5 確定申告の税金をやっとこさ免れる
去年売り払った調布の土地代金が収入になるので、税金が100万単位でかかってしまう。これをなんとか節約する方法はないかと色々税金の特例を調べたら「居住用不動産の特例」というのがあった。住民票を移してから◯年以上住んでいないとダメだが、私は偶然にも何年か土地を売らなかったので、この特例に該当したのだ。目端の効かない私がお金に関することで「得をした」のは、後にも先にもこれが初めてである。柏市役所へ必要書類を取りに行ったら「本籍地でないと出せません」と、にべもなく言われてカッとなったが、ぐっと我慢して水戸へ向かった。本当に日本の官公庁は国民の利便性ということに無関心だ。というより無関心以前にバカにしているのが癪にさわる。ブツブツ言いながら水戸まで1時間の長旅を終えて「水戸市役所の出張所のプレハブ」にたどり着いた。
「確定申告用の書類をいただきたいのですが」と高らかに宣言すると、受付の女性職員が「市役所から取り寄せるので1時間ほどかかります」だと。喉から出かかった「何でそんなにかかるの?」の言葉を飲み込んで、私はしぶしぶ黙って待つ事にした。役人というものは上から下までマニュアル通りにしか動かない。誰がなんと言ったってマニュアルに書いてないことは「やってはならない」のである。そのマニュアルを作っているのが「定年間近の偉そうな上司」だから、いつまでたっても時代の技術的革新の恩恵を受けられないのは明らかだ。今じゃスマホのアプリでなんだってダウンロードできる時代だっていうのに、である。だが仕方ない、待つしか無いのだ。いちいち相手の決まり切ったお粗末な対応に反応するのが、僕の悪い癖(杉下右京風に)である。ところが10分も経たないで「出来ました」ときた。「なんだ、もう出来たのか」と驚いたら、笑顔で「空いてたみたいです」だって。なんだか女性職員の顔が美人に見えてきた。で、帰りはルンルンの特急に乗って「思いっきりぶっ飛ばして」家に着き、独りしんみりと祝杯をあげた。とりあえず必要書類は揃ったのだから、明日は税務署に行って確定申告を済ましてしまおう。
実際の申告作業は簡単すぎて拍子抜けがした。書類を入れた封筒を担当の人に渡して受け取りを貰い、仮の税金を納めればOKである。あとは追徴課税などが来ないことを祈るばかりだ。税務署というとなんだか恐ろしいところかと思いきや、やってみると同じ人間同士「アホな奴はアホ」という当たり前の結論に達した。どんな偉そうなところにいても、機転のきかない向上心の無い奴はダメなんである。で、公務員というのはその手の改革者を「従順な羊」に変えようと、周り中が日々虎視眈々と狙っっている「内向きの競争が激しい職場」だから始末が悪い、何をか言わんやだ。国民が暮らしやすくて役所の存在を忘れるぐらいの社会が来ないものかな。
なんにしても、これで両親が残してくれた財産は全て処分したことになる。「家」が何代も続いて、伝来の土地田畑・家屋や累代の家宝なんてのには無縁の天涯孤独の境遇に成り果てた自分には、刹那の喜びに彷徨って行き倒れになる根無し草の運命が相応しい、なんて感慨深げに夜空を見上げたら曇り空で何も見えなかった。ああ、月もとうとう我を見放したか・・・
4 揚げ物を完全に断って食を捨てる
少し太ってきたので、抜本的に食事を見直した。それが揚げ物を完全に断つという昔ながらのダイエットの王道である。何ら不思議でもなんでもなく、消費するカロリー以上に食べなければとりあえずは太らないだろうという計算だ。その一番の悪玉が「揚げ物」である。揚げ物は美味い。いくらでも食べられる。この喜びを断つというのだから尋常ではないのだ。カロリーというのは減らせばいいというわけではなくて、栄養のバランスも考えなければ「余計に病気を引き寄せる」ことになる。あーどうするどうする?と迷ったが、悩みは後回しにしてとにかくバッサリとやめることにした。止めてみたら案外簡単である、買わなきゃ良いのだ。揚げ物とコンビニ弁当と炭水化物を断って、肉と野菜中心の「原材料主義」に変えたら徐々にお腹が凹んできた。
