今朝遅く起きたが寝足りないのか、お昼になってまた少し寝てしまった。丁度その時インターネット回線の接続が悪くて、ルーターやタブレットを何度か再起動して接続し直したが、このトラブルで逆にすっかり目が覚めた。怪我の功名である。コロナが収まりつつあって東京都の新規感染者数も87人と激減しているせいか、テレビ番組もどこもつまらないものばかり。観る気がしないので録画のバティアシュビリの演奏を観ることにした。曲目はフランスの作曲家サン=サーンスの3番である。大体19世紀全盛のオーケストラ主体の大規模な作品というのは簡単に言えば「映画」のような構成になっていて、スリルとサスペンスの筋立ての中、愛し合う者同士が苦難を乗り越えて最後に結ばれるというのがお決まりのお約束であると思っている。中にプッチーニのように、主役級の登場人物が必ず死ぬ設定という恐ろしいのもあるが、要するに「感情を極度に高める手法」として、観客に揺さぶりをかけるのである。これを一般的には「ドラマチック」と呼ぶ。
つまり「ストレス」があってこそ、「解放の喜び」も一入(ひとしお)というわけだ。面白い映画は導入部分からしてノンストップでスリリングな展開にグイグイ引き込まれていく。単にストレスを与えるにも「計算された緻密な伏線」があってこそ、それを観る観客は「この先どうなるのだろう?」とドキドキ・ハラハラが止まらないのだ。これは作者の最も描きたかった「最後のシーン」への周到な準備であり、実は映画の出来不出来は「この準備」にかかっていると言っても過言ではない。そもそも他人に何かを伝えようとする場合には、どうしても避けて通れない「必要な作業」である。なぜなら当然他人は「作者の意図」を知らないで作品を観るわけだから、まず他人=観客を通常の状態から一旦「解決を求める飢餓状態」に落とさなければならない。私はこれを「勝手に問題意識を持たせる」やり方、と解釈した。例えば第三者の理不尽な行為の結果、主人公が一見脱出不能な窮地に追い込まれてしまう、といったストーリーである。大体の観客は、とてつもない困難を主人公の英雄的な決死の行動で見事解決するストーリーが好みである。私の好きなダーティー・ハリー」シリーズや「ランボー」シリーズなど、男の子が好きそうなヒーロー物の作品は皆大体そうである。
それを踏まえてサン=サーンスを聞いてみたが、どうしても私には理解できなかった。つまり導入部分の肝心の問題意識が「?」のままだったのだ。これは一体何だろう?、とバティアシビリの演奏を「見て」いたのだが、とうとう途中で諦めて止めてしまった。私にはサン=サーンスはよく分からない作曲家である。なぜと言って一番大切な「感情」が、一向に湧き出てこないのである。当然、感情が湧き出てこなければ、「感動」などは有りうべくも無い。だからバティアシビリも「評価不能」のままである。勿論、NHKが放送するんだから、それなりに優秀な演奏家であることは間違いないのだが、まあ「もっと彼女の演奏を聴いてみたい」とはならなかった。
そこで口直しに、以前から録画で取ってあるコパチンスカヤのチャイコフスキーを聞いてみた。もう最初の出だしからして「涙が止まらない」。これは直前にサン=サーンスで散々不完全燃焼した反動だろうか、こういう「プログラムの妙」っていうのもアリだなとは思ったけど。まあコパチンスカヤは単なる口直しだから、ちょっと聞いて泣くだけ泣いたらもうお役御免である。第一楽章の触りを聞いてやめたわけだが、流石にチャイコフスキーは偉大なストーリーテラーだなと感心した。「ストレス」をかけるにしても、サン=サーンスのように「訳がわからない不安」に観客を置くのではなく、定番のストーリー展開、例えば裕福で何不自由ない幸福そうな家庭が、一瞬にして「誘拐犯の卑劣な手口」によって、悪夢のどん底に突き落とされる、と言った類の「分かりやすい善と悪の対立」である。しかもチャイコフスキーは、この難題を解決した後に訪れるであろう「愛情と安堵」を美しい旋律によって「チラ見せ」する、という手法によって一層ドラマチックに仕立て上げている。しかもコパチンスカヤの舞台映えする熱情的演奏が拍車をかけて、観客が総立ちになる程の「感情の爆発」が沸き起こるのだ。うーむ、こりゃ完全にしてやられたと感心した。これは完全に「サッカーのチャンピオンズリーグの試合を見ている感覚」と一緒の興奮である。
私が今ひとつチャイコフスキーを評価しないのは、こういうところが「あまりに演出が過ぎる」からである。有名なピアノ協奏曲でも同じことが言えるわけで、前振りの出来がいいのに比べて「最終楽章の幸福感」がやや物たりないのだ。勿論、最後にハッピーにならなくてはいけないわけではない。求め続けていた幸せが「スルリ」と手の間から逃げていった悲しみでも、一向に構わない。ただ最低限のルールとして、その描かれた幸せが「真実に心に迫ってくるもの」であることが条件である。そこに到達できるかどうかは、むしろ関係ない。欲しいのは「真実の愛」である(ちょっと青臭いことを書いてしまった。反省しきり)。
