今年も恒例の10大ニュースの季節がやってきました。何を選ぶかで今年一年が決まると思えば、大した意味もない作業にも力が入るってものである。真面目な10大ニュースはそこら中でやってるので、個人的なトピックを10個集めてみました。世間的には大ニュースだが個人的には余り関係ないと思われることは鼻っから省いてあるので、心を空にして読んでください。それでは10位から・・・
10 読書に再度目覚める
私の人生は中学時代にPPMなどのフォークの洗礼を受け、卒業の懇親会で仲間とベンチャーズのコピーバンドを結成、その後高校2年まで色々なイベントに参加して「結構時代の先頭を走っていた」若者だった。高校は私が引っ越したせいもあって仲間と分かれ、大学ではオーケストラに所属しクラシック一色の生活を2年まで続けたが、その間に読んだ或る一冊の本が私の人生を変えることになったのだった。それはエッカーマン著の「ゲーテとの対話」である。
子供の頃から森鴎外なんか読んでいた私はもとより素地があったのだが、この時は何か運命的なものを感じていたのかもしれない。その後もゲーテのイタリア紀行などを読みふけって、いっぱしの詩人気取りでマラルメやボードレールにどっぷりと浸り、自分でも猿真似ながらソネットなんかを書きまくっていた「夢多き青春時代」である。同時に「古典」と言うものに何かしら憧れを感じていたのもこの頃からであった。
卒業して会社勤めとなってしばらく忘れていたが30代になって奈良・京都に旅行をしたころから、次第に「古都への憧憬」が沸々と自分の中に湧いてくるようになる。コンピュータも勉強したしピアノも自分流だが練習した。社会人の教養としてゴルフもやり始めて、江戸川の河川敷で毎週末には何百球も打ち込み、スポーツというものに初めてのめり込んだのもこの頃である。同時に英語も勉強し外国語放送などを聴き漁り、車の免許を40歳で取ってからは毎週千葉や茨城へドライブに出かけて、東北一周に行ったり伊豆・箱根の山道の走りを堪能したり、つまり面白そうな事をなんでもやった時代である。
それが年を取って人生の終わりに近づいて、また「読書に戻ってきた」のだ。だが、旅行して古い建物や景観を鑑賞する「歴史好きのようで、実はレジャー好き」ではない私は結局は、「本の世界」の中に楽しみを見出すタイプだったのだ。あちこちの脇道に迷った挙句、ようやく本来の自分に戻ってこれたのには何かの運命を感じずにはいられない。最後は「本に埋もれて生涯を閉じる」なんてのも、私らしくていいかな、と思ったりする今日この頃である。こうなったら真っ正面から王道を行って、来年からガンガン飛ばして行くぞ!
9 ワイヤレスイヤホンのデビューを果たす
音楽の楽しさは「好みの音」に酔いしれるという原始的な喜びにある。我々は気に入ったアーティストの曲を聞いて「やっぱり○○はいいね」などと褒めまくるが実は、そのアーティストの出している「本当の音」を耳で聞いては居ない。スマホに同梱されているオマケのイヤホンを何も疑問に思わないでそのまま使っている会社の同僚に、ある時使ってなかったイヤホンをあげたら「目からうろこ」が落ちたそうだ。
まあ音が段違いに良かったのだから「耳からうろこ」だろうが、以前から聞いている曲が「別物に聞こえた」そうだから相当な違いだったのだろうと推測した。別にそれほどの高級品をあげたわけでもないのに驚きの効果を最大級の感謝の言葉で表した彼の音楽体験が、いかに「その前のイヤホンが酷かったか」という証拠である。もしかしたらステレオにはなっていても「音楽用ではなかったのかも」知れない。同梱イヤホンのレベルとはそんなものである。
私は音楽をよく聞く方なので、スピーカーやヘッドフォンにはお金をかけている。だがヘッドフォンには「接続するためのケーブルが必須」なのだ。昔はそれで何の不満もなかった。だがブルートゥースという技術が出てきてからというもの、どうにも「線が邪魔で仕方がない」。それにスマホからブルートゥースで切り離しても、両耳の間にある線が「首を回すたびに不愉快にまとわりつく」のだ。何とかならないかなと思っていたら、完全ワイヤレスという画期的な商品が登場した。
