明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ベートーベンの後期作品、その秘密

2018-12-25 20:25:34 | 芸術・読書・外国語
前略、ベートーベンは耳が聞こえなかった。だから聞こえている間に覚えた楽想を「展開・深化させる」以外に、新しく音楽を生み出すことが出来なかったのである。これが今回のテーマだ。勿論、私の思いつきである。

モーツァルトもショパンもシューベルトも早死したが、年と共に彼らはどんどん深みを増し清らかになって「真の楽想」と言えるメロディを世に送り出した。それは一般大衆に向けた華やかな甘いメロディを卒業し、より個人的な内面に向かって突き詰めていく「神の領域」、そこに到達するべく努力が実を結んだ「創作の数々」である。だがベートーベンは努力はしてたが、肝心の「楽想が枯渇」してしまったのだ。彼の脳の「音の倉庫」には、新しい音楽に使えるような「新しい音」はなかったのである。それは音楽に不可欠な「緩徐楽章」を一度でも聞けば、一目瞭然である。つまり、皆「似たようなメロディの繰り返し」しかないことに気がつくのだ。

音楽とは感情や思考や発見を「音で伝える芸術」である。画家が目が見えなくなるのと同じように、音の聞こえない音楽家は「新しい音を聞くこと」が出来ない。これは逆説的に聞こえるかも知れないが、作曲者側が新しい感情や思考や発見をしたことで「新しい音が聞こえてくる」のである。音そのものはずっと昔から存在するのであるが、それまでは「聞こえていない」のである。文学者が新しい事を考えつくと同時に「新しく文章が生まれるように」、作曲者は表現するものと同時に音が頭の中に閃いてくる。いままで無かった音が「新しく響いてくる」のである。音を媒介として色々な感情表現を日常的に取り込んでいる音楽家が、「何か自分の内側から表現しようとする」時に使うストックが、彼の脳の中には蓄積されているはずである。音楽が一つのコミュニケーションの道具であるなら、必ずや音楽も人に理解される形式で発信される。芸術には最低限、自分と理解者(すなわちそれを見ているまたは聞いている人)の二人が必要だ。この場合の理解者は、「架空の存在」でも可能である。とにかく全ての作品は「誰かに語りかける」ものでなければ成り立たない。例えば「愛してる!」と言葉で表現するような瞬間に音楽家は「音でコミュニケーション(愛してる、というのに似た感情)する」のである。勿論それは「愛してる!」ではなく、もっと別の感情、それは「音でしか表現し得ないもの」の何か、である筈だ。モーツァルトがアヴェ・ヴェルムで示した天上の音楽は、そんな言葉では表し得ない美しさがある。それは誰も聞いたことのない美しい和音なのに、誰もが耳にすると途端に「その美しさに魅了」されるのである、不思議ではないか。早熟の天才という言葉があるが、若い詩人または音楽家やミュージシャンが新しい画期的な芸術ムーブメントを巻き起こす時、それは全く新しい音なのだが「実際に彼らには聞こえている」音で作られていて、発せられたメッセージはすぐさま聴衆を虜にしてしまうのである。我々には聞こていない言葉や音が、彼らの手にかかると芸術として形になるわけだ。不思議である。

私は、どんな天才も「聞いたことのない音は使えない」と考えた。想像してみてほしいが、宇宙人を描いたどんな絵でも「何かの生き物の延長上」にあることがわかるだろう。今まで見たこともない全く奇怪で意味不明な宇宙人の絵などは、私は見たことがない。だいたいタコやクラゲのような海の生物か、手足の極端に細い小人か昆虫のようなものか、何れにしても「ある程度、生物であることが想像出来る」範囲の絵である。人間の想像力というものは「見てないものは書けない」のだ。これは中国の切り立った山々の山水画が実際に存在することをテレビで見て考えた事である。つまり全体そのものはあり得なくても、パーツ一つ一つはよく知っているものを組み合わせたのが「新しい絵」になる。その新しい組み合わせというものが、「ありえない幻想的な作品」になるのだ。芸術は「組み合わせの創造」で作られる。

