的能力」には長けていると自負する私だが、困っている「当の本人と同調する能力」は、全くゼロである。というか私の習性として、人間の心の葛藤の問題を「物理的科学的問題に還元して考えてしまう」のだと思う。何かの問題を抱えている人から話を聞いている時に、「悩んでいる相手の気持ち」を全く考慮していない、ということだろう。これでは人間関係など作れるはずがない。
昔のことだが、ある時「つれない女性」に私がダメな理由を思いつくまま10コほど書き出して、「この中に正解があるかどうか」手紙を書いたことがあった。私は真剣だったが、返事は当然だが「無かった」。これなどは、恋愛が上手く行かない理由なんて、「聞くほうがどうかしている」と今にすれば思う。だが私は当時、すべからく「意思決定には理由がある」と思っていたし、その理由を相手に伝えるのは当然だと思っていたのだ。まあ、若かったとも言える。
その理由はいまだに不明だが、理由がわからないほうが「その人のためになると思っている人」も世の中にはいる、ということだけは覚えた(私はそうは思わないが」。これは癌告知の問題と一緒で、何の病気で死ぬのか「知らないほうが本人のため」というのと同じである。失恋の理由を「本人からはっきり言われて」心が破れたとしても、いつか立ち直る術はあるだろう。それと「何が何だか分からずに、苦しみの中で時間が立って忘れる」のと、どっちが良いかと言えば人にもよるが、私は「白黒はっきり片を付ける」方が好きである。
世の中には解決できない問題は無い、というのが私の昔からのモットーだった(金がない、というのは別)。勿論、自分の良い方に持っていくのではなく、良くも悪くも「決着をつける」という意味だが、突き詰めてみれば相手に本当の理由を言わないのは、女性の側の「自己防衛」である。話が恋愛の方にいってしまったが要するに、「聞く力」というのはコミュニケーション能力の根幹をなすものだ、という話だ。
この「聞く力」、ただ相槌を打ってニコニコしてれば良いという話ではないような気がする。相手の話に興味を持ち、さらには喋っている相手に興味を持ち、要すれば「相手という人間」に興味を持っていることを「相手に伝え」なければ、会話にはならないと私は考えた。つまり、同じ問題について訴えを聞くとしても、AさんとBさんでは「全く答えが違う」のだ。これを理解しないとコミュニケーション力はアップしない。私は今まではAさんもBも、同じ答えを返していた。そう、共感力が無かったのである。私が社会で孤立しているのは「この共感力の欠如」によるのは明らかだから、これからはこの「聞く力を爆上げ」する方法を研究してみようと思う。
そこで今日、高島屋新館のくまざわ書店に行ってみた。店員に聞くと、いま「当店には置いてありません。お取り寄せ致しますが・・」と言われたので、いつものようにすぐ断った。今は本屋で旧刊を探すのは無理なのだ。本当はここは一発「練習」と割り切って、女性店員などに「聞く力・共感力」に関する「お勧めの本」か何か、色々聞いてみるべきなのだ。そうすれば会話が生まれて、楽しい時間が過ごせたのである。どうも私は自分勝手で、そもそも「共感力が全然ない」ことが露呈してしまった。柏図書館の署名検索でも在庫なしだったので、買わざるを得ないのだ。やっぱアマゾンで注文しよう。
題名は東山紘久著「プロカウンセラーの聞く技術」である。ちなみに杉原保史の「プロカウンセラーの共感の技術」とは、題名が紛らわしいが内容がやや病理的で全く関係はないのでご注意を。私は、本屋に行った時に目当ての本がない場合、有りがちだが「買うつもりのない本」を買ってしまう癖がある。それは、関裕二著「古代史謎解き入門」880円である。本当はこの著者、本を出す度に題名を「〇〇の謎」とかつける癖があって、全く「信用ならない」人なのだが、まあ謎を網羅している入門書としては暇つぶしには丁度いいかな、と思ったので買ってしまった。またこれで、今年も読む本より買うほうが多くなってしまう。いつものことだが、本は私には「毒」である。つまり、「つんどく」という毒だが・・・。ああ、これじゃあ「共感力もへったくれも無い」!。実に、くだらない駄洒落だ、全く!