始まりはiPhoneに付属の「イヤホン」である。何だかんだといちゃもんをつける輩は何時の世にもいるもので、iPhoneの英断にも偉そうにさんざん文句を言っていた。だが1年もたたずに各メーカーから完全ワイヤレスイヤホンが続々出荷されるに及んで、批判していた評論家も貝のように(古いねぇ)黙ってしまった。彼らにはiPhoneの先進性が理解できなかったのだ。
時代の先を行く革新性は、アップルという会社の本質でもある。私はこの、会社というより「スティーブ・ジョブズの見つめた新しい未来」を、もう少し見ていられたらと残念に思えてならない。今も完全ワイヤレスの「自由」を満喫しながら、改めて彼の偉大さを懐かしんでいる。
8 自分の容姿に少し寛容になった
時々鏡をじっと見ることがあるが、もっと笑顔で街を歩こうと思うようになった。口角をあげると表情が明るくなるというのは女性の間では周知の事実だが、これが老人の男にも通じるから不思議である。一体に老人は年を取るに連れて目が小さくなり、表情が衰えて生命の輝きを失ってくるものである。これはこの間なくなった日野原重明氏にも言えることだが、どうしても人間には避けられないことである。そう言えば街を歩いていても楽しそうな老人もいれば、見るからに狷介なしかめっ面の中年の人もいる。人様々であるが、人間の精神というのは特に顔に出るようだ。
翻って自分の顔をまじまじと見て見ると、残念ながら「人を惹きつけるような魅力には欠けている」と認めざるを得ない。何も造作のことを言っているのではない、顔から出ている「生命力」が弱いのだ。人は10代から30代まで成長するに従ってどんどん生命力に磨きがかかってくる。若いうちは「ただ若いというだけ」であるが(それは女性にとっては素晴らしいことではあるが)、もう少し年を重ねて中身の詰まった経験を積んでくると、その人の個性という「味」が出てくるのである。六十の還暦をとっくに過ぎた私くらいの年齢にもなれば、顔や姿から「自然と人を安らかにするオーラ」が出ていてもなんら不思議ではない。
そこで鏡を見ながら「どっしりとして、且つ優雅な雰囲気」を出す表情を練習することにした。結果は芳しくない。当たり前だろう、中身を伴わない深みのある表情なんて「役者でもない限り」無理なのである。そこで自分の容姿には少しばかり寛容になって、なるべく良い点を見つけることにした。その良い点を常日頃意識することによって、自然と「自分というものを愛する」ようになる。人間、愛するものには優しくなるものである。自分の欠点を他人のせいにして、人生を妬み・恨みで一杯にしている人が世間にはどれほどいることか。逆説的だが自分の欠点を許せるようになれば、他人の欠点も同じように許せるに違いない。これが人間の不思議なところではないかと思う。
幕末の志士たちにはこんな考えはないだろうが、今の世の中では一番良い生き方のような気がする。
7 とうとうテレビ離れを決意
今年で脳梗塞発症3年目が過ぎた。回復は順調である。会話も少したどたどしいが意味が通じる程度には出来て、社会生活にも自信が出てきた。最初は病院で寝たきりの状態だったがちょっとずつ動けるようになり、半年で介護施設に移って1年が経ち、去年の夏に柏に引っ越して独立生活を始めるまでになったのだから順調である。発症後5年は注意が必要だが、それを過ぎるとある程度は運動なども、普通にやって大丈夫らしい。あと2年、何事もなければ幸いである。
体が回復するにつれてテレビべったりだった日常が、なんとなく退屈で手持ち無沙汰になってきた。相変わらずテレビは一日中つきっぱなしだが、前ほど面白く無くなってきたのだ。十津川警部ものや赤い霊柩車ものの2時間ドラマはもうほとんど見なくなってしまい、今は爆笑お笑い芸人ものやクイズ物知りスゲーっと言った類も、チャンネルを合わせることは僅かしかない。テレビってこんなに見るものがなかったのかと思うほど、毎日100以上のチャネルでこれでもかというくらいにある番組なのに、押し並べてつまらない時間つぶしのオンパレードである。
毎日仕事でいっぱいいっぱいの生活をしている人からすれば「ほんの息抜き」の時間なのだろうが、暇を弄ぶ老人にしてみれば「命の残り火を照らす」大切な時間なのである。この大切な時間をどのように過ごすか、私には余り時間が残ってはいないのだ。つまり「準備」をしている余裕はない、もう人生の「果実を収穫する」時期なのだ。であるならば、テレビなどの暇つぶしに時間を取られていては「取り返しがつかない」ではないか。では、どうする?