料理の味を楽しむのは諦めて、味を求めるのは「日本酒」だけにした。楽しみを何にでも求めるのは、行きあたりばったりの出会い頭で最高の喜びを求めるような「ホームレスの浅知恵」である。私は健康を犠牲にしてまで美食を追求するほど「味覚が鋭い」わけでもないし、スーパーで売っている惣菜で十分満足出来る舌を持っているのだから、ここは「揚げ物を断っても」まだまだ食べ物に困ることはない。そう考えて実行して半月ほどになった。順調である。このまま揚げ物を断ったまま一生を終えるかどうかは未定だが、食に喜びを見出す方法はいくらでもあるから、これからも「ほんのちょっとした美味」に些細な喜びを見つけることにした。
理想は脂肪があっても体力がそこそこあってバリバリ活動できる体になることだから、じっとしていて「お腹だけが割れている老人」になっては元も子もない。動物はエクササイズなんかしないし、寝てばっかりいる猫だって「戦うときは敏捷なこと驚くばかり」である。やはり実際に運動にシフトして生活を組み立てなければ、活力のある老人にはなれない。それには動くこと、まず外に出て「しっかり獲物を探す」ことである。何も夜中に女を求めてストーカーになれというのでは無い、自分の興味の赴くところへ「躊躇なく出かけて探求する」ことである。それが果たして自分にとって何なのかは、GETした後でゆっくり考えればいいことでは無いだろうか、少なくとも「手にして見なければ分からない」ことって、世の中には山ほどあるらしいからね。評価する前に行動せよ!、である。
3 ブラックベリーを使いこなし幸せの絶頂へ
ブラックベリーの日本語環境が安定してきた。それとブラックベリーをパソコンのマイクロソフト・メディア・プレイヤーと同期して音楽ファイルを取り込むことが簡単に出来て、ほぼ完璧になったのだ。日本語の環境が整ってきて、ブログのスピードが格段に上がった事も一つの成果である。それに対して書く内容がなかなか追いつかないもどかしさがあるが、それは読んで欲しいとか人気が出て欲しいとかと言う「欲」が自分にもあって、何とか皆に受け入れられたいと願う気持ちが前面に出てしまった結果なのであろう。毎朝の朝食を食べながら「ブログの訪問者数とページビュー数」を確認するのが日課になっているが、なんだかんだ言っても「PV100を超えた日は相当気分が良い」のである(なんてみみっちい)。
私のスマホの使い方は文字入力を前提にした特殊な使い方なので皆さんの参考にはならないが、それでも「文章を打つ目的だけに特化したスマホ」がもっと発売されても良いような気がする。もちろん音楽やカメラも必要ではあるが、「完璧な日本語環境」というのが如何に重要であるかという「日本人の切なる願い」を取り上げるメーカーがあっても良いと思うのだ。絵文字やLINE文化で文章を書かない人が増えているそうだが、文字は人間同士のコミュニケーションツールとして最重要であることに変わりはない。自分の考えを誰かに伝えるということが、「人間の孤独を救う唯一の手段」である以上は、無くてはならぬツールである。それがブラックベリーでは「とんでも無くお粗末」なレベルだったので、毎日を日本語を入力するという作業と格闘しなくてはならず、ややもすると「うんざり」してしまって暗くなることが多々あったのだ。それが色々と試行錯誤して、「やっと使えるレベルのものになってきた」のである!