お後がよろしいようで。
ラジオでよく聞く番組の紹介。ニッポン放送12時からやっている番組だ。土曜日曜はテレビがつまらないので、ほぼ一日ラジオを聞いている。土田の放送はそれほど中身のある番組ではないが、リスナーとの「会話の距離」が近くて、大変聞きやすい。大体のラジオ番組といういうのは出てくるパーソナリティーのテンションがやたらと高く、その割には聴くほどの内容もなくて、場繋ぎにかける曲がまた「チャカチャカ系」だったりするから、聞いてて疲れてしまう。そんな中では、TBSラジオ火曜日の3時頃からやっている「Action!」の尾崎世界観は、聞いてて「ほぉ〜っ」と思ったりすることがあって、いまちょっとお気に入りの番組である。と言っても私のラジオの聞き方は暇な時につけるだけの「ながら聞き」だが、中には思わず聞き入ってしまう面白い番組もあって、ちょっと番組表などを選んで「じっくり聴く」というのも今度やってみようかなと思っている。
それはそうと、土田晃之が番組の中で、コンビニのレシートを「中身を見もしないですぐ捨てる客はイラッとする」という視聴者のメールを取り上げていた。土田は「その気持、わかる〜」と答えていたのだが、これは私はちょっと気になった。私はレシートを渡すのは「あたりまえ」だと思っていたのだが、店員がイラッとするというのは「理由がイマイチ分からない」立場である。まあ私はコンビニでバイトしたことがないので分からないが、マニュアルではどうなっているんだろうか。ストローや箸は「入りますか?」と気を使うのに、レシートは要求しないと、黙って「次のお客様〜」などとスルーされる事があるのは困った問題だ。お金を払えば領収書を出すのは、親切ではなく商取引の一部である。一方、渡された領収書を使うか捨てるかは、客の自由である。使わなければゴミだ。で、お客の利便性を考えて、レジ脇に不要なレシートを捨てる箱が置いてある。ところがこれを「いりもしないレシートを渡してくる店員がウザい」と文句言う客もいるからややこしい。商取引は現物と金銭のやり取りで終了する。どちらも動産だから、所有権は「いま持っている人」ということになる。これが万引の防止の問題にもつながるから、疎かには出来ないのである。
レシートはお客にしてみれば、品物の代金を払っているという「証明書」になるのだ。色々つまらぬことを長々と書いたが、店員はちゃんとレシートを渡して、お客は受け取ったレシートを「お店を出るまで持っている」こと、というのが結論だろう。その後はどうしようと勝手である。だから「レジ横の不要レシート入れ」は、置かない方が理論的には正しい。もし置いているのであれば、「目の前でポイされても、イラッとするはおかしい」のだ。
コンビニの中で商品の袋を開けて中身を出す人が居たら、店員は「代金はお済みですか?」と聞くだろう。その他にもレシートはレジ打ちのチェックとして「お互いに内容を確かめるため」にも必要である。よくスーパーの袋詰カウンタで「レシートを食い入るように眺めているご婦人」を見かけるが、別にレジ打ちスタッフを疑っているわけではなくい。今日買った商品の「単価チェック」をしているのだ。見上げた態度である。私も無収入の年金暮らしをしているのだから、こういう所は見習わなければ、と感じている今日この頃だ。そう考えるとラジオは無料だから、年金老人にはピッタリである。私はアプリは、基本「無料しか入れない」ことにしている。で、改めて本題に戻れば、土田晃之はまあそれほど面白くない。ランクは「中の中」といったところである(あくまで個人的感想です)。なお、家電の説明は流石にポイントを的確に抑えていて感心する。来週も聞くつもりだから、結構面白いと言ってもいいかも。
5、久米宏の「ラジオなんですけど」
次は土田とは大いに違って、毎週楽しみに聞いているのがこの番組である。といっても中身は他愛もない駄話で、軽快な久米宏のお喋りも「歳のせいか滑舌が怪しくなって」いて、そろそろ限界かなとは思っている。まあ久米宏ということで、ご愛嬌の範囲だが。今週はチョコレート業界では抜群な知名度を誇る、高名な GODIVA の社長ジェローム・シュションとの対談である。
実は、日本の GODIVA はベルギーの本社から何とかという投資会社に売却されていて、今は「全く別の会社」になっているという。知らなかった。まあ味の方は、今まで通りの GODIVA のままでやっているというから安心だが、この会社「売却されてから売上がうなぎ登りに上がっている」というから何ともウハウハである。こないだテレビでやっていた「名古屋のチョコレートの祭典」などにも出店していて、チョコレートは GODIVA だ、という程のトップブランドになっている。
この社長の販売戦略が「消費者のニーズを的確に捉える」ことだと言うのだ。これは当然のことであるが、その方法が斬新なのである。それは先ず、味については絶対の自信があるということであるが、これは言わずもがなという事にしておく。その次に「それをどう買わせるか」という問題になる訳であるが、その時「消費者が買いやすい環境を揃える」ことだ、と思いついたのが、今回のテーマである。今までは有名デパートなどにしか置いてなくて、食べたい時にすぐ買えなかったのである。しかしそれは「高級チョコレートというステータス」を高めるための戦略ではないのか?