ということで、とりあえずテレビは一日3時間に制限することにした。それも全部録画にして、だらだら見るのをやめることにした。試しにやって見るので結果はお楽しみだが、何よりも「その代わりに何をやるか」が1番の課題である。元から暇だったのに「さらに暇になった」私の日常は、とにかく「一日10ページ」本を読むことと、筋肉を鍛えるために「何かトレーニングする」こと、にした。頭と体、両方を鍛える作戦である。しばらく続けて習慣が付いてきたら、その時点で改めて「新メニュー」を考えても良いのでないか。とにかくスタートすることである。
6 NBAでティンバーウルブスが大躍進
とうとうウルブスにもプレーオフも見えてきた。喜ばしい限りである。一方、松山がメジャーに後一歩で惜しくも負けるというドキドキの試合を見せてくれたし、大谷がいよいよエンゼルスに入団してメジャー・デビューすることになった。日ハムの栗山監督は、若手を育てて伸ばす監督である。バドミントンや卓球でも日本人が大活躍し、スキージャンプでも世界で1位2位と不動の活躍を見せてくれているのは頼もしい。
これほど多くのスポーツ分野で、日本人が世界の中心にいる年は余り記憶が無いだろう。ただ女子の躍進に対して男子はやや見劣りがするのは仕方ないのだろうか。ゴルフでも松山が何とかベストテンに食らいついているが、それは彼の類まれな技術とそれを支えるハードな練習の賜物である。同じように練習していても、石川はなかなか力が発揮できずに苦しんでるみたいだ。松山は体格も180cmと欧米の選手に引けを取らないのは、ゴルフというスポーツが体格に依存する度合いが高い競技だと言えないこともない。
が、マキロイは175cmながら350ヤードも飛ばしている。これは単に体格だけにとどまらず、「筋肉や骨格」と言った面で大きく異なる「人種の壁」があるように私には思えてならないのだ。例えばバスケットは跳躍力の勝負である。NBAを見渡せば、スタープレイヤーは皆黒人ばかりの「人種が優位」なスポーツだということは明らかなのだ。3ポイントが僅かに人種の差を埋めているがそれでも「飛べない白人」という言葉があるように、基礎体力の違いは技術以上に絶対的なのである。
ヨーロッパ出身のプレイヤーが「頭脳的なプレー」でその流れに食い込んでいるのは、白人側のささやかな抵抗だろう。私も脳梗塞で右手が麻痺して以来、腕力の無さが飛距離の差となって、練習場でもその「どうしようもない落差」を骨身にしみて感じている毎日である。だが情けない自分のことをグチグチ悩んでいても状況は変わらない。ここは黒人白人の人種を超えて、素直に「人間の運動能力の限界」を突破するスーパープレーを楽しもうではないか。
ケビン・ガーネット時代以来の強いウルブスが戻ってきた今年こそは、プレーオフはもちろんのこと、チャンピオンだって決して夢ではないのだ。彼らは若いし失うものは何もないのだから、猪突猛進で1位を目指して突き進んで欲しいね。欲張りすぎだって?