世に溢れているヒットソングが大体3分ぐらいでサビを2回ぐらい繰り返しているのもこの理由による。観客の求めているのは「心に響くメロディ」である。それを上手に配置して覚えやすい長さの楽曲に纏めると、ヒットソングになる。これがフルオーケストラで1時間以上演奏しなければ味わえないのでは、非効率極まりない。私はベートーベンの第九交響曲を全曲通しで聴いたことは無いが、あれを年末の恒例行事にしたのはクラシック業界の「世紀の妙案」だろうと密かに思っている。あんな巨大で退屈なものを年中不定期にやられた日にゃ、いくらクラシックファンといえども「音を上げる」だろうと思うのである。これを年末に持っていって、音楽を楽しむというよりは「ハロウィン」などの一種お祭り騒ぎに仕立て上げたのは、業界の「素晴らしいアイディア」だと感服するしかない。
私が言いたいのは、素晴らしいメロディと言ったって長さに限度がある、ということである。精々3分がいいところなんじゃないだろうか。クラシックの歌曲にしたってそんな物である。観客は酔えるメロディを求めている。ではそのための感情を高めるのには、どうしても準備がいるのだろうか。つまり私がいうところの「わざわざ作者の設定した問題意識」を持ち込まなけりゃ感情は高まらないのか?、という作曲技法の問いかけである。全てのストーリーは繰り返すことによって「色褪せて」くる。同じ推理ドラマを「2度みる」人は余りいないだろう。だが気に入った美しいメロディ=ヒット曲のサビは、何回聞いても飽きることはない。これが芸術の「芸術たる所以」だと思う。美しいものは「説明や前振り」が無くても、同じようにいつも輝いているのである。モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム」の天上的な和声と転調の美に一体何度泣かされたことか。シューベルトの即興曲 D.899 の3番も、すべて美しいメロディに溢れている。エルガーの愛の挨拶も美しく「幸せに満ちている」楽曲だ。それに比べるとベートーベンの第九の最終楽章は、「いかにもメロディ無しで、ダサダサ」に感じてしまう。我々は感動するために音楽を聴いている。それには説明も勝手な問題意識の前振りもコケ脅しの爆音もいらない。美味い料理を食べるために「わざわざ不味い料理を食べる必要はない」のである。勿論、人間は比較する生き物である。不味いものを食わされた後には、普通のものでも「美味く感じる」ことはあるだろう。コンサートプログラムなどでは「そういう演出」もよく見かける手法である。だが最後に持ってくるのは、大抵は「最も自信のある」メインの楽曲だと思う。
今回は考え考えダラダラと書き殴ったので思いつくままの中身の薄い記事になってしまったが、言いたいことはただ一つ、本当の素晴らしい音楽はストレートに「そのまま」を出して、尚且つ「全ての感情が解放される」カタルシス効果を与えてくれる楽曲だ、ということになるだろうか。別にこれはたいそうなことでなくて、日々いろいろなシーンで聞く曲を「ちょっと立ち止まって」考えてみれば分かると思う。ああ、この部分は「サビに向けての準備」なんだなとか・・・。それが単なる「準備」であればあるほど、楽曲としての完成度は「低い」。そして、サビのメロディが「耳に心地よいけど、感情を揺さぶるほどではない」場合も、然りである。やっぱり感情を昂らせてくれなければ「カタルシス」は得られない。まあ、実際毎日毎日カタルシスってのも「しんどい」から、普段は軽く流すことが多いだろうが。それにしても最上のものは、自然と「行き詰まった」時に聞きたくなることが多く「取っておきの一曲」って感じになるのだ。クラシックは一応長時間身構えて聞くことが多いから、自然と「曲に対する評価がシビア」になるのは仕方がない。そんな中でもどちらかと言えば私は、古典音楽の「準備なしのストレートさ」が好きである。ロマン派以降はどうしてもストーリー性に拘って、肝心の「幸せの描き方が絵空事っぽい」のが嫌である。まあそこがロマン派たる所以なのだが。
最終的に私は音楽には「日常にある極上の美」を求めているのかもしれない。バッハの「G線上のアリア」なんか最高だけど(ウィルへルミの編曲版なんかじゃ無くて、管弦楽組曲の原曲版がお勧めだ)。結局私は、「バッハの静謐さ」に最高の癒しを求めてしまうみたいである。
P.S. :私は最近ポピュラーソングのヒット曲を Spotify のプレイリストに入れて聴いて楽しんでいる。もち、無料だ。watappon というプロフィールで公開しているので、興味のある方は聞いてみてください。昭和歌謡や往年の洋楽ヒットを中心にした、私の大好きな曲を集めたプレイリストです。
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