明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

韓国人の「暴れる客」って、どうなの?

2018-12-14 21:10:58 | 今日の話題
昨日の「TBSひるおび」で、韓国のキレるお客の行動を報じていた。まあ、どこでも起こることではあるが、欧米の店員と比べると日本や韓国の店員は特殊であると思わざるを得ない。つまりこの問題は「お客様は神様です」というフレーズが物語るように、「お客と店員の立場」を根本的に取り違えている、という問題である。私の考える客と店員の関係は「ビジネス」であるべきだと思っている。ではそれを論理的に考えてみよう。

1 私は生活に必要な商品またはサービスをお金と交換して得ている
少なくとも野原で自給自足しているのでない限りは、どこかで助け合わねばならないのが基本的社会生活である。これが分かっていない人間が多すぎるように思う(と言っている私も、いつも考えているとは言い難い)。つまりお互いは持ちつ持たれつの関係なのだ。一方が完璧な人間で、何でも自分で出来てしまう能力高い系の人で、片方が何をやらしても全然出来ないダメ人間、という関係ではない。多少の違いは合っても所詮はお互いを必要としているのである。ただ、代わりはいくらでもいる、という考えはある。だがそれも「お互い様」ではないだろうか。

2 店はそれらのものをお金と交換して提供することで成り立っている
世の中には色々な職業があり人気が合ってお客が絶えない店もあれば、閑古鳥が鳴いている店も当然中にはある。色々合って市場原理の結果、売れない店は淘汰され、必要な店であれば残る。これが市場原理である。

3 だから店は一つの「経済の市場」であり、そこでは市場原理が働く
当然需要と供給が合致して上手く回っていくのが理想だが、人それぞれにやりたいことがあったり、やりたくない環境でも渋々働いたりしていて、一筋縄ではいかない。そこで競争がおこり、より顧客のニーズに合致する店が評判をとり、売れてゆく。店の看板娘が可愛いという「本来提供している商品と関係ない愛想」で、客を引きつける店が出てくるのも仕方がない。要は、商品に大差ない場合は、知っている店で買ってあげたいというのが人情であろう。商店街などでは、これを「仁義という人もある」と聞く。まあ程度問題だが、これもお互い様の関係であろう。商売の成り立ちからすれば、こちらが本筋である。

4 だが店側は商品を提供しているだけで実際に「購買という行動」を起こしているのは客であるから、取引が始まるのは必ず客側からである
お客全員が顔見知りの田舎町ならいざ知らず、大半が見知らぬ人の都会の店では「お客の興味を引く」ことが商売の第一である。広告・宣伝は昔の話で、今はSNSでどれだけ人口に膾炙するかが勝負なのだ。

5 だから客を呼ぶために店側はあれこれ興味が湧くように工夫する
この時点で店は客に来てもらいたいので、自然と丁寧語になる。タメ口の店員より下手に出る丁寧な店のほうが、客も気分が良いのは当然だ。だから客の争奪戦が生まれるのである。結果儲けるのは店なのだから、客が本当に必要なもの「では無い商品・サービス」を提供している店は、どうしたって「低姿勢」になる。これは病院を見れば明らかで、ここでは店を本当に必要としているのは、客なのだ。必要なものであれば、好むと好まざるに関わらず「買う」のである。

6 結局、客は商品と価格とサービスを見比べて納得すれば購入する
客と店員が友達であればラッキーであるが、店の商売とは直接関わりがないので「商品を買う事」には無関係である。これが、人と人の関係をメインに集客するようになると、馴染み客で構成される喫茶店や居酒屋の形態になる。キャバレーやクラブもそうだが、サービスを主な商品にする職業はいつの時代でも危うい。ここでは通常の商品を扱う店での店員と客を想定しているので、一応除外したい。要は商品と価格である。それが納得行くかどうかが全てであろう。その次にロケーションだとか品揃えだとかレジシステムだとか雰囲気だとかが吟味されて、最後に店員が気に入るか入らないか、となる。どちらにしても店員の質というのは、最後にくる部類の「大した要件ではない」のだ。