じゃあ、とりあえず西カンファレンスで4位以内を目指そうじゃないか。
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ひとまず10位から6位まで。後はまた続きを待っていてください。
10 読書に再度目覚める
私の人生は中学時代にPPMなどのフォークの洗礼を受け、卒業の懇親会で仲間とベンチャーズのコピーバンドを結成、その後高校2年まで色々なイベントに参加して「結構時代の先頭を走っていた」若者だった。高校は私が引っ越したせいもあって仲間と分かれ、大学ではオーケストラに所属しクラシック一色の生活を2年まで続けたが、その間に読んだ或る一冊の本が私の人生を変えることになったのだった。それはエッカーマン著の「ゲーテとの対話」である。
子供の頃から森鴎外なんか読んでいた私はもとより素地があったのだが、この時は何か運命的なものを感じていたのかもしれない。その後もゲーテのイタリア紀行などを読みふけって、いっぱしの詩人気取りでマラルメやボードレールにどっぷりと浸り、自分でも猿真似ながらソネットなんかを書きまくっていた「夢多き青春時代」である。同時に「古典」と言うものに何かしら憧れを感じていたのもこの頃からであった。
卒業して会社勤めとなってしばらく忘れていたが30代になって奈良・京都に旅行をしたころから、次第に「古都への憧憬」が沸々と自分の中に湧いてくるようになる。コンピュータも勉強したしピアノも自分流だが練習した。社会人の教養としてゴルフもやり始めて、江戸川の河川敷で毎週末には何百球も打ち込み、スポーツというものに初めてのめり込んだのもこの頃である。同時に英語も勉強し外国語放送などを聴き漁り、車の免許を40歳で取ってからは毎週千葉や茨城へドライブに出かけて、東北一周に行ったり伊豆・箱根の山道の走りを堪能したり、つまり面白そうな事をなんでもやった時代である。
それが年を取って人生の終わりに近づいて、また「読書に戻ってきた」のだ。だが、旅行して古い建物や景観を鑑賞する「歴史好きのようで、実はレジャー好き」ではない私は結局は、「本の世界」の中に楽しみを見出すタイプだったのだ。あちこちの脇道に迷った挙句、ようやく本来の自分に戻ってこれたのには何かの運命を感じずにはいられない。最後は「本に埋もれて生涯を閉じる」なんてのも、私らしくていいかな、と思ったりする今日この頃である。こうなったら真っ正面から王道を行って、来年からガンガン飛ばして行くぞ!
9 ワイヤレスイヤホンのデビューを果たす
音楽の楽しさは「好みの音」に酔いしれるという原始的な喜びにある。我々は気に入ったアーティストの曲を聞いて「やっぱり○○はいいね」などと褒めまくるが実は、そのアーティストの出している「本当の音」を耳で聞いては居ない。スマホに同梱されているオマケのイヤホンを何も疑問に思わないでそのまま使っている会社の同僚に、ある時使ってなかったイヤホンをあげたら「目からうろこ」が落ちたそうだ。
まあ音が段違いに良かったのだから「耳からうろこ」だろうが、以前から聞いている曲が「別物に聞こえた」そうだから相当な違いだったのだろうと推測した。別にそれほどの高級品をあげたわけでもないのに驚きの効果を最大級の感謝の言葉で表した彼の音楽体験が、いかに「その前のイヤホンが酷かったか」という証拠である。もしかしたらステレオにはなっていても「音楽用ではなかったのかも」知れない。同梱イヤホンのレベルとはそんなものである。
私は音楽をよく聞く方なので、スピーカーやヘッドフォンにはお金をかけている。だがヘッドフォンには「接続するためのケーブルが必須」なのだ。昔はそれで何の不満もなかった。だがブルートゥースという技術が出てきてからというもの、どうにも「線が邪魔で仕方がない」。それにスマホからブルートゥースで切り離しても、両耳の間にある線が「首を回すたびに不愉快にまとわりつく」のだ。何とかならないかなと思っていたら、完全ワイヤレスという画期的な商品が登場した。
始まりはiPhoneに付属の「イヤホン」である。何だかんだといちゃもんをつける輩は何時の世にもいるもので、iPhoneの英断にも偉そうにさんざん文句を言っていた。だが1年もたたずに各メーカーから完全ワイヤレスイヤホンが続々出荷されるに及んで、批判していた評論家も貝のように(古いねぇ)黙ってしまった。彼らにはiPhoneの先進性が理解できなかったのだ。
