明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ガラケーに固執する男達

2017-12-22 21:30:00 | 科学・デジタル
こないだ恒例の忘年会で小学校からの友人と久し振りに集まった。と言ってもゴルフ仲間で毎月どこかのコースに行っていた仲間である。それに一人加わって5人で飲んだ。場所は浅草橋の中華料理店で境雲閣という小さい店である。店は汚いが食べ物の味はなかなか美味い。色々話が出て楽しく時間を過ごしたが、話の中身はどうでも良い。が一つ、「スマホかガラケー」の話題で盛り上がったので暇つぶしにこれを今回取り上げてみたい。

ご多分に漏れず、我々の仲間でもガラケー愛用者が40%いた。と言っても5人のうちのたった2人だが、結構二人は強硬である。スマホ派のS・N氏が言うには、「LINEの利便性は現代のコミュニケーションには不可欠」という主張である。メンバーに連絡する時に誰か一人がガラケーに固執していると、その人のためにわざわざ別メールを送らなきゃならなくなって仕事が増える、と力説した。もっともである。

普通は「そうだよね」で片付くのだが、そこはオジサンの集団だから言うことを聞かない。「俺は困っていない」と異口同音に2人は言う。そりゃぁそうだろう、困るってのは「いつも使っている機能が使えなくなる」ってことだから、二人はそもそも「ハナっから」使ってないのである。そう言う困った事態になってないだけなのに、さも使ってない人間が偉いとでも言うようにすら聞こえる。この一言で、ガラケーからスマホに乗り換えるというのがいかにハードルが高いのかということをまざまざと知った。彼らがスマホを使いこなせないほど事務能力に難がある、とは思えないからだ。

だが使う予定もない高度な機能をぎっしり詰め込んだ最新スマホを扱えるようになるために「新たに勉強する」なんて難行苦行は、この二人にはとてもじゃないがやる気もないし根気もないのである。いまさら流行に遅れまいとする見栄だけでスマホを選んで「結局駄目だった」と自分の非力を露呈することだけは避けたい、という老人らしい先回りした自尊心の現れが、先程の言い訳じみた言葉なのだろう。惨めだ。

それなら「どうもスマホは苦手でね」いって、この手の「ゲーム機は性に合わない」とあっさり自白したほうがまだ可愛げがある。勿論だからといってガラケーを愛用する老人を擁護する気は、私には毛頭ない。結局彼らは時代の流れから取り残された「悲しき落ちこぼれ」なのだ。それは本人が一番わかっている。分かってはいるが「それを認めたくないだけ」なのだ。年寄りの精一杯のカッコつけである。さらに惨めだ。

私はブラックベリーのKEYoneというハードキーボード付きの最新スマホを愛用している。私はブログを書く都合上、普通の「フリック入力」では年齢からミスタッチが多くて使えないのだ(皮膚の水分量が少なくて電気信号が不安定なのである)。そういえば会社入り口の指紋認証もなかなか認識してくれないのは年のせいだろうか。ガラケーの10KEYで文章を打つなど考えただけでも「気が遠くなる」ので、そもそもガラケーなぞ選択肢にも浮かんでこない話だ。

そう言う特殊な例は別としても、ガラケーで十分だと言う人達は「パソコンもロクに使えてない」ことは、はっきり言っておきたい。この手の人達はメールも殆ど活用しないで、大抵の用事を「電話で済ませている」連中なのである。これを最近の言葉では「電話野郎!」と呼ぶそうな。つまり相手の都合などお構いなしに電話してくる人種のことを「こう呼んでいる」のである。まあ私もLINEで「どうでも良いい会話を仲間と楽しむ」のは余り好きではない。

だが正直に言わせてもらえば、ガラケーがスマホより「使い易いだとか料金が安いだとか言う」オヤジの頭はどう贔屓目に見ても「オタンコナス」ではないか。こういう人に限って満員電車の中で「デカイ声で電話しまくる」、近所迷惑な恥ずかしい人ではないだろうか。ガラケー信奉者の2人のうち1人(S・Y氏)は自分がガラケーを使っていることにちょっと 気後れしているみたいだが、もう一人のK・I氏の方は「明らかにガラケーを使っていることに偏屈な理屈をつけて自慢している頭がおかしい人」のようである。

彼は何でも話がこじれると「ばかやろー」を連発するような「自分のことしか話が出来ないタイプのわからず屋」なのだが、去年・一昨年と2回の忘年会での大立ち回りのせいで誰からも相手にされなくなった経験から学んだのか、「この話はやめよう」と言って自分から話題を変えるという大人の対応を見せたのには驚いた。べつに普通に話せば答えがはっきりして決着がつく話なのだが、それが彼にとっては受け入れがたいことだったのだろう。私も無理やり決着をつけるほどでもなかったので話題を変えこの話はうやむやになったが、私達スマホ派の三人は内心「答えは出たな」と感じていた。所詮喧嘩になる程の話ではないのだ。

今の若い子達にしてみれば生まれた時から電話は「スマホ」であり、わざわざ「ガラケー」を選ぶ理由がドコをどう探しても「ない」のである。この二人も、もし後生大事に昔から使っている「なけなしのガラケー」を壊しでもした時には、新しく買う電話機は「スマホ」にするのだろうか。それとも残り少なくなって「形だけガラケーで中身はスマホ」というメーカーの戦略に乗っかった新しいモデルにして、外見上は何とか体裁を保つのだろうか。一度そう言う目にでもあって仕方なくスマホを使い始めて案外新しい機能が便利だと気づいた場合、彼らが「どう自分の持論と折り合いをつける」のか今から楽しみである。

大体いつまでガラケーを使い続けるのか、もう「意地でも」ガラケーを使うぞ!って根性がミエミエなのだ。何時の時代にもこの手の人間が必ず居るものである。ついていけないものには色々あって、どんなに素晴らしい才能があっても「ある種のことに拒否反応があったり、どうしても新しい操作方法が覚えられなかったりして」時代に取り残されてしまう人は居るものである。だからといって、それが人間の評価になるわけではない。人間は誰しも一つや二つの弱点がある。ちょっと弱点があったくらいの人間のほうが、親しみが湧くってぇもんだ。だから素直にその弱点を認めることが、相手にとっても本人にとっても「問題を軽くする」のである。S・N氏も私の指摘を受けて「そうだな」と態度を軟化させていた。ただK・I氏だけが意固地になっていた、いつもそうである。

彼がいつの日か背負っている何かの重しが取れて心が自由になった時に、改めてガラケーがいいかスマホにするかを聞いてみたいと思っている。勿論そんな日が、生きているうちにやって来るとして、であるが。

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