このブログも新しいアプリをインストールして「快適に」日本語を打っている。日本語を打つというただそれだけの作業がこれほど楽しいとは、もどかしい日々を経験したものでなければ分からないであろう。出来てしまえばいどうという事のない機能も、それを実現するまでには「膨大な苦労があった」に違いない。技術者に感謝である。「A・I」なんていう技術も、テレビや冷蔵庫並みに当たり前になる日がすぐそこまでやってきていると言う。何でも自動でやってくれるとらしいが、我々老人にはちょっとやりすぎな気もしないでもない。しかしこれも時代の流れだろう。色んな選択肢の中から一つを選んで「その選んだ機能を便利にする」のが我々には気持ち良いのだが、「その選択をも先読みして、黙って最適化・実行する」のが「A・I」なのである。日本語入力も「考えただけで入力できちゃう」のでは無くて、「考えなくても」自分の個性を発揮できる文章を勝手に考えてくれる「A・I」がいずれ出てくるようになるとしたら、ブログ作家なんてのも廃業である。私はそんな「A・I」の時代が来る前に「寿命が来てあの世に召される」のだから心配はしていないが。
2 リハビリの目標を完治に格上げする
私のリハビリを考える時、会社に復帰し、なんとか社会との接点を持ったことが非常に大きい。会社ではまだ通常業務をこなすまでにはいっていないが、体力の回復増強とともに徐々に仕事の内容も広がって、値札付けや受取伝票へのサインなどにもトライできるようになってきた。やはり人とのコミュニケーションを必要とする環境に居ることが、知らず知らずのうちに脳の神経全体の繋がりに良い影響を与えているのだろうと思う。言葉のリハビリも先生から卒業だねと言われて「少し寂しい」気もしたが同時にようやく麻痺から回復の一里塚を過ぎたと思い、やっとここまで来たかと嬉しかったのを覚えている。
体力は主にゴルフの練習で強化しているが、こないだ何とかショートコースではあるが実践も経験した。やはりコースへ出ることはモチベーションを高める上で必要である。これからは「更なる完璧なスイング」を目指し、飛距離も仲間たちと同じくらいまでに伸ばし、ついには来年ゴルフ本コースへの再デビューに向けての過酷なまでの練習を己に課して見ようかな、と思っている。そうすればリハビリの目標を「完治」に訂正する日も、もしかしたらやってくるかもしれない。なんという幸せ、なんという幸運。案外私は幸せ者なのかもしれない。
世の中には同じような境遇になっても麻痺が残り、杖をついたり片側が痲痺して動かなかったり或いは車椅子に乗ったままの人生を余儀なくされてしまった不幸な人も多い。私もリハビリ兼介護施設(デイケア)に通っていたが、そこにやって来る人達は皆、どこかしらに障害を抱えている人々であった。それぞれ明るく振舞ったり物静かに黙々とカリキュラムをこなしたり、或いはおしゃべりに一生懸命だったり様々である。スタッフも介護される側も誰も不平や文句を一つも言わないが、部屋を覆う重く暗い空気はいつも変わることはなかったのだ。言葉には出さないが皆「今の病状は、多少の改善はあってももう治らないことは承知している」のである。それは「絶望と諦めに打ちのめされた人々の慰め」に似た明るさである。
ある重度の障害の後遺症で車椅子を使わなければ移動できず、両手も思うように動かせない50歳代の男性と「言語リハビリ」のプログラムで一緒になった。彼は飲み込みも悪く、1時間ほどのコースの途中でも何回か咳き込んだり喉を詰まらせたり苦しそうだった。それでも彼の話ぶりは明晰で知識もあり、障害になる前はさぞかし有能な人だったのだろうなと思わせる落ち着きが感じられた。そんな人が何の病気かは分からないが一生を車椅子で過ごさなければならないとしたら、言葉をかけるのも憚られるような不幸である。思えば世の中にはもっとひどい境遇に苦しむ人も大勢いるのだから、自分なんか「まだマシな方だ」とつくづく思った。
私の会社のY部長なんかは家族が不平不満を言って来ると、もう退職したN部長の惨憺たる家庭を引き合いに出して「お前たちはまだいい方なんだぞ」と諭したと言ってカラカラと笑っていた。勿論それは冗談で済ませられる話だが、障害を抱えて生きなければならないと言うのは「本当に、人には言えない、また言ったところでどうにもならない救いの無い辛さ」があるのだ。だから私は幸せである、治る見込みがあるからだ。このまま何事もなく完治して、元の五体満足な自分に戻れたらどんなにか良いだろう。それが夢でも無いようなのだから嬉しくなって来る。その事を実感できたことが、私にとっては「大ニュース」なんである。
1 桐谷美玲の好感度がアップし過ぎで困った
今最も旬な女優でモデルの桐谷美玲は、意外と男っぽい「サバサバな性格の普通な女」だったってことが「今夜くらべてみました」で明らかになったのだ。今まではニュースキャスターなどにも挑戦して幅広い女優を目指すのかなと軽く考えていたが、ちょっと考え違いを訂正しなくてはいけないようだ。だいたい芸能界で売れていこうとする女優志望のタレントは、芸能プロダクションやプロデューサーなど自分をプッシュしてくれる人々に阿り、視聴者に媚びを売って「如何に自分を印象付けるか」に腐心するのが当たり前なのに、桐谷美玲は自然体で「それが無いか、または見えない」のである。