時代の先を行く革新性は、アップルという会社の本質でもある。私はこの、会社というより「スティーブ・ジョブズの見つめた新しい未来」を、もう少し見ていられたらと残念に思えてならない。今も完全ワイヤレスの「自由」を満喫しながら、改めて彼の偉大さを懐かしんでいる。
8 自分の容姿に少し寛容になった
時々鏡をじっと見ることがあるが、もっと笑顔で街を歩こうと思うようになった。口角をあげると表情が明るくなるというのは女性の間では周知の事実だが、これが老人の男にも通じるから不思議である。一体に老人は年を取るに連れて目が小さくなり、表情が衰えて生命の輝きを失ってくるものである。これはこの間なくなった日野原重明氏にも言えることだが、どうしても人間には避けられないことである。そう言えば街を歩いていても楽しそうな老人もいれば、見るからに狷介なしかめっ面の中年の人もいる。人様々であるが、人間の精神というのは特に顔に出るようだ。
翻って自分の顔をまじまじと見て見ると、残念ながら「人を惹きつけるような魅力には欠けている」と認めざるを得ない。何も造作のことを言っているのではない、顔から出ている「生命力」が弱いのだ。人は10代から30代まで成長するに従ってどんどん生命力に磨きがかかってくる。若いうちは「ただ若いというだけ」であるが(それは女性にとっては素晴らしいことではあるが)、もう少し年を重ねて中身の詰まった経験を積んでくると、その人の個性という「味」が出てくるのである。六十の還暦をとっくに過ぎた私くらいの年齢にもなれば、顔や姿から「自然と人を安らかにするオーラ」が出ていてもなんら不思議ではない。
そこで鏡を見ながら「どっしりとして、且つ優雅な雰囲気」を出す表情を練習することにした。結果は芳しくない。当たり前だろう、中身を伴わない深みのある表情なんて「役者でもない限り」無理なのである。そこで自分の容姿には少しばかり寛容になって、なるべく良い点を見つけることにした。その良い点を常日頃意識することによって、自然と「自分というものを愛する」ようになる。人間、愛するものには優しくなるものである。自分の欠点を他人のせいにして、人生を妬み・恨みで一杯にしている人が世間にはどれほどいることか。逆説的だが自分の欠点を許せるようになれば、他人の欠点も同じように許せるに違いない。これが人間の不思議なところではないかと思う。
幕末の志士たちにはこんな考えはないだろうが、今の世の中では一番良い生き方のような気がする。
7 とうとうテレビ離れを決意
今年で脳梗塞発症3年目が過ぎた。回復は順調である。会話も少したどたどしいが意味が通じる程度には出来て、社会生活にも自信が出てきた。最初は病院で寝たきりの状態だったがちょっとずつ動けるようになり、半年で介護施設に移って1年が経ち、去年の夏に柏に引っ越して独立生活を始めるまでになったのだから順調である。発症後5年は注意が必要だが、それを過ぎるとある程度は運動なども、普通にやって大丈夫らしい。あと2年、何事もなければ幸いである。
体が回復するにつれてテレビべったりだった日常が、なんとなく退屈で手持ち無沙汰になってきた。相変わらずテレビは一日中つきっぱなしだが、前ほど面白く無くなってきたのだ。十津川警部ものや赤い霊柩車ものの2時間ドラマはもうほとんど見なくなってしまい、今は爆笑お笑い芸人ものやクイズ物知りスゲーっと言った類も、チャンネルを合わせることは僅かしかない。テレビってこんなに見るものがなかったのかと思うほど、毎日100以上のチャネルでこれでもかというくらいにある番組なのに、押し並べてつまらない時間つぶしのオンパレードである。
毎日仕事でいっぱいいっぱいの生活をしている人からすれば「ほんの息抜き」の時間なのだろうが、暇を弄ぶ老人にしてみれば「命の残り火を照らす」大切な時間なのである。この大切な時間をどのように過ごすか、私には余り時間が残ってはいないのだ。つまり「準備」をしている余裕はない、もう人生の「果実を収穫する」時期なのだ。であるならば、テレビなどの暇つぶしに時間を取られていては「取り返しがつかない」ではないか。では、どうする?