7 その時点で取引は成立するが、客は様々な理由でキレる(勿論、店側がキレる場合もある)。
ところが大した要件ではないはずの事で大騒ぎになるのだから、韓国は異常である。客の怒り出す条件は多々あるが、かいつまんで要約すれば「俺を客として大事に扱っていない」というのが大半であろう(と思う)。つまりプライドである。だがプライド(自尊心とも言う)が本人の思っているほど尊敬されていないのは、こういう場合明らかである。そもそも難癖つけたり騒ぎ立てたりする人間に、プライド云々言う資格は「全く無い」のだ。プライドというのは「慌てず騒がず」悠然として物事を丸く収めることで評価されるべき「大人の矜持」である。武士は食わねど高楊枝、というのはプライドではない。プライドというのは「実績に裏打ちされた実力」を言う。それを振りかざして自分はもっと「丁重に扱われるべき人間だぞ」と凄んだとしても、それを感じられない人間にしてみれば「ただの馬鹿」である。それが分からないから事件になる。

8 提供した商品が「予測する内容と異なっている場合」はクレームになるが、予測がどの程度正当性があるかで答えは違ってくる
一つは商品の効能が口上通りでなかったという場合。本人は店頭にやって来て、怒り心頭で「ふざけんな!」と大いに息巻いて大暴れするが、今の店舗は大概「取次商品」を売っている。余程のことがない限り、メーカーのホームページかなんかで済ませるべきなのだ。それを店員の首根っこを捕まえて大立ち回りを演じる女性客の姿が映像で流れていたが、店員にしてみれば迷惑この上ない。しかるべき部署の人を呼び出してもらい、別室で話し合うべきである。しかし、この手の客は「衆人監視の目の前で騒ぎたい」のである。つまり「怒りが収まらない」のだ。彼らは、おとなしくて抵抗しない人に向かって、罵詈雑言を並べたてることで「自分が強大な存在なんだ」と感じることが出来るのである。彼らは自分の破壊的な行動に「自分自身が酔っている」と言えるのだ。自分は王である、何者も自分を止めることは出来ない、と。もはや製品の瑕疵など、この手のクレーマーにとっては「どうでも良いこと」になっている。要は、こんな製品を作って売ったお前らは「俺に土下座して謝れ!」、というわけである。「謝るまでは一歩も引かないぞ!」というのが口癖なのだ。もしこんな客に出会ったら、クレーム処理係に相手してもらうのが良いだろう(もちろん、謝りもせず処理を他人に任せる店員の行動に、客は更に怒りまくるであろうが、相手にしない)。処理係かオーナーか分からないがその人が来るまでの間は、客は待たされるわけだ。それでもレジ前で「ごちゃごちゃ文句を言って他のお客の会計などを邪魔した場合」は、警察に来てもらい「引っ張って」いってもらう方がいいだろう。

9 提供した商品が問題ではなく、その提供の「仕方」に問題があるという場合は、「一人の市民」として考え、市場という公共の場でどういう行動を取るかが問われる事になる。この問題では、店・客という立場は「除外して、社会人として判断」するべきなのだ。しかし自分の言い分が正しいと信じ切っているクレーマーは、もう怒りの原因などを議論するつもりもへったくれもなく「怒りまくって」いる間に、いつのまにか「原因など、どうでも良くなっている」場合も多いのだ。こうなると、俺を怒らしたらどうなるか「お前ら分かってんのか?、あーん?」と火の玉になるわけだ。これは対等な社会人同士の判断の行き違いではなく、ただのチンピラの一方的暴力行為に過ぎない。もちろん製品が客に被害を及ぼした場合は、それなりの文句を言われるのは当然であろう。しかし客にウソをついて商品を売りつけようとするような商売は、そもそも社会の中で生き残れないのではないだろうか。商売は「社会生活の助け合いである」という理念から大きく逸脱するようなウソをつく人は、もう、社会の一員ではないからである。言わば、反社会的行為との言えよう。店・客の何れであってもこれは「社会秩序を乱す犯罪」であるから、警察に任せるのが良い。ちなみに商品に無い効能を謳って売りつけるのは「良くて商品品質表示法違反、悪くて詐欺罪」である。