つまり、ベートーベンは「新しいパーツ」を自分の楽想に取り込むことができなかった、だから新作が作れなかったのである。防音の部屋に長いこと籠って音楽作曲してる人がいるとして、その音楽がどんどん難しい晦渋な音楽になってくるのは何となく分かる気がする。特に彼は分かりやすいメッセージを伝えるのが得意な「キャッチーな楽想の作曲家」だった。運命にしても熱情にしても、インパクトある楽想を「類まれなパッセージ処理」で見事に曲に仕上げた才能は、まさに天才と呼ぶに相応しい存在である。それが似たようなメロディをいつもいつも作っているのだから、「難解になるのも当たり前」ではないだろうか。交響曲最後の第九は「奇跡的に終楽章で合唱を入れた」から分かりやすかったが、それまでの後期作品は「若い頃の彼の音楽」の焼き直しであり、新しいものはまるで無い。私はそれらの作品群が、素晴らしく緻密に構成された音楽であることを否定するつもりは毛頭ないが、もう聴くひとを「想定していない」音楽であり、コミュニケーションというには余りにも内省的独白的な理論で固められた、「音楽ではない、音そのもの」であるように感じる。もう彼には音でコミュニケーションすることは不可能だった、というのが私の結論である。しかし音楽はコミュニケーション・ツールである。だから無理やり作ろうとしたものは全て、「すでに彼が作ってしまったものの焼き直し」になるしかなかったのである。勿論だからと言ってつまらない作品だという訳ではない。後期作品に見られる曲のあちこちに散りばめられたパッセージはどれも「良く練りこまれた珠玉の逸品」であるのは間違いない。ピアノソナタ第31番終楽章のフーガは、私の大好きな曲である。

まあ誰でも年を取ると「青年時代に作った輝かしい音楽」を再演して御茶を濁すだけになってしまいやすいのだが、ポップスの世界でも「新作は作られない」ようだ。早死のために老年の作品がどうなっていたか我々にはもはや想像することしか出来ないのだが、モーツァルトやショパンやシューベルトは逆に言えば楽想の枯渇といった不名誉な自体は避けられて「幸せだった」のかも知れない。モーツァルトは「唯一無二の大天才」であったから、万一枯渇してたとしても、それを感じさせないだけの質と量の作品をリリースし続けていただろうことは保証できる。しかしベートーベンの場合は歳をとって行くに従って、作品が新味のないものになっていったのである。これは年齢と言うより「耳が聞こえなかったせいだ」と私は思いたい。あれほどの天才である、年齢で楽想が枯渇するとはとても思えないのだ。現に作曲技術は最高度にまで進化し続けている。然るに、・・・である。残念なことに、新しい楽想が「聞こえなかった」のである。

人は音を「外部からのメッセージ」として捉える。内部から出す時も覚えていて「保存している外部メッセージ」を「再現して伝える」だけである。音を聞くと「それに表現されたもの」を思い浮かべることで、コミュニケーションが出来上がる。しかし音楽家のそのまた一部の人だけが、「新しい感情を表現するために、新規に音を組み合わせて作り出し」外に発信する事が出来るのだ。受けるだけの人と、自分で作れる人の違いである。この2つは「厳然と別れて」いる。それが創造という作業なのだ。人はその何かの感情が「音楽として表現されるまでは」、自分たちの中にも同じ感情があることを知らない。だから音楽表現を聞いた瞬間に、理解し熱狂する。コミュニケーションである。パーツは既知のものであるが、組み合わせが「全く新しい」から分かるのだ。

長々と説明をしてきたが、音楽家と言えども「聞いたことがない音」は使えない。ジョージ・ハリスンがシタールを取り入れた曲を作れたのは、実際にシタールの音を聞いてしばらくしてからの事である。ポール・マッカートニーがペニーレインで使用した「バロックトランペット」は、ジョージ・マーティンの影響があると言われている。何かを聞いているから「何かを想像できる」のである。つまり、ベートーベンは新しく自分の音楽に影響を与えるような「刺激=音」を得ることができなかったために、彼の音楽が枯渇してしまった。これが私の結論である。ご賛同いただけたでしょうか。


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