ということで、とりあえずテレビは一日3時間に制限することにした。それも全部録画にして、だらだら見るのをやめることにした。試しにやって見るので結果はお楽しみだが、何よりも「その代わりに何をやるか」が1番の課題である。元から暇だったのに「さらに暇になった」私の日常は、とにかく「一日10ページ」本を読むことと、筋肉を鍛えるために「何かトレーニングする」こと、にした。頭と体、両方を鍛える作戦である。しばらく続けて習慣が付いてきたら、その時点で改めて「新メニュー」を考えても良いのでないか。とにかくスタートすることである。
6 NBAでティンバーウルブスが大躍進
とうとうウルブスにもプレーオフも見えてきた。喜ばしい限りである。一方、松山がメジャーに後一歩で惜しくも負けるというドキドキの試合を見せてくれたし、大谷がいよいよエンゼルスに入団してメジャー・デビューすることになった。日ハムの栗山監督は、若手を育てて伸ばす監督である。バドミントンや卓球でも日本人が大活躍し、スキージャンプでも世界で1位2位と不動の活躍を見せてくれているのは頼もしい。
これほど多くのスポーツ分野で、日本人が世界の中心にいる年は余り記憶が無いだろう。ただ女子の躍進に対して男子はやや見劣りがするのは仕方ないのだろうか。ゴルフでも松山が何とかベストテンに食らいついているが、それは彼の類まれな技術とそれを支えるハードな練習の賜物である。同じように練習していても、石川はなかなか力が発揮できずに苦しんでるみたいだ。松山は体格も180cmと欧米の選手に引けを取らないのは、ゴルフというスポーツが体格に依存する度合いが高い競技だと言えないこともない。
が、マキロイは175cmながら350ヤードも飛ばしている。これは単に体格だけにとどまらず、「筋肉や骨格」と言った面で大きく異なる「人種の壁」があるように私には思えてならないのだ。例えばバスケットは跳躍力の勝負である。NBAを見渡せば、スタープレイヤーは皆黒人ばかりの「人種が優位」なスポーツだということは明らかなのだ。3ポイントが僅かに人種の差を埋めているがそれでも「飛べない白人」という言葉があるように、基礎体力の違いは技術以上に絶対的なのである。
ヨーロッパ出身のプレイヤーが「頭脳的なプレー」でその流れに食い込んでいるのは、白人側のささやかな抵抗だろう。私も脳梗塞で右手が麻痺して以来、腕力の無さが飛距離の差となって、練習場でもその「どうしようもない落差」を骨身にしみて感じている毎日である。だが情けない自分のことをグチグチ悩んでいても状況は変わらない。ここは黒人白人の人種を超えて、素直に「人間の運動能力の限界」を突破するスーパープレーを楽しもうではないか。
ケビン・ガーネット時代以来の強いウルブスが戻ってきた今年こそは、プレーオフはもちろんのこと、チャンピオンだって決して夢ではないのだ。彼らは若いし失うものは何もないのだから、猪突猛進で1位を目指して突き進んで欲しいね。欲張りすぎだって?
じゃあ、とりあえず西カンファレンスで4位以内を目指そうじゃないか。
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