10 結論:客と店の関係は「全く同等」である。買い物をして気分が良くなるのは「気に入った商品を所有するから」であり、店員が客を丁寧に神様扱いをしたからではない。よくアメリカ映画で素っ気ない応対の店員が出てくるが、あれが「正しい応対」なのである。その基本的関係から韓国の暴力クレーマーを見ると、「言われたら言い返してもいい」んではなかろうかとさえ思えるくらいである。物を投げつけられたり殴られたりしたら、店側も正当防衛で殴り返せばいい。というか周りで見ている他の客が「どちらの態度が悪いかを見極めて、暴力行為を止めさせるべき」である。なぜなら店員は助け合い社会の一員であるから、困っているときは助けるのが当たり前である。まあ相手を見てから行動したほうが良いとは思うが、回りの人達から「お前が悪い」と大合唱されれば、大抵は意気消沈して「スゴスゴと退散する」ものである(私の想像)。我々社会人は団結して、こういう半社会的な人物を排除するよう努力しなければいけない。これが本当の「助け合い社会」である。

さて一方、日本のおもてなしは最高と評判が高いが、その真意をよく聞いてみると「客を対等の人ではなく、上位の人として扱ってくれる」というのが多い。対等社会に慣れている欧米から来た人が日本の接客に触れると、素直に驚くらしいが「無理もない」。これ、結局は「自分を強大な人間と勘違いしている人」と、通じるものがあるのではないだろうか。デパートなどで発揮される「お客様は神様」式の応対が、ちょっと「やり過ぎ」の感があるのは私だけではないだろう。私は店員が余りにも馬鹿丁寧な対応をする場合は、むしろ「つっけんどん」な態度に出てしまう場合があるくらいだ。私にはコンビニのアルバイト店員ぐらいが「丁度よい」接客だと思っている。昔、上野の寿司屋で同僚と議論していたら、カウンターの寿司職人が包丁を握りしめて「話ばっかりしやがって、いいかげんにしろ!」と怒鳴ってきたことがあった。また別の居酒屋でも、会社の方針について議論していたら何だか知らないが店員が怒り出してきて、「くっちゃべってばかりで迷惑だから、他に行ってくれ!」と追い出されたことがある。まあ店員がこんな行動に出るのは「余程の事」があったのだろう。他の店に行くのはこっちも困らないので店を出たが、今になって考えると「落ち着き払って店を出た」私達の行動は、実に称賛に値するのではないだろうか(自画自賛)。とはいえ原因は私の方にある(らしい)ので、どっちが悪いかは不明である。これ、昔は「お客様は神様」などということは無かった、という逸話である。要するに、「普段通りの、人間対人間の関係が一番いい」ってことだろうか。普段の「素の人柄」で接すれば、特別に敬語を使わなくても目上・目下の丁寧語で充分である。会社なんかでも「やたらと敬語を使いすぎる」傾向があるから、すこし平常に戻すほうがいいのだ。その点では、アメリカやヨーロッパは「見かけ上、平等」だから、気持ちが良い。第一、「いらっしゃいませ」という煩い言葉がないから良い。ABCマートなんかに行くと、もう「うるさくってうるさくって」閉口するのだが、あれ何とかならないだろうか?。接客の基本は「相談に乗る」事である、・・・だがこれが中々難しい。

長くなったが最後に一言、韓国民族は「やっぱ異常だわ」。

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