社長は逆転の発想から、それを「コンビニに置く」戦略をとった。勿論社内で喧々諤々の議論が巻き起こったのは当然である。それでも「社長の鶴の一声」で無理やり押し通し、結果現在の大発展をもたらしたという訳だ。特別な場所でなければ買えないというのはステータスになるが、それは「中々手に入らない」という「味以外の要因」が支えている戦略である。GODIVA は十分味で勝負できると踏んだから、ステータスはむしろ「味そのもの」で十分と踏んだのだろう。高級とか入手困難とかいうのは、決して「美味しい」ことと同義ではない。それに「手に入りにくい」というのはすなわち、「そんなに売上も上がらない」のだ。
いつでもコンビニで買える商品だからこそ、味が良ければ「爆発的に売れる」と社長は考えた。この社長の戦略が見事に当たって大発展に結びついたのである。で、高級チョコレートというステータが落ちたかと言うと、実はそれ程でもない。金持ちのお洒落な奥様方が贈答用に購入するイメージは流石になくなったが、そもそもチョコレート菓子という物自体が女子中学生から老年の甘い物好きの紳士に至るまで、常に身の回りに置いておきたい「日常品」と考えれば、正当な進化と言える。もしかしたら消費者層が富裕層から若者に変化しているかもしれないが、そこは久米宏は突っ込まなかった。販売市場的には大きな決断であり、そこはハッキリさせて置きたいところである。まあ社長の成功体験というものは、難しいところは端折って話するものだろう。
それにこの社長、なんと「弓道5段」でもあるそうだ。そこから弓道の話になって、弓道の極意に話題が及び、段位判者となる上級者にとっては「精神を乱さず正射すれば、的に当たるかどうかは見なくてもわかる」と言う。社長もまた精神を乱さず射ることに苦労したそうだ。まあ話自体は日本武道固有の精神論だから大したことはない当たり前のことを言っているだけだが、ゴルフでも「余計なことを考えると、スイングが乱れる」わけで、一つの真実ではある。が、この当たり前の真理が GODIVA の売上爆発にどう貢献したのかは、大して「関係なかった」というのが真実だと私は思っている。大体、「何が正射なのか」が分からないのがビジネスだから、社長の理論は後付だろう。
話はチョコレートに戻って、私は「誰にでも手に入って尚且、最高の味という考え」は素晴らしいと感服した。それが出来れば、消費者にとって最高である。日本酒でも「写楽」とか「十四代」とか「飛露喜」とかの、入手困難な銘酒がいっぱいあるが評判だけが高くて、実物を買おうにもバカ高いのがとっても困る。出来たらコンビニでも売ってもらえたら最高なのになぁと思ったりもしたが、一升瓶でン万円するんじゃコンビニでは置けないわけだ。入手困難な酒だから「手に入った時にはラッキー!」というのではなく、こんな旨い酒が「いつでも買える」ってのが本当だと思うが。
とまあ、久米宏はじっくり聞くとそれなりに面白い。だから毎週欠かさず聞いている。酒については、大量生産できないからしょうがないから特定の店に卸すのは仕方ないのだけど、「写楽」飲んでみたいよねぇ、ホント。というか、通販では金出せばいくらでもあるってんだから、庶民は泣くしか無いのだよ。万事は金次第なのか・・・ああ、無念!