顔は「世界の最も美しい女性、100人中8位」にランクされて話題になったが、しばし冷静になって観察すれば「そんな言うほどでは無い」。体もガリガリで腕とか腿とかは魅力あると評するにはいささか細すぎるのだ。小顔だ小顔だと持て囃される顔の大きさだが、外人から見れば「標準」である(日本人のDNAは顔デカなのだ)。よくよく考えれば女としての魅力には「?」マークがつくレベルなのだが、それを補って余りある「男らしさ」が彼女にはあるのである。なのに高嶋ちさ子のような「勘違いの暴力ヤンキー」女と違って、立ち居振る舞いは立派に「女の子」なのだから、実に「今風の普通の女性」なのである。
自分を偽らずストレートに思った事を「しかし角を立てる事なく、落ち着いて素直に表現できる」性格は、マルチなタレントと相まって「これからの日本を引っ張っていく新しい顔」となることは間違いない。色々と今年の10大ニュースという事で書き連ねてきたが、最後に来て明るい話題で締めくくれたのは私としても嬉しい限りである。やはり世の中は男と女、年はとっても「女性への憧れは若い者にまだまだ負けてはいない」と張り切ってはみたものの、女性の側の意識は、昔とは大きく変わって来ているのでは無いだろうか。これからは女性も男性と同じ土俵で、普通に意見を交換して仕事をしていく時代である。
桐谷美玲のように「考え方は男と変わらない」女性がどんどん出て来て、社会の多くの分野で活躍する時が「とっくに来ている」のである。それに「気つかず」に、古い時代の女性観をいまだに持った「痛い昭和の人」にならないようにしなければ、世の中に取り残されて寂しい老後を送ることは必定である。それで自戒を込めて「桐谷美玲の時代についていく」決心をした、これが私の今年の10大ニュースの1番目である。人間と人間のコミュニケーションは時代とともに変化する。「それに気づく」かどうかで、人は試されているのである。そういう意味では「私は踏みとどまっている」つもりだが、果たして本当にそうなのか。
答えは来年以降に、自ずと出て来る筈である。アーメン、世の中が私を見捨てませんように!
以上、私の超個人的な100大ニュースでした。皆様の来年の一層のご活躍を祈念致しまして、今年のブログを終了させていただきます。それでは皆様、良いお年を!
去年売り払った調布の土地代金が収入になるので、税金が100万単位でかかってしまう。これをなんとか節約する方法はないかと色々税金の特例を調べたら「居住用不動産の特例」というのがあった。住民票を移してから◯年以上住んでいないとダメだが、私は偶然にも何年か土地を売らなかったので、この特例に該当したのだ。目端の効かない私がお金に関することで「得をした」のは、後にも先にもこれが初めてである。柏市役所へ必要書類を取りに行ったら「本籍地でないと出せません」と、にべもなく言われてカッとなったが、ぐっと我慢して水戸へ向かった。本当に日本の官公庁は国民の利便性ということに無関心だ。というより無関心以前にバカにしているのが癪にさわる。ブツブツ言いながら水戸まで1時間の長旅を終えて「水戸市役所の出張所のプレハブ」にたどり着いた。
「確定申告用の書類をいただきたいのですが」と高らかに宣言すると、受付の女性職員が「市役所から取り寄せるので1時間ほどかかります」だと。喉から出かかった「何でそんなにかかるの?」の言葉を飲み込んで、私はしぶしぶ黙って待つ事にした。役人というものは上から下までマニュアル通りにしか動かない。誰がなんと言ったってマニュアルに書いてないことは「やってはならない」のである。そのマニュアルを作っているのが「定年間近の偉そうな上司」だから、いつまでたっても時代の技術的革新の恩恵を受けられないのは明らかだ。今じゃスマホのアプリでなんだってダウンロードできる時代だっていうのに、である。だが仕方ない、待つしか無いのだ。いちいち相手の決まり切ったお粗末な対応に反応するのが、僕の悪い癖(杉下右京風に)である。ところが10分も経たないで「出来ました」ときた。「なんだ、もう出来たのか」と驚いたら、笑顔で「空いてたみたいです」だって。なんだか女性職員の顔が美人に見えてきた。で、帰りはルンルンの特急に乗って「思いっきりぶっ飛ばして」家に着き、独りしんみりと祝杯をあげた。とりあえず必要書類は揃ったのだから、明日は税務署に行って確定申告を済ましてしまおう。