6、聞く力
私は生まれてこの方、ずっと「ダメだな」といった否定的な評価を受けずに過ごしてきた恵まれた人生である。小学校から大学まで勉強はそこそこ出来たから、親からガミガミ勉強しろと言われたこともなかったし、言わば「ポーっとしたまま」人生に挫折することもなく大学を卒業した。いざ社会人になる時も、なにか特に夢などがあったわけではなく、社員30人くらいの「名もない小さい会社」に入ったのである。それでも親は何も言わなかった。というか、元々何も言わない親だったのである。良かったのか悪かったのか。
勿論、時代背景がバブル絶頂に向かって右肩上がりに成長していて、出世路線からドロップアウトするのが「若者に流行りの正義感」でもあり、ヒッピー全盛というのも影響があったろう。私自身お金に困ったことはなく、お金を稼ぐことには全く関心がなかったのである。会社に入ってたころは営業には向いてなくて成績はビリのままだったが、ある時「事務」に回されると「俄然能力を発揮」して周りから高い評価が集まり、自分でもやる気がドンドン出てきて「人生絶頂の黄金時代」を味わった。といっても本人には全く実感がないが、今にして思えば「苦労無し」のサラリーマン生活を満喫していたのである。
さらに30代で、趣味からパソコンを独学で勉強し、請求書などをプログラムするようになってからは「時代の要請」にマッチして一気に花が咲き、そのころは仕事をやっていても「天馬荒野を行く」の感があったことは、自分でも不思議な高揚感であった。やることなすこと自由自在だったと言える。つまり、私の人生はどっちかと言えば、「成功体験しかなかった」のだ(ちょっと不遜に感じる方がおられることは自覚しています)。まあ、お金の面では、マンションと車のローン返済がダブルで重なった頃が一番苦しかったが、両親が亡くなってマンションを手放して借金を全額返済、最後に車も売り払って無借金生活になってから「生活が一気に楽」になった。
それで趣味に没頭する生活を始めて、ゴルフや読書やステレオシステムなどに熱中した。そんな有頂天の生活も65才になった途端に「脳梗塞」になり、とうとうリハビリ生活を余儀なくされて今に至っている。しかし振り返ってみれば、それまで仕事的には「一度も悩んだことがない」順風満帆の日々であった。というか、当然悩みはあったのだろうが、実際は「すぐ自力で解決し」、後々引きずらなかったのが結果としては、記憶に残っていなかったと言える。勿論、収入や出世には無関心であったのは言うまでもない。思うがままの人生だと思っているが、むしろ「欲がなかった」と言えば、そうかも知れない。
で、これからが本題だが、私は自分を普通の人間だと思っていたのだが、最近になって「実は自分には聞く力が無い」と思うようになった。自分が思いついて言おうと思ったことについては一生懸命説明し、それについて能力不足を感じたことは一度もないのだが、考えてみれば「聞くこと」については「全く能力ゼロ」だとハタと思い知ったわけである。
そう言えば思い当たることが人生にいくつもあった。何か人間関係で行き違いがあり、疎遠になってしばらくしたら「あれはそういう意味だったのか」と気がつくことが、思えば結構ある。勿論、何で相手の態度が急変したのか、気が付かないことも「それ以上に」あるのだが。特に女性の気持ちというのは、私には分かりづらかった。これは聞く力と言うよりは「共感力」というものだろうと今は考えている。若い女の子が「わかる〜!」とはしゃいでいるのも、きっとこれである。これが私には「根本的に欠如」しているのだ。相手の話から、困っているという問題点を浮き立たせて解決する「事務的能力」には長けていると自負する私だが、困っている「当の本人と同調する能力」は、全くゼロである。というか私の習性として、人間の心の葛藤の問題を「物理的科学的問題に還元して考えてしまう」のだと思う。何かの問題を抱えている人から話を聞いている時に、「悩んでいる相手の気持ち」を全く考慮していない、ということだろう。これでは人間関係など作れるはずがない。