実際の申告作業は簡単すぎて拍子抜けがした。書類を入れた封筒を担当の人に渡して受け取りを貰い、仮の税金を納めればOKである。あとは追徴課税などが来ないことを祈るばかりだ。税務署というとなんだか恐ろしいところかと思いきや、やってみると同じ人間同士「アホな奴はアホ」という当たり前の結論に達した。どんな偉そうなところにいても、機転のきかない向上心の無い奴はダメなんである。で、公務員というのはその手の改革者を「従順な羊」に変えようと、周り中が日々虎視眈々と狙っっている「内向きの競争が激しい職場」だから始末が悪い、何をか言わんやだ。国民が暮らしやすくて役所の存在を忘れるぐらいの社会が来ないものかな。
なんにしても、これで両親が残してくれた財産は全て処分したことになる。「家」が何代も続いて、伝来の土地田畑・家屋や累代の家宝なんてのには無縁の天涯孤独の境遇に成り果てた自分には、刹那の喜びに彷徨って行き倒れになる根無し草の運命が相応しい、なんて感慨深げに夜空を見上げたら曇り空で何も見えなかった。ああ、月もとうとう我を見放したか・・・
4 揚げ物を完全に断って食を捨てる
少し太ってきたので、抜本的に食事を見直した。それが揚げ物を完全に断つという昔ながらのダイエットの王道である。何ら不思議でもなんでもなく、消費するカロリー以上に食べなければとりあえずは太らないだろうという計算だ。その一番の悪玉が「揚げ物」である。揚げ物は美味い。いくらでも食べられる。この喜びを断つというのだから尋常ではないのだ。カロリーというのは減らせばいいというわけではなくて、栄養のバランスも考えなければ「余計に病気を引き寄せる」ことになる。あーどうするどうする?と迷ったが、悩みは後回しにしてとにかくバッサリとやめることにした。止めてみたら案外簡単である、買わなきゃ良いのだ。揚げ物とコンビニ弁当と炭水化物を断って、肉と野菜中心の「原材料主義」に変えたら徐々にお腹が凹んできた。
料理の味を楽しむのは諦めて、味を求めるのは「日本酒」だけにした。楽しみを何にでも求めるのは、行きあたりばったりの出会い頭で最高の喜びを求めるような「ホームレスの浅知恵」である。私は健康を犠牲にしてまで美食を追求するほど「味覚が鋭い」わけでもないし、スーパーで売っている惣菜で十分満足出来る舌を持っているのだから、ここは「揚げ物を断っても」まだまだ食べ物に困ることはない。そう考えて実行して半月ほどになった。順調である。このまま揚げ物を断ったまま一生を終えるかどうかは未定だが、食に喜びを見出す方法はいくらでもあるから、これからも「ほんのちょっとした美味」に些細な喜びを見つけることにした。
理想は脂肪があっても体力がそこそこあってバリバリ活動できる体になることだから、じっとしていて「お腹だけが割れている老人」になっては元も子もない。動物はエクササイズなんかしないし、寝てばっかりいる猫だって「戦うときは敏捷なこと驚くばかり」である。やはり実際に運動にシフトして生活を組み立てなければ、活力のある老人にはなれない。それには動くこと、まず外に出て「しっかり獲物を探す」ことである。何も夜中に女を求めてストーカーになれというのでは無い、自分の興味の赴くところへ「躊躇なく出かけて探求する」ことである。それが果たして自分にとって何なのかは、GETした後でゆっくり考えればいいことでは無いだろうか、少なくとも「手にして見なければ分からない」ことって、世の中には山ほどあるらしいからね。評価する前に行動せよ!、である。
3 ブラックベリーを使いこなし幸せの絶頂へ
ブラックベリーの日本語環境が安定してきた。それとブラックベリーをパソコンのマイクロソフト・メディア・プレイヤーと同期して音楽ファイルを取り込むことが簡単に出来て、ほぼ完璧になったのだ。日本語の環境が整ってきて、ブログのスピードが格段に上がった事も一つの成果である。それに対して書く内容がなかなか追いつかないもどかしさがあるが、それは読んで欲しいとか人気が出て欲しいとかと言う「欲」が自分にもあって、何とか皆に受け入れられたいと願う気持ちが前面に出てしまった結果なのであろう。毎朝の朝食を食べながら「ブログの訪問者数とページビュー数」を確認するのが日課になっているが、なんだかんだ言っても「PV100を超えた日は相当気分が良い」のである(なんてみみっちい)。
私のスマホの使い方は文字入力を前提にした特殊な使い方なので皆さんの参考にはならないが、それでも「文章を打つ目的だけに特化したスマホ」がもっと発売されても良いような気がする。もちろん音楽やカメラも必要ではあるが、「完璧な日本語環境」というのが如何に重要であるかという「日本人の切なる願い」を取り上げるメーカーがあっても良いと思うのだ。絵文字やLINE文化で文章を書かない人が増えているそうだが、文字は人間同士のコミュニケーションツールとして最重要であることに変わりはない。自分の考えを誰かに伝えるということが、「人間の孤独を救う唯一の手段」である以上は、無くてはならぬツールである。それがブラックベリーでは「とんでも無くお粗末」なレベルだったので、毎日を日本語を入力するという作業と格闘しなくてはならず、ややもすると「うんざり」してしまって暗くなることが多々あったのだ。それが色々と試行錯誤して、「やっと使えるレベルのものになってきた」のである!