昔のことだが、ある時「つれない女性」に私がダメな理由を思いつくまま10コほど書き出して、「この中に正解があるかどうか」手紙を書いたことがあった。私は真剣だったが、返事は当然だが「無かった」。これなどは、恋愛が上手く行かない理由なんて、「聞くほうがどうかしている」と今にすれば思う。だが私は当時、すべからく「意思決定には理由がある」と思っていたし、その理由を相手に伝えるのは当然だと思っていたのだ。まあ、若かったとも言える。
その理由はいまだに不明だが、理由がわからないほうが「その人のためになると思っている人」も世の中にはいる、ということだけは覚えた(私はそうは思わないが」。これは癌告知の問題と一緒で、何の病気で死ぬのか「知らないほうが本人のため」というのと同じである。失恋の理由を「本人からはっきり言われて」心が破れたとしても、いつか立ち直る術はあるだろう。それと「何が何だか分からずに、苦しみの中で時間が立って忘れる」のと、どっちが良いかと言えば人にもよるが、私は「白黒はっきり片を付ける」方が好きである。
世の中には解決できない問題は無い、というのが私の昔からのモットーだった(金がない、というのは別)。勿論、自分の良い方に持っていくのではなく、良くも悪くも「決着をつける」という意味だが、突き詰めてみれば相手に本当の理由を言わないのは、女性の側の「自己防衛」である。話が恋愛の方にいってしまったが要するに、「聞く力」というのはコミュニケーション能力の根幹をなすものだ、という話だ。
この「聞く力」、ただ相槌を打ってニコニコしてれば良いという話ではないような気がする。相手の話に興味を持ち、さらには喋っている相手に興味を持ち、要すれば「相手という人間」に興味を持っていることを「相手に伝え」なければ、会話にはならないと私は考えた。つまり、同じ問題について訴えを聞くとしても、AさんとBさんでは「全く答えが違う」のだ。これを理解しないとコミュニケーション力はアップしない。私は今まではAさんもBも、同じ答えを返していた。そう、共感力が無かったのである。私が社会で孤立しているのは「この共感力の欠如」によるのは明らかだから、これからはこの「聞く力を爆上げ」する方法を研究してみようと思う。
そこで今日、高島屋新館のくまざわ書店に行ってみた。店員に聞くと、いま「当店には置いてありません。お取り寄せ致しますが・・」と言われたので、いつものようにすぐ断った。今は本屋で旧刊を探すのは無理なのだ。本当はここは一発「練習」と割り切って、女性店員などに「聞く力・共感力」に関する「お勧めの本」か何か、色々聞いてみるべきなのだ。そうすれば会話が生まれて、楽しい時間が過ごせたのである。どうも私は自分勝手で、そもそも「共感力が全然ない」ことが露呈してしまった。柏図書館の署名検索でも在庫なしだったので、買わざるを得ないのだ。やっぱアマゾンで注文しよう。
題名は東山紘久著「プロカウンセラーの聞く技術」である。ちなみに杉原保史の「プロカウンセラーの共感の技術」とは、題名が紛らわしいが内容がやや病理的で全く関係はないのでご注意を。私は、本屋に行った時に目当ての本がない場合、有りがちだが「買うつもりのない本」を買ってしまう癖がある。それは、関裕二著「古代史謎解き入門」880円である。本当はこの著者、本を出す度に題名を「〇〇の謎」とかつける癖があって、全く「信用ならない」人なのだが、まあ謎を網羅している入門書としては暇つぶしには丁度いいかな、と思ったので買ってしまった。またこれで、今年も読む本より買うほうが多くなってしまう。いつものことだが、本は私には「毒」である。つまり、「つんどく」という毒だが・・・。ああ、これじゃあ「共感力もへったくれも無い」!。実に、くだらない駄洒落だ、全く!
お後がよろしいようで。
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