このブログも新しいアプリをインストールして「快適に」日本語を打っている。日本語を打つというただそれだけの作業がこれほど楽しいとは、もどかしい日々を経験したものでなければ分からないであろう。出来てしまえばいどうという事のない機能も、それを実現するまでには「膨大な苦労があった」に違いない。技術者に感謝である。「A・I」なんていう技術も、テレビや冷蔵庫並みに当たり前になる日がすぐそこまでやってきていると言う。何でも自動でやってくれるとらしいが、我々老人にはちょっとやりすぎな気もしないでもない。しかしこれも時代の流れだろう。色んな選択肢の中から一つを選んで「その選んだ機能を便利にする」のが我々には気持ち良いのだが、「その選択をも先読みして、黙って最適化・実行する」のが「A・I」なのである。日本語入力も「考えただけで入力できちゃう」のでは無くて、「考えなくても」自分の個性を発揮できる文章を勝手に考えてくれる「A・I」がいずれ出てくるようになるとしたら、ブログ作家なんてのも廃業である。私はそんな「A・I」の時代が来る前に「寿命が来てあの世に召される」のだから心配はしていないが。
2 リハビリの目標を完治に格上げする
私のリハビリを考える時、会社に復帰し、なんとか社会との接点を持ったことが非常に大きい。会社ではまだ通常業務をこなすまでにはいっていないが、体力の回復増強とともに徐々に仕事の内容も広がって、値札付けや受取伝票へのサインなどにもトライできるようになってきた。やはり人とのコミュニケーションを必要とする環境に居ることが、知らず知らずのうちに脳の神経全体の繋がりに良い影響を与えているのだろうと思う。言葉のリハビリも先生から卒業だねと言われて「少し寂しい」気もしたが同時にようやく麻痺から回復の一里塚を過ぎたと思い、やっとここまで来たかと嬉しかったのを覚えている。
体力は主にゴルフの練習で強化しているが、こないだ何とかショートコースではあるが実践も経験した。やはりコースへ出ることはモチベーションを高める上で必要である。これからは「更なる完璧なスイング」を目指し、飛距離も仲間たちと同じくらいまでに伸ばし、ついには来年ゴルフ本コースへの再デビューに向けての過酷なまでの練習を己に課して見ようかな、と思っている。そうすればリハビリの目標を「完治」に訂正する日も、もしかしたらやってくるかもしれない。なんという幸せ、なんという幸運。案外私は幸せ者なのかもしれない。
世の中には同じような境遇になっても麻痺が残り、杖をついたり片側が痲痺して動かなかったり或いは車椅子に乗ったままの人生を余儀なくされてしまった不幸な人も多い。私もリハビリ兼介護施設(デイケア)に通っていたが、そこにやって来る人達は皆、どこかしらに障害を抱えている人々であった。それぞれ明るく振舞ったり物静かに黙々とカリキュラムをこなしたり、或いはおしゃべりに一生懸命だったり様々である。スタッフも介護される側も誰も不平や文句を一つも言わないが、部屋を覆う重く暗い空気はいつも変わることはなかったのだ。言葉には出さないが皆「今の病状は、多少の改善はあってももう治らないことは承知している」のである。それは「絶望と諦めに打ちのめされた人々の慰め」に似た明るさである。
ある重度の障害の後遺症で車椅子を使わなければ移動できず、両手も思うように動かせない50歳代の男性と「言語リハビリ」のプログラムで一緒になった。彼は飲み込みも悪く、1時間ほどのコースの途中でも何回か咳き込んだり喉を詰まらせたり苦しそうだった。それでも彼の話ぶりは明晰で知識もあり、障害になる前はさぞかし有能な人だったのだろうなと思わせる落ち着きが感じられた。そんな人が何の病気かは分からないが一生を車椅子で過ごさなければならないとしたら、言葉をかけるのも憚られるような不幸である。思えば世の中にはもっとひどい境遇に苦しむ人も大勢いるのだから、自分なんか「まだマシな方だ」とつくづく思った。
私の会社のY部長なんかは家族が不平不満を言って来ると、もう退職したN部長の惨憺たる家庭を引き合いに出して「お前たちはまだいい方なんだぞ」と諭したと言ってカラカラと笑っていた。勿論それは冗談で済ませられる話だが、障害を抱えて生きなければならないと言うのは「本当に、人には言えない、また言ったところでどうにもならない救いの無い辛さ」があるのだ。だから私は幸せである、治る見込みがあるからだ。このまま何事もなく完治して、元の五体満足な自分に戻れたらどんなにか良いだろう。それが夢でも無いようなのだから嬉しくなって来る。その事を実感できたことが、私にとっては「大ニュース」なんである。
1 桐谷美玲の好感度がアップし過ぎで困った
今最も旬な女優でモデルの桐谷美玲は、意外と男っぽい「サバサバな性格の普通な女」だったってことが「今夜くらべてみました」で明らかになったのだ。今まではニュースキャスターなどにも挑戦して幅広い女優を目指すのかなと軽く考えていたが、ちょっと考え違いを訂正しなくてはいけないようだ。だいたい芸能界で売れていこうとする女優志望のタレントは、芸能プロダクションやプロデューサーなど自分をプッシュしてくれる人々に阿り、視聴者に媚びを売って「如何に自分を印象付けるか」に腐心するのが当たり前なのに、桐谷美玲は自然体で「それが無いか、または見えない」のである。
顔は「世界の最も美しい女性、100人中8位」にランクされて話題になったが、しばし冷静になって観察すれば「そんな言うほどでは無い」。体もガリガリで腕とか腿とかは魅力あると評するにはいささか細すぎるのだ。小顔だ小顔だと持て囃される顔の大きさだが、外人から見れば「標準」である(日本人のDNAは顔デカなのだ)。よくよく考えれば女としての魅力には「?」マークがつくレベルなのだが、それを補って余りある「男らしさ」が彼女にはあるのである。なのに高嶋ちさ子のような「勘違いの暴力ヤンキー」女と違って、立ち居振る舞いは立派に「女の子」なのだから、実に「今風の普通の女性」なのである。
自分を偽らずストレートに思った事を「しかし角を立てる事なく、落ち着いて素直に表現できる」性格は、マルチなタレントと相まって「これからの日本を引っ張っていく新しい顔」となることは間違いない。色々と今年の10大ニュースという事で書き連ねてきたが、最後に来て明るい話題で締めくくれたのは私としても嬉しい限りである。やはり世の中は男と女、年はとっても「女性への憧れは若い者にまだまだ負けてはいない」と張り切ってはみたものの、女性の側の意識は、昔とは大きく変わって来ているのでは無いだろうか。これからは女性も男性と同じ土俵で、普通に意見を交換して仕事をしていく時代である。
桐谷美玲のように「考え方は男と変わらない」女性がどんどん出て来て、社会の多くの分野で活躍する時が「とっくに来ている」のである。それに「気つかず」に、古い時代の女性観をいまだに持った「痛い昭和の人」にならないようにしなければ、世の中に取り残されて寂しい老後を送ることは必定である。それで自戒を込めて「桐谷美玲の時代についていく」決心をした、これが私の今年の10大ニュースの1番目である。人間と人間のコミュニケーションは時代とともに変化する。「それに気づく」かどうかで、人は試されているのである。そういう意味では「私は踏みとどまっている」つもりだが、果たして本当にそうなのか。
答えは来年以降に、自ずと出て来る筈である。アーメン、世の中が私を見捨てませんように!
以上、私の超個人的な100大ニュースでした。皆様の来年の一層のご活躍を祈念致しまして、今年のブログを終了させていただきます。それでは皆様、良いお